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用土城
関連ページのリンク  2005/04/14の日記  花園城  花園御嶽城  鉢形城  金尾城   白石城     
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ4 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合21
所在地
埼玉県大里郡寄居町大字用土字北沢
歴史と沿革

■用土は古来用土原といわれ元弘・建武時代、長尾景春の反乱の時などに合戦が行われた地域であり、それまで上杉家の有力家臣であった藤田康邦が、川越夜戦で上杉方が敗北した天文15年以降に後北条氏に降り、北条氏邦を養子として受け入れ ( 事実上の藤田家の乗っ取り ) この用土に城を構えて隠退し、また用土新左エ門とその名も改めた。なお、「新編武蔵風土記稿」によれば廃城となったのは長男重連の死亡の時か、家康の関東入国以後かは不祥であるという。
■藤田氏について
 しかし、「管窺武鑑」(上杉記、謙信記とも)によると天正6年(1578年)に沼田城代の役職問題に絡み氏邦は義弟重連を毒殺したと伝えられ、その弟の信吉は武田勝頼に寝帰り沼田城を明渡したとされている。なお信吉は武田家滅亡後に上杉家に仕え鉢形城の攻撃に加わっており、実の姉と義兄である氏邦の助命のために動いている。信吉はその後も上杉家に仕えたが、関が原の合戦時には西軍方につくことに反対し、徳川家に仕え下野那須で1万5000石を知行されたが、大阪の陣後に改易され木曽の奈良井で客死したという歴史の脇役としては実に波乱万丈の生涯であった。また、一族の藤田忠重は以前より徳川家に仕え池田家、尾張徳川家、戸田家の家老と主家を変えながら幕末まで存続した。
 藤田氏の始祖である五郎政行は保元の乱(1156年)に源義朝に従って活躍し、その子三郎行康は元暦元年(1184年)生田の森の戦いで先陣を務め討死したが、源頼朝によりその子好国に所領が安堵されていることなどが「吾妻鏡」に見える。また、鎌倉中期に一族の藤田性心は浄土宗の僧侶となり学問修行の施設を設け「藤田派」と称されたという。さらに、応安元年(1368年)の武蔵平一揆で足利氏満方に加わり、比企郡竹沢郷を恩賞として下賜されている。(円覚寺文書)その後長享年中の大乱で山内上杉方として合戦に加わっていることが「永享記」「鎌倉管領九代記」「上杉定正状写」などに現れているとのことである。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■「新編武蔵風土記稿」によれば約4ヘクタールの広さを有し、四方に堀の跡が残っていたとの記述があるが、現状は写真でも分かるように見事に何もなく東側に緩く傾斜した農地が広がるのみで、城跡の石碑がなければ城跡の存在したこと自体が全く分からない状態である。
 寄居町の発掘調査によれぱ薬研堀状の溝が確認されているとのことであるが、西側の丘陵からは見下ろされる位置にあり付近に天然の川などの要害もなく、この地形ではどのように堀や土塁を廻らせたとしても城郭といえるような防備を伴うものではなく、むしろ大規模な豪族の居館として存在していたと考えるほうが妥当かもしれない。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「寄居町史 通史編」(1986/寄居町)  

文化財指定
訪城年月日
2005/04/14
訪城の記録

( 2005/04/14 )
春の花が咲きほこる城跡の風景もこの季節ならでは
 北条氏邦に家督を譲った用土新左エ門(藤田康邦)の居城であったとされています。しかし、大正時代に農地として開墾されたために、跡形もなく整地され現地には城跡といっても推定地とされる場所の西側の小さな児童公園の入口に石碑が建てられているだけです。
 城跡の西側には緩やかな丘陵地帯があり、ちょうどその頂上付近に用土地区の集会所と思われる建物が建設されています。屋根瓦に鯱が載せられ、集会所の外壁にはナマコ壁の絵が描かれており漫画チックであるといえばそれまでですが、もしかすると城址の石碑建立の意図と関連した地域の人々の願いがあったのでしょうか。
 そして、ここもまさに枝垂桜(シダレカイドウかも)が満開で、モクレン、水仙、ヤブツバキ...と、ひたすらデジカメのお稽古に励むこととなってしまった次第です。現在の所、接写と遠景はだいたい問題なさそうですが、中距離のピントあわせと立体感のある撮影画像とすることが当面する最大の課題のようです。

Best Shot?
 用土城跡の石碑はこの小さな児童公園の入口にひっそりと立てられているので、ボーっとしていると見落とします...自分は見落としそうになりましたので。いまどき珍しい滑り台、ブランコ、鉄棒の三点セットが設置されていました。
 石碑の裏に刻まれた由来によれば、「この地の豪族藤田氏は天文15年(1546年)に時代に趨勢に鑑み北条氏邦を養子として受け入れ、後北条氏の傘下に加わり居城の花園城・天神山城を明渡し、用土城を築き隠退した。その後天正18年の秀吉の関東攻略により鉢形城と共に落城し廃城となった。広さは4町2反(約4ヘクタール)あり、内堀・外堀が存在したが大正五年の開墾により消滅した。しかし、城跡の存していたことを後世に伝えるため馬場曲輪一同でこの石碑を建立した」とのことで、石碑の日付は奇しくも昭和47年4月15日となっており僅か一日違いの訪城でした。 ( 2005/04/14 撮影 晴 )
交通アクセス

・JR八高線用土駅より徒歩約20分、連光寺の北側の畑 MapFan Web の案内図です 


( 2005/04/14 撮影 )

■この時期やたらと枝垂桜が目立つ用土城跡付近。もしかするとシダレカイドウかもしれないのですが、花びらの形からすると枝垂桜の一種のように思いますが。
■用土城跡の石柱が建てられている児童公園の向側にある用土地区の集会所と思われる建物。
 建物の外壁に描かれたナマコ壁と屋根瓦の上に二匹の小さな鯱が載っているのは、「城跡」を意識しての遊び心なのでしょうか(^^;
■城跡の石柱のある児童公園の生垣のヤブツバキも満開でした。
■用土城の中心部分として推定されている当たりを西側の丘陵から撮影。
■用土城は大正年間に農地の開墾により完全に消失したとの事情が城跡の石柱の裏側に刻まれていました。
■城跡の南端の畑に咲いていたモクレン。
■同じモクレンでもハクレンの開花時期はとうに過ぎましたが、この種類のモクレンは今が盛りのようです。
■同じく城跡の南端の畑の脇に咲いていた水仙。
■枝垂桜越しのお城風の用土地区の集会所。本当に撮影するものが無く、ひたすら元城跡の春の花々を写し続けることとなりました。
■城跡の中心部の民家の端に咲いていたハナニラ。開花している期間はせいぜい10日間ぐらいです。白い花びらに薄いブルーの線が上品な印象を与えてくれますが、葉っぱは結構強烈な臭気を伴います。
 
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