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金窪南城
関連ページのリンク  2005/05/07の日記  雉岡城               
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合25
所在地
埼玉県児玉郡上里町大字金窪字松原701
歴史と沿革

■「新編武蔵風土記稿」にも金窪城についての記述はあるが、こちらの城跡の記述はなくほかの文献にも登場してはいないため不明な部分が多い。なお、上里町は武蔵七党の丹党の出身地であり、今も大字名にその名をとどめる「勅使河原氏」「安保氏」「長浜氏」など平安末期から南北朝の頃までに活躍した一族を輩出した。この城跡も当初はそうした武士の館から戦国時代に次第に拡充されていったたものかもしれないが、そうした史料もまた見当たらないようである。

確認できる遺構
土塁、空掘か?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■梅沢氏の下記の著書によれば、遺構の規模は東西100m、南北120mで、角落しのある東側の土塁は出枡状であることを記している。
 城跡は旧中仙道を挟んで金窪城の南南西約600mに位置し、このことから金窪城との関連がかなり深いものと思われるが、そうした関係を明らかにする史料は見当たらない模様である。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「上里町史 通史編上巻」(1996/上里町)
「上里町史 資料編」(1992/上里町)
「上里町史 別巻」(1998/上里町)
このほか「上里町役場のホームページ」を参考にさせていただきました。

文化財指定
訪城年月日
2005/05/07
訪城の記録

( 2005/05/07 )
「角落とし」の土塁が意外なほど分かりやすく遺されてはいますが...
 金窪南城は雉岡城の北方約五キロメートルぐらいに位置し、国道十七号線のすぐ北側の陽雲寺の境内の北側に土塁と空堀の一部らしきものが残されています。特に北東側の土塁は高さこそ1.5mもありませんが、下記の写真のように「角落とし」が思いのほか綺麗な形で残されています。遺構は一部が寺や民家の通路により分断されていますが、南朝の忠臣畑時能を祀った祠やその遠い子孫とされる旧帝国陸軍元帥の畑俊六の墓石などもあったりして、殆ど期待しないで訪城した分だけ思いがけない収穫を得ることができました。また、北側と東側にも土塁跡があったのですが、残念ながら生垣に囲まれておりどうにも撮影の仕様がありませんでした。
 ただし下記のように南東側に豚舎があり、嗅覚の鈍感な自分でも五月の上旬でやや厳しいものがありました。従って、嗅覚の敏感な方は夏季は特に避けたほうが宜しいようです。

Best Shot?

 陽雲寺境内の北東部分に遺されている「角落としのある土塁」は、写真からでもすぐ分かるように思いのほかきれいな形で存在していました。先端の張出している部分が東側で、見方によっては出枡形土塁のようにも見えます。また土塁の左側にはかすかに空堀跡のような窪みが確認できます。また、写真の手前の部分で土塁が切れていますが、本来は写真の左方向に更に30メートルほど土塁が伸びていたようです。
 寺では丁度法要の真っ最中でしたが、養豚場の方からもかなり臭気が漂っていて、線香の香りを消し去っていました(^^;
 ( 2005/05/07 撮影 晴 )
交通アクセス

・JR高崎線神保原駅より徒歩25分MapFan Web の案内図です  


( 2005/05/07 撮影 )

■埼玉県の文化財に指定されている祠と銅鐘の説明板。
 畑時能は武蔵国秩父郡の出身で、新田義貞や脇屋義助の家臣として転戦し、南朝方の敗色の濃いなかを越前鷹巣城を堅守したが、暦応4年(1341年)に斯波高経との伊知地山の合戦で深手を負い死亡した。太平記の隠れたヒーローの一人でもあるようです。
■正面にある小さな石の祠が南朝の忠臣畑時能の供養祠と伝わっているもので、1963年に埼玉県の旧跡に指定されている。
 なお、右側の丈の高い石柱は畑時能の血筋を引くとされる旧陸軍元帥畑俊六(1879〜1962年)の記念碑。参謀本部第一部長、航空本部長、教育総監など陸軍の要職を経て侍従武官長、陸軍大臣、支那派遣軍総司令官などを歴任したが、敗戦後はA級戦犯として終身刑に処せられた。
 過去の歴史問題を半ば棚上げして継続していた日中の経済的な友好関係に翳りが見られる昨今、中国などが主張する「歴史問題」「歴史認識」を掘り下げれば、この記念碑だとて外交的な批判の対象になる訳です。このような地域的な庶民レベルでの歴史認識を改めるということになると、もはや現時点ではそう簡単なことではありません。そういったことを普く相手側に理解してもらうためには、最終的にはそれこそ再び戦後の混乱期から平和民主主義立国の方針に基づいて一からやり直さなければならなくなります。従って、そのことが現実的に不可能である限り、国家の外交的的立場としては最終的な理解が得られないのは当然のことかも知れません。
■下の写真の左側の土塁を北側から撮影したものですが、この辺りの土塁の高さが最も低く60センチから80センチという所です。
■左下の写真の右側の土塁を東側から撮影したものですが、奥に進むに従って幾分土塁の高さが高くなり、空堀跡と思われる窪みからの高さは1.5m近くになります。
■北東の土塁の角部分を撮影したもので、左が東側、右が北側の土塁ですが、この辺りの土塁の高さは1mにも満たないため寺院の境内の庭園の造成のようにも見えるので、ある程度注意していないと見落とす恐れがあります。
■近世の五街道の一つ中仙道の説明版が上里町の賀美公民館前に建てられていましたが、どうやらこの車2台がすれ違える程度の道が旧中仙道のようです。この場所から群馬県までは神流川を挟んで僅か1.5kmほどです。
 説明版をよく見るとなにやら怪しい人影が映っていますが、しかしよく考えるとそれは自分の姿でした(^^;
 
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