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関連ページへのリンク  2006/06/19のブログ 井沼堀ノ内 伊奈城 細田城 春日氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象4 総合29
所在地
埼玉県蓮田市閏戸
歴史と沿革

岩付太田氏の勢力下の城館
 「埼玉の中世城館跡」などによれば、出土した遺物や遺構の状況などから16世紀初期から後半にかけて館として存在していたことが推定されており、戦国時代には岩付太田氏の勢力範囲であることから岩付城に関連した在地領主の小規模な城館として存在していたものと考えられますがその館主については明確ではありません。「新編武蔵風土記稿」の記述では別名を「黒須氏館」とも。

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

堀と土塁に囲まれた方形館
 全体としては大宮台地に含まれる綾瀬川と元荒川に東西を挟まれた細長い島状台地の中央付近に所在しています。東西約150m、南北約170mの規模を有し西側では国道122号線バイパスの建設工事に伴い発掘作業が行われ、北側部分の堀の規模も現在のように浅くはなく、少なくとも1m以上の深さが存在していたようです。またバイパスの眞下となった南側の堀跡の規模は幅4mから5m、深さ2m程度であったことも確認されています。

文化財指定
蓮田市指定文化財 史跡 1968/02/01指定 
訪城年月日
2006/06/19
訪城の記録 記念撮影

( 2006/06/19 )
紫陽花、合鴨、泰山木・・・時々土塁跡
 国道122号線バイパス沿いに所在する遺構で蓮田市の指定史跡であることに加えて、現在でも地表に遺構が確認できるとの情報。元来からローカルな城館跡ばかりを巡っていることもあり、最近は明瞭な遺構と対面する機会が少ないこともあり少しだけわくわく。しかし駐車を予定していたコンビニがどうやら消滅している様子で、目に入ったファミリーマートはなんと中央分離帯を挟んだ対向車線側に。このためやむを得ず東北新幹線の高架下近くに幅員に余裕のある個所を探して駐車してから小走りに訪城。このときは全く気にかけていなかったものの、後々よくよく考えてみれば、恐らくは年甲斐もなく暑さの中を小走りに行動したことが翌日の呼吸器系の発作に間接的に影響した模様。
 さて、南側に断片的に残るとされる土塁は成長著しい夏草のために全くといってよいほどに確認できず。東側の土塁跡については現在も存在している模様なのですが、同様の夏草のためブロック塀の内側という事情もあり地面の様子を間近に見るさえ叶わずじまい。一方文化財標柱の所在する北側の土塁は明瞭に現存。しかしこれも草木に覆われた宅地内の屋敷林ため全体の様子を確認するまでには至らず手前の方で立ち往生。久々土塁らしい土塁を間近にしたものの、執拗な薮蚊の大攻勢にまたしても早々に敗退する憂き目に。


クリックで土塁の画像へ
閏戸堀の内 画像クリックで土塁の画像へ
( 2006/06/19 撮影 曇時々晴)
訪城アルバム
■1■東側の土塁跡の...はず
 そこに南北方向の土塁跡が存在していることはどうにか推定できるものの、盛大に繁茂する草木のためどうみてもただの盛り上がった草叢にしか見えず、おまけに遺構は民家の塀の内側なのでありました。平地の城館跡とはいえいえども、やっぱりこの季節は避けたほうが無難なような見本かと。高さ1m前後、延長約60mほどの規模です。なお、土塁跡の位置からみて、左側の道路部分を堀跡と推定する考え方もあり、道路の形状から見てその可能性は十分あるように見えました。
■2■北側の土塁跡
 記念写真の文化財標柱が設置されている所に僅かな人の歩いたような足跡が。写真を撮影している足元付近には多分かつての堀跡らしい僅かな窪みが現存。目の前には目測で高さ約2m以上、推定延長100m前後の土塁跡が東西方向にのびているらしいのですが、何分見通しがこのような状態なのと薮蚊の執拗な攻撃が自分の受忍限度を超えたため速やかに脱出。
■3■泰山木(タイサンボク)
 不必要と思われる程に大きな葉に、これまた直径20cm前後のやたらに大きな乳白色の花が開きます。花期は短く自分の観察では6月から7月の一ヶ月間ほどで強い芳香を放つとのことですが、嗅覚にやや障害のある自分には全く分からず。北アメリカ原産の常緑高木で、よく農家の庭の道路沿いや公園などに植樹されています。下のアジサイの近くにて撮影。
画像クリックで拡大します
■4■紫陽花 アジサイの植物図鑑へ
 館跡近くの道路沿いの畑の端に咲いていたガクアジサイ。通説では酸性の強い土質では青系色、弱アルカリの場合ではピンク・赤になるといわれています。しかし、このように同じ株でもピンクと青が混じりあっている場合もありますので一概に言えないものと考えられます。
 この日は時々薄日の差すような曇り空でしたが、気が滅入るようなジメジメとした梅雨の季節に彩りを添える代表的な花の一つです。
■5■田んぼの合鴨?
 合鴨農法なのかどうかは分かりませんが一羽の合鴨?が館跡近くの水田の中を実にのんびりと往ったり来たりしていました。しかしこのとき50m程向こう側の道路の端ではネコが虎視眈々と合鴨の挙動を監視していました。当該ネコとの接触を図るべく「おいでおいで」の合図をして見ましたが、どちらに関心があるのか分からない不思議そうな表情をして、こちらに顔を向けたままゆっくりとした動作で民家の庭先へと消えていきました。
交通案内

・東北新幹線と交差する国道122号線バイパス沿いの東側。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 埼玉郡中閏戸村の小名として「堀ノ内」の地名が記されています。また「舊家者與兵衛 氏を黒須と称す。何れに仕えし士にや詳にせざれど、先祖平内五郎へ永正16年(1519)長謂と云う人より與たる感状、及び氏綱と云ものの出せし文書を所持したれば、舊き家なることは論なし。文書に見えたる氏綱は、もしくは郡中新堀村に住せし佐々木氏綱ならんといえり。また入間郡に黒須村(現在の入間市)ありて、その地の遠からざれば、與兵衛の先祖は元彼地に住して、在名を氏となせしも知べからず。されど是等のことは記録の傳えなければ、總て考るに由なし。(以下略)」と黒須氏の子孫について言及していますが館跡との関係は必ずしも明確ではないようです。またこのこととは別に、入間郡藤久保村にも黒須姓の旧家が所在していることが記されていますが、その関係についても不明のようです。
■武蔵志
 埼玉郡の南部地域の記述は欠落しているようです。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「蓮田市史 通史編T」(2002/蓮田市)・「蓮田市史 考古資料・古代中世編」(1999/蓮田市) 

・2006/08/08 HPアップ
・2006/08/16 誤字・誤記の訂正。

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