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関連ページへのリンク  2006/06/のブログ 倉田孫四郎館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯4 印象3 総合26
所在地
埼玉県北足立郡伊奈町小針内宿
歴史と沿革

岩付太田氏の重臣春日氏の館跡の一つ
 春日氏系図によれば春日行元の6代の孫とされる春日下総守景定は岩付太田氏の山楽斎資正、氏資、氏房などに仕えてその重臣として活躍し、天正18年(1590)の後北条氏滅亡後には徳川家の1500石取りの旗本として仕官しました。なお、明治9年に平川大作が記した「小針内宿村誌」「春日家譜」などによると、この春日氏館は元亀年間(1570-1573)に景定が築いて居館としたと記されています。(「ふるさと伊奈」より) 
 時代は下って幕末の戊辰戦争ではその子孫とされる春日左衛門顕道が江戸上野山、会津、函館と転戦ののち松前にて討死を遂げたとされています。 春日氏の500年に及ぶその事跡については「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」に詳述されています。
 別名を「春日山館」「堀の内」「春日山」などとも。

確認できる遺構
空堀??
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■北東方向に綾瀬川の低地をのぞむ大宮台地上のほぼ平坦地に所在しその立地条件としては西北西約1kmほどに所在している桶川市の倉田孫四郎館に近いものがあると推定されます。従って現在では全くといってよいほどに遺構らしき姿を目にすることができませんが、春日氏の居城のひとつと推定されている上尾市に所在する菅谷北城あるいは立地条件の酷似した倉田孫四郎館跡の空堀などの遺構をイメージすると良いのかもしれません。

文化財指定
訪城年月日
2006/06/05
訪城の記録 記念撮影

( 2006/06/05 )
うーむ...駅前広場か
  春日氏館は岩付太田氏の家臣とされる春日氏の居館のひとつと推定されているとのこと。しかし現在はニューシャトルの内宿のほぼ駅前となっているために、殆どといってよいほどにその面影はありません。せめて堀跡の水路ぐらいはことによると残されているかも知れないなどと微かな期待もあったのですが。強いて言えば砂利敷きの駐車場脇の溝状の地形がほんの少し気になる程度というところです。全体としては微高地であったようにも思えますが、道路の新設や駅前の整備事業などにより以前の地形の状態が全く想像できないのでありました。
 そうした中、近くの浄土宗桂全寺に所在する由緒正しい春日氏の墓所に参詣できたことが数少ない収穫の一つとなりました。春日氏の菩提寺である桂全寺の山門脇には春日氏の墓所を明示する文化財の標柱が所在。参詣や墓参自体が直接の目的でない部外者の自分などにとってはたいへんありがたいこと。従って、ご本尊の前にてお礼方々幾許かの浄財とともに浄土宗のお題目である「南無阿弥陀仏」の念仏を10回。
 なお、この寺院は永禄年間(1558-1570)に当主と推定される春日景定が祖先の行忠の追善供養のために小針新宿に所在していた極楽寺を移転し行忠の戒名である「一京院桂全林照居士」に因んで桂全寺と改めたものとされています。


画像クリックで春日氏とその墓所の現地解説板の画像へ
( 2006/06/05 撮影 曇時々晴)
訪城アルバム
■1■ニューシャトル内宿駅前

 新交通システムニューシャトルのターミナル内宿駅の北側一帯が館跡らしいのですが、ご覧の通り新しい道路が建設され館跡などの面影は影も形も見当たりません。「町史」の記述によれば、駅前が整備される以前には堀跡なども多少は存在していた模様です。
 上越新幹線が並行しているため、時折ゴォーッという衝撃音とともに高速列車が頭上を通過して行きました。
画像クリックで、もしかして堀跡?
■2■「埼玉の中世城館跡」などによるとこの辺りが春日山といわれた地域のようなのですが。

 ⇒画像をクリックすると限りなく願望に近いとしかいいようのない堀跡状の窪地が・・・もっともどう見ても駐車場の造成に伴う地表の段差である可能性が濃厚であるという気配が漂っていましたが。
■3■桂全寺に所在する13世紀中頃の板碑

 主尊は蓮座の上に「阿弥陀如来」(キリーク)が深く刻まれ、康元2年(1257)の紀年を確認できる伊奈町では最古のものとされていますが、建立の経緯・由来については詳らかではありません。
 またしても資料不足と勉強不足のため、桂全寺の開基である春日氏の先祖に関連したものかどうかについては判断する材料が見つかりませんでした。
画像クリックで拡大します
■4■春日氏累代の墓所 画像クリックでクローズアップ

 天文2年(1533)との銘が刻まれているものの、戦国時代の五輪塔にしては、墓石としての風化の状態から観察してどう見ても建立後200年に満たないという印象が。 後ほどよくよく関係資料を調べてみると、やはり幕末頃に再興されたものである由。1982年3月に伊奈町指定史跡とされている文化財で「新編武蔵風土記稿」に記されている五輪塔は幕末以降に失われているようです。(「ふるさと伊奈」などより)  
交通案内

・ニューシャトル内宿駅の北口周辺。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 足立郡小針内宿村の旧蹟として「陣屋蹟 村の東にあり、小名を春日山と云う、春日下総守景定が陣屋跡なりと、今は村民居住の地となれり」と記されていますが、この景定の陣屋跡は天正18年(1590)の後北条氏滅亡後には次第に開墾が進み元禄7年(1694)の検地においては、すでにその全てが畑地とされていたとのことです。(「ふるさと伊奈」より)
 また、小針内宿村の小名として「堀ノ内 小名宿より少しく東の方を云う、昔春日下総守景定が陣屋の構堀ありし所なりと云う...」とも記されています。
 春日氏は徳川幕府が編纂した「寛政重修諸家譜」(「春日氏系図」)では藤原北家の出身とされ、鎌倉公方・関東管領の下で活動したこととされていますがその足跡を具代的に辿る資料は見当たらないようです。そうした中で春日氏が歴史にその名を現すのものとしては、春日八郎行元が観応の擾乱の際に足利尊氏から軍功により観応3年(1352)の9月に武蔵国足立郡桶皮郷菅谷村(現在の上尾市)の丸八郎の所領を拝領した旨の下文の写しが所在しています。(「新編武蔵風土記稿」足立郡菅谷村の項)
■武蔵志
 足立郡小針の項に「内宿・・・当所に春日氏の陣屋跡あり」との記述があります。

■このほか「小田原衆所領役帳」(永禄2年/1559)によれば他国衆太田資正・氏資とともに所領役貫高50貫の春日兵庫助(景定の父か)の名が記されています。 更に永禄3年(1560)上杉謙信の関東侵攻に伴いその幕下に参集した255人の領主の中には春日弥八郎、春日摂津守の名が記されています。(「関東幕注文」) 次に天正5年(1577)の岩付衆の軍役では13の奉行から構成される1580人の軍勢が記され500人余からなる馬上の将兵を束ねる馬上奉行の一人として春日左衛門尉、鑓奉行の一人として春日与兵衛の名が記されています(「北条家印判状」豊島宮城文書より)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「伊奈町史資料調査報告書第13集 伊奈の板碑」(1996/伊奈町)・「伊奈町の寺社寺院」(1988/伊奈町)
「伊奈町史資料調査報告書第7集」(1991/伊奈町)
「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)・「ふるさと伊奈」(1990/伊奈町) 

・2006/07/03 HPアップ

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