( 2006/06/19 )
凸懐かしい田園風景と体調異変の予兆
水田と台地の境界部分が美しいカーブを描いて鬼門に当ると推定される久伊豆神社の辺りからはとても印象的な田園風景が広がっていました。 (下記の写真)
久伊豆神社自体も水田の低湿地に突き出した半島状の地形としてほぼ一体であることから、館跡の一部であったような印象も見受けられます。館跡の周辺には小鳥の鳴声に混じってトノサマガエルの鳴声が水田に響いていました。実にのどかで気持ちのよいわが国の由緒正しい田園風景が眼前にひろがり、暫し時間の流れが堰きとめられていたようにも感じられたひと時でした。
もっとも神社の北側の元荒川沿いの低地には小規模な工業団地が建設されているので、日本の伝統的な水田の原風景はあくまでもこの視界の範囲であるというところが、現代日本の産業と土地利用の実情を如実に表していました。
さて、梅雨の晴れ間で水田の湿地が間近にある竹薮と条件が揃えば、やはりお馴染みの「薮蚊の襲来」。すでにこれまでの訪城にて十分経験済みであるにも拘らず、このときのために買い揃えておいた肝心の薮蚊対策のスプレー、痒み止めなどのグッズの携行を失念。蒸暑い陽気のため発汗作用が激しく、薮蚊の攻撃は間断なくかつ容赦なく続いたため早々の撤退を余儀なくされました。
帰りがけに念のため館跡付近に所在する民家の門柱の表札をそっと拝見。苗字としては日本でもっとも多いとされるものの、「新編武蔵風土記稿」に記されている旧家の姓と同一であったことに改めて感動をした次第なのでありました。しかし後からよくよく思い返せば、この時点ですでに呼吸にやや乱れが生じ始めており、本格的に体調を崩すこととなる予兆なっていたのでありました。
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久伊豆神社境内の近くから眺めた「井沼堀の内」
( 2006/06/19 撮影 晴れ) |
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■1■井沼村鎮守久伊豆神社の社殿 画像クリックで神社の解説へ
館跡の北東の舌状台地の先端部分に所在し、元荒川はこの神社の北側で尾大きく蛇行して東流しています。久伊豆神社はこの元荒川沿いの南北埼玉郡と大里郡の地域に限定された祭祀圏を形成し、武蔵七党のひとつである私市党(きさいとう)に関わる久伊豆大明神として崇められたという説もあるようです。しかし嘉吉3年(1443)の勧請と伝わる「江ヶ崎」の久伊豆神社を除けば、その勧請の経緯などは明確ではないようです。
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■2■たぶん土塁跡と思われる地形
民家の西側の竹林の中には、道路の方からでもそれと分かるような土塁跡と目される連続した延長約20m、高さ2m前後の連続した地面の高まりが所在していました。 しかし館跡の全体の配置・構造を想像するには余りにも部分的な存在のようです。この撮影の後、薮蚊対策に関する防御体勢が杜撰なため緊急退避のやむなきに。
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■3■土塁跡のような堀跡のような
人工的なものと思われる起伏の激しい地形が民家北側の宅地続きの個所にも所在していましたが、農作業に伴う地形の変更も含まれているようにも見受けられ、実際問題どれがならやら何とも形容しがたいような地面の凹凸でした。
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・県道87号線井沼交差点を約300mほど北上、宝和泉寺の北側で伊豆神社境内の南側付近。
・いつもガイド の案内図です
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凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
埼玉郡井沼村の項には中世の館跡の存在を傍証する「的場、馬洗戸、堀ノ内」などの小名が記され、更に「土手 村の中程をいう、この地は東西北の三方に堀あるいは土手跡ありて、古の壘跡と見えたり。当村に佐藤内蔵助というものありしと、もしこれらの住せし所にや、内蔵助は村民斧右衛門が先祖なりしといえど、たしかなることは詳にせず」として館跡の遺構の存在について具体的に記されています。
■武蔵志
現在の蓮田方面の記述自体が欠落しているようです。
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「蓮田市史 通史編T」(2002/蓮田市)・「蓮田市史 考古資料・古代中世編」(1999/蓮田市)
「久伊豆神社」(2005/さきたま出版会)
・2006/08/05 HPアップ
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