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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/12/12の日記 石戸城 三ツ木城
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態5 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合26
所在地
埼玉県北本市石戸宿字堀ノ内(現石戸宿3丁目)
歴史と沿革

石戸氏の館跡と推定
 「蒲桜」の名称が示すとおり源範頼の館跡という伝承もありますが、「北本市史」などによれば鎌倉時代の石戸氏に関連するの館跡と推定されています。その後南北朝時代の始めに廃城となり、館の主はその拠点をより要害性の高い石戸城に移したものと考えられています。
 石戸氏の名は「吾妻鏡」の記述によれば寛文4年(1246)に執り行われた鶴岡八幡宮の放生会に供奉した石戸左衛門尉として登場しています。また、「新編武蔵風土記稿」の石戸宿村の条に石戸左衛門尉が小名堀の内に居住していたとの伝承を記しています。

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■100m四方の主郭をおむすび型の二重の堀と土塁が取巻くという特殊で大規模な構造を有します。また東側の弱点を補うため「外まき郭」が置かれたと推定され、これを含めると東西550メートル南北350メートルの広大な領域となります。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「北本市史 第3巻下古代・中世資料編」(1990/北本市教育委員会)   

文化財指定
訪城年月日
2005/12/12
訪城の記録

( 2005/12/12 )
僅かに残る内堀と土塁跡...
 自然の谷を防御施設に利用した台地の先端に所在し源範頼の館跡ともいわれる場所ですが、資料によると分断された堀跡や土塁が数ヶ所ほど所在していることになっています。しかし、探し方が悪いことと民家の宅地部分や竹薮の中などに散在しているため、内堀に相当する石戸神社付近の空堀と土塁の一部が確認できる以外にはこれといって目にすることができませんでした。また、その場所も北側には売地の看板が設置されていましたので、内堀とその土塁跡を見ることができるのは今のうちかもしれません。

記念撮影

 石戸神社の奥の院から西へ続く民家の屋敷林沿いにおよそ100mほどの内郭の土塁跡が遺されています。写真左側の道路との間には本来内堀に相当する空堀が所在していたはずですが、石戸神社の付近が最もそれと分かるほどの規模で遺されていますが、西側にすすむにしたがって写真のような小さな窪みのような状態となっていました。

( 2005/12/12 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■
 館跡の南西部分に所在している東光寺境内の楓の紅葉に隣の銀杏の枯葉が積み重なって背景の冬晴れの青空に見事なコントラストを描いていました。
画像クリックで拡大します
■2■
 これがかの有名な日本五大桜の一つとされる国指定天然記念物の石戸蒲桜の古木(解説板によると2代目とか)。
■3■
 かつて大手口と推定される石橋が設置されていたというあたりですが、このあたりの谷としての地形は「8」「9」の西側部分に比べると比高こそ5メートルほどはあるものの斜面の傾斜も緩くなり目立ちにくくなっています。なお、この正面の道を真直ぐに進むと主郭の南側に到達します。
■4■
 主郭部分と推定されているあたりは現在宅地と畑となっていました。
画像クリックで奥の院の祠へ、実はこの塚が土塁の一部となっています
■5■
 石戸神社の鳥居と社殿。この奥に櫓台跡とも推定されている奥の院が所在していますが裏側から見ると土塁の一部となっていることが分かります。土塁を反対側から見ているときに野良猫がいたので少し構ってみようと思い、その後をついていったら遅まきながら石戸神社の裏手になっていることに気づきました。ネコ好きも多少は役に立ったという実例かと。
■6■
 外堀跡と推定されている道路で、先の方のカーブは明らかに堀跡の名残のようです。
画像クリックで拡大します
■7■
 内郭部分の空堀と土塁跡が一番明瞭に遺されている場所の北側の土地が売り地の看板広告が掲示されていました。したがって、この方向からこれらの遺構を見ることができる時間は限られているのかもしれません。
■8■
 館跡の西側の谷は思ったよりも深く比高差はおよそ8mほどはありそうです。なお、この谷は地形的には西方に所在する石戸城の東側の湿地帯となっている個所につながっています。
■9■
 「8」の写真の近くの谷底から台地の辺縁部分を見上げたもの。
■10■
 「8」「9」の自然の谷は「3」の写真のように次第に浅くなり、館跡の南側を通り抜けて館跡の南東部分で北方へ折れていますが、この写真のように比高差は僅かに3mほどとなり崖線も殆ど目立たなくなっています。
交通案内

・北里研究所メディカル研究センターの南側一帯 MapFan Web の案内図です  

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