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白石城
関連ページのリンク  2005/04/14の日記  花園城  花園御嶽城  鉢形城  金尾城 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ2 交通利便3 体力消耗4 歴史経緯2 印象2 総合17
所在地
埼玉県児玉郡美里町大字白石1840
歴史と沿革

■「新編武蔵風土記稿」では白石村の条に「古城蹟 村の東にあり、およそ八反ばかりの地にて、土居の跡など少なく残り、これ白石播磨守の居住のちなりと云、今は林となりて...」と、当時における地元の伝承が記されている。また、「町史」によれば周辺には「早道場」「調馬場」などの伝承地もあり、宗清寺の中興開基として、宗清の墓石も存在しているが白石播磨守宗清の事蹟については解明されていないとのことである。また、白石氏は諸説があるものの猪股氏を出自とする岡部氏から分かれており、後北条氏支配の時代には後北条方の城として守りを固め、天正11年宗清の死により宗綱が家督を継ぎ、鉢形城の支城として八幡山城との中継点としての役割を果たしていたと推測している。
■なお、北条氏邦の天正10年(1582年)2月25日の印判状、天正14年(1586年)3月13日定書に鉢形衆の有力家臣団である秩父衆の頭領秩父孫次郎の寄子として白石氏の記述がある。前者の印判状は秩父衆139名の兵役動員を定めたもので、「壱本 鑓、壱丁 鉄砲横物、壱騎 馬上、三本 鑓、以上六人、白石代」と記されている。次に定書は鉢形城内の秩父曲輪の維持管理分担を定めたもので、「拾間 白石」と記されている。
 しかし、この白石氏が那賀郡白石氏か秩父郡白石氏かという問題が発生してくる。「美里町史」では「那賀郡白石氏」つまり美里町の白石氏であると推定しているが、秩父衆という地縁的な結合を考えた場合には些かの疑念が生じる余地もあるのではないだろうか。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■標高139.23m、比高24mの丘陵上に作られた平山城で、地元では城山と呼ばれているという。北側は白石川が東流し、南北は水田などの農地が広がる。大きさは東西250m、南北80mの規模であった。郭は東西の二ヶ所であり東側の部分が主郭と考えられている。
 なお、1977年の発掘調査により柱穴列、薬研堀などが確認され、出土した陶磁器などの遺物は15世紀後半から16世紀前半を示しているという。(「美里町史」等より)

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「美里町史 通史編」(1986/美里町)町内の中世城館跡や在地領主の記載が比較的詳述されている。   

文化財指定
訪城年月日
2005/04/14
訪城の記録

( 2005/04/14 )
削りとられた城跡
 場所自体もあまりよく分からず、土砂の採掘によりかなり破壊がすすんでいるとのことでしたが、確かに西側部分では半分ぐらいが削り取られているように思えました。また、中腹より下部は全体的に篠竹が密生していて、何とか切り落し部分らしきものと、構堀の一部らしきものを確認できただけで全体としての状況を掴むまでには至りませんでした。
 しかし、あとで位置関係などを照合してみると、現在平地となっている職業センターの場所も元来は丘陵地帯に含まれていて、早い話しが城跡自体がそっくり削り取られているような状況のようです。したがって、遺構らしき地形のある部分も本来の城跡部分よりも北東側に100mほど離れており、全く関係のないものかもしれません。
 「町史」によると、この付近の粘板岩質の土は工業用の資源として利用できるために削りとられたとのことでした。

Best Shot?



 職業センターの建物のあった場所もかつては丘陵地帯だったらしく、城跡の遺構のあった部分は殆ど削り取られて跡形もないようです。仕方がないので遺された丘陵を撮影することにしました。
 ( 2005/04/14 撮影 晴 )
交通アクセス

・国道254号線の美里町内野中交差点から西へ500mの大沢小入口の信号を左折し小河川を渡河した後、大沢小学校の手前を右折。約1km先の右側の丘陵の西端部分で美里町の職業センターの東側に見える土砂の採掘跡がある丘陵。
いつもガイド の案内図です 地図


( 2005/04/14 撮影 )

■南側から見た白石上のあった丘陵地帯。城跡は左側の方にあったということですが。
■西側からみた白石城跡。城跡は大半が掘削されて平地となり、どうやら写真を撮影している足元あたりが本来の城跡らしいのですが。
■本郭跡の北東側に遺された丘陵の部分に何か痕跡ぐらいはないものかと、藪の中を枯れ枝を除けながら登っていくと、頂点部分に構堀のような人工的な溝が南北に15mほど遺されいるのを見つけました。
 深さは80cmぐらいですが、本来の以降の位置と離れているようですし、比較的新しそうにも見えますので当時のものではないと見るべきでしょうか。
■さらにこの丘陵を東側に下っていくと、またも長さ20m以上、高さ2mほどの人工的な切落しを感じさせる斜面がありましたが、これも単に気のせいでしょうか。
■堀切のような溝と切落としのような地形が確認できた白石城の本郭跡から北東側に伸びる丘陵。
■なかなか趣のある峠道。この小さな峠を越えると左側の丘陵が見えます。
 
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