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関連ページへのリンク  2006/06/05のブログ 春日氏館 細田城
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態7 探し易さ5 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯4 印象4 総合32
所在地
埼玉県北足立郡伊奈町大字小室字丸山
歴史と沿革

戦国時代の城郭跡を近世陣屋に改修
 三河以来の徳川家家臣とされる代官頭(後の関東郡代)伊奈忠次が小室・鴻巣など1万3千石を拝領し、その陣屋を定めるに当たり、当時この地に所在していたといわれている寺院(閼伽井坊)を立ち退かせてさえもその陣屋を築いたとされる古文書が現在も残されています(桶川市明星院所蔵「明星院文書」)。新幹線の分岐点の東側に所在し、その建設に伴う発掘調査のお蔭で戦国期の障子堀や畝堀の存在が確認され陣屋以前は太田資正・氏資父子に関わる岩付城の規模の大きな有力な支城であったということが推定されています。しかしその築城の時期については天文年間、永禄年間、天正年間などの諸説があるようで必ずしも明確ではないようです。

呼称の整理
  戦国期の城郭を天正19年以降に伊奈氏が陣屋として改修したという経緯が推定されているために、戦国期の城郭遺構として捉えるか近世陣屋として捉えるのかなどの視点の違いにより様々な呼称が存在しているようです。
 ・伊奈城(「中世北武蔵の城」)
 ・小室陣屋(「伊奈町史 通史編T」「ビジュアル版伊奈の歴史」)
 ・伊奈氏屋敷跡(「中世北武蔵の城」「埼玉の中世城館跡」)
 ・伊奈氏陣屋跡(「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」)
 ・丸山城(「伊奈町史 通史編T」)
 ・伊奈熊蔵陣屋(「新編武蔵風土記稿」「武蔵国郡村史」)

確認できる遺構
土塁、空堀、水堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

独立した広大な島状台地
 地理的には周囲を水田や低湿地に囲まれた大宮台地の一部とされていますが、周辺の地形状では比高差4mから6mほどのほぼ完全に独立した東西約350m、南北約750mの島状の広大な丘陵となっています。中世の末期から近世初頭の当時において水田の中を辿る細い通路以外に城跡に通じる道がなかったとすれば、この隔絶された自然地形はまさに天然の要害の地であることは明らかです。

文化財指定
埼玉県指定史跡 1934年3月31日
訪城年月日
2006/06/05
訪城の記録 記念撮影

( 2006/06/05 )
緊張の訪城
 周囲を水田や低湿地に囲まれた島状の広大な丘陵で、この自然地形はまさに天然の要害の地です。代官頭(後の関東郡代)伊奈氏がその陣屋を定めるに当たり、当時この地に所在していたといわれている寺院(閼伽井坊)を立ち退かせてさえも、その陣屋を築いたとされる古文書が現在も残されています(桶川市明星院所蔵「明星院文書」)。そうした事情というものが現在の地形からでさえも十分に理解できる状況であるように思われました。地図上では認識していたものの、実際の所在地と城跡とが頭の中で繋がらず、現地に赴き改めて新幹線の分岐点近くに所在していたことに驚きを。 よくよく考えてみれば、その建設に伴う発掘調査のお蔭で障子堀や畝堀の存在が確認され陣屋以前は中世の城郭であったということが推論されたというわけです。
 さて、城跡は埼玉県の指定史跡となっているものの、現地には十数戸の民家が点在。そうしたなか、文化財としての整備保護などについて十分な合意形成が図られていないと思われる掲示が城跡のあちこちに点在。このため詳細な事情を認識していない部外者としては、やや緊張の訪城を余儀なくされることに。
 したがって拝見する側としても、デジカメでの撮影を含めてできるだけ遠慮しながら遺構を遠くから眺めるという構図にならざるを得ませんでした。土塁・空堀・小口などの遺構について十分に観察するには至らなかったものの、久しぶりに高さ5mを超えようかという土塁群を目の当たりにしてこの日最大にして唯一の成果となったという次第なのででありました。この日はすでに5か所ほど徒歩にて探索済み。歩行距離はすでに十数キロに及ぶとともに、日差しも厳しく気温も33度を超えていたので正しく体力の限界に至りました。

二の郭付近の土塁と空堀跡
( 2006/06/05 撮影 晴れ)
訪城アルバム
■1■伊奈城遠景
 北東方向から眺めた伊奈城の遠景には違いないのですが、正直に言うと確実にどの部分が写っているのかということについては本人自身が理解していません。(伊奈町立南中学校付近の道路より撮影)
 以前は水田地帯であったと思われる手前部分の低地は道路部分との比高差が2m以上はありそうで、かつては相当な湿地帯であったという形跡が現在でも明確に判別できるような印象です。道程で1kmほど離れたコンビニでお茶を購入してそのまま徒歩にて訪城。
画像クリックで拡大します
■2■複雑な事情の存在 画像クリックで現地解説板の拡大画像へ
 城跡(陣屋跡)は埼玉県の指定史跡となっているものの、現地には十数戸の民家が点在している状況です。そうしたなか、文化財としての整備保護などについて地元の方との十分な合意形成が図られていないと推定される掲示物が城跡のあちこちに点在。このため詳細な事情を認識していない部外者としては、やや緊張の訪城を余儀なくされることに。この辺りは「表門」という伝承地名が残されているようです。向かって右の看板は「史跡整備計画」に反対を表明する地元の立て札。
■3■南側の水堀跡
 本来はもう少し右側から撮影したほうが分かりやすかったのですが、熱心に釣りをしている最中の方がいらしたのでなるべく迷惑とならないように配慮した結果このような画像になりました。
■4■二の丸跡付近
 ご覧の通り夏草がものすごい勢いで蔓延っているので遺構としての地形の判別が難しく、「付近」というような物凄く曖昧な表現で誤魔化さざるを得なかったという次第でありました。
 平成4年に設置された写真中央に所在している説明板は水平に近い形態のため汚れが酷く目立っていたことと、特にこれといった特徴のある説明が記されていなかったこともあり拡大画像は省略を。
■5■頭殿社の西側の斜面
 比高差ではおよそ6m程ですが周囲は深田や低湿地が広がりを見せているので、進入できるようなルートは現状でも4か所ほどかと思われます。独立した島状の台地とはまさにこのような地形を言うのでしょう。
 下段の写真「6」の頭殿社への入口脇に設置されていた朱書きの「立入禁止」の看板には「全体の95%が私有地」である旨が記されていました。
■6■緊張を余儀なくされる看板
 こちらの出で立ちはといえば、ナップザックを背負一眼レフのデジカメを首に掛け、関係資料をコピーしたクリップボードを片手に所持。時折立ち止まって何やらメモを取りながらキョロキョロと辺りの様子を伺いつつデジカメ撮影するといういかにも「立ち入り禁止の対象にぴったりの人物」なのでありました。
 一方で違法駐車の来訪者も多いらしく駐車厳禁のステッカーがこれでもかというように張り巡らされている個所も。
■7■この辺りは多分公有地のような
 「公有地」の掲示版が立てられていましたので、多分この辺りが史跡としての環境整備の一環として取得された区域だと思われます。しかし遺構自体が残存していても殆どが私有地の屋敷林などの中に存在しているため、一般には直接目にできる部分がかなり少ないという印象でした。土地の所有者からすれば私有地に勝手にずかずかと無断で入り込む見学者(自分のようなやや遠慮がちな事例も含めて)の存在は、当然のことながら実に迷惑この上ないことというのが実情のようです。
画像クリックで現地解説板へ
■8■伝陣屋裏門跡 画像クリックで現地解説板の拡大画像へ
 伊奈氏陣屋の裏門跡と伝わる付近ですが、夏草が文化財の標柱に覆いかぶさっていたのでデジカメ撮影に伴い、公有地であることを念じつつ少々草むしりなどをさせていただきました。比較的有名な後北条氏の時代のものと推定されている障子堀の跡が発掘されたのは、おそらくこの北側の当たりではないかとかと思われました。
■9■畝堀の検出された付近
 頭殿社の北西側の崖下付近にあたり、戦国時代末期の後北条氏時代のものと推定される畝堀が発掘された区域ですが、細い水路も流れる大雨の直後ならば足首まで潜りそうな水田跡などを含む低湿地となっています。
■10■ネコとは少しだけ仲良くなれた
 城跡の蔵屋敷と呼ばれる辺りで、行きと帰りに2度も遭遇したネコ。最初は昼寝の最中を邪魔されたようで、実に迷惑そうな表情をしていました。2度目の時は多少は覚えていてくれたのかどうかは分かりませんが、さほどの敵意も表さずに時々こちらの方を見つめながら悠然と自分の1mほど脇の草地を悠然と通り過ぎて行きました。ネコともお互いに相性があるようで、50m先ぐらいから毛嫌いされる場合もあったりするかと思えば、このようなちょっとした出会いもあり城跡めぐりのもう一つの楽しみとなっています。
■11■頭殿社(ずどのしゃ) 主祭神は不詳とのこと
 「伊奈町の神社寺院」によれば長禄年間(15世紀中頃)に太田持資が修築し、その後天正年間(1573-1592)に伊奈備前守が修築して陣屋の守護神としたと伝えられているとのことです。従って代官頭の伊奈氏が修築に関わったことが事実ととするならば天正18年(1590)以降のことと考えられます。 なお明治43年(1910)に同じ小室村の氷川神社へ合祀されたとのこと。 また、「新編武蔵風土記稿」では「頭殿権現社」として記されています。実は社殿右側にも立派な土塁が...
交通案内

・伊奈町南西の上越新幹線と東北新幹線の分岐点の東側の台地
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 丸山村の項に「伊奈熊蔵陣屋 村の南にて、字丸の内と唱う。いにしえ岩槻太田氏の持城ありし跡なりと土人いえり。されど小室宿村無量寺所蔵天正19年(1591)伊奈熊蔵忠次より無量寺閼伽井坊への記録によれば、当所は閼伽井坊の旧跡なりしこと知られる。ご入国の後、伊奈備前守(伊奈熊蔵忠次)にこの辺の地を賜りしかばこの旧跡に陣屋をいとなみしと。(中略)其地東西へ3町(300メートル余り)、南北5丁ばかり(500メートル余り)にして、廻りに土手を築き、坤(南西の方は原市沼をひかえ、三方は堀をかまえて3ヶ所に門あり。(後略)」と歴史的な背景とその規模などについて詳細な記述がなされています。
■武蔵国郡村誌
 小室村の古跡の項に陣屋跡として「東西313間、南北340間。村の南端、字丸の内をいう。幕吏伊奈熊蔵が陣屋跡なりと。明治3年(1870)払下となり開墾して、方今(現在)民有及び畑となる。(以下の記述は「新編武蔵風土記稿」をそのまま引用)」
■武蔵志

 「小室丸山 城アトアリ」との簡単な記述が加筆されているだけで詳細な記録は認められません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「伊奈町史資料調査報告書第7集 地誌」(1991/伊奈町)
「伊奈町史資料調査報告書第4集 伊奈町の神社寺院」(1988/伊奈町)
「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)・「ふるさと伊奈」(1990/伊奈町) 

・2006/07/29 HPアップ
・2006/07/30 記述の一部追加訂正 

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