2006/06/05のブログ 春日氏館 北遺跡 | ||
おすすめ評価 |
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埼玉県北足立郡伊奈町大字大針字細田山 | |
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なし | |
周辺の地理的特徴 |
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無 | |
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2006/06/05 |
( 2006/06/05 撮影 晴れ ) |
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凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿 足立郡大針村旧蹟の項に「古城蹟 村の東方にあり、細田山という、小高き所にて2町(約200m)四方程なり、古細田某住せし所なりという、城跡とは伝うれど、全く砦のあとなり、細田某はいつの頃の人なりや詳ならず」と記されているのみで細田城と細田氏の事跡については不明のようです。 ■武蔵国郡村誌 大針村古跡の古城跡として「細田山という。高さおよそ15丈(約45m)、竪120間(約218m)、横100間(約182m)、面積16013坪。村の東方にあり。その由来詳ならず...」と記されています。概ね「新編武蔵風土記稿」の記述を踏襲しているものの、その具代的な規模が詳細に述べられている点が注目されます。ただし高さおよそ15丈(約45m)というくだりは現在の9倍ほどの高さを有していたことになり、その後の開墾や宅地造成により削平されたとはいうもののその部分の表現に関しては些か誇張されている節があるのかもしれません。 ■豊島宮城文書 あくまでも「細田氏」に関する記述ではありませんが、北条氏政が天正5年(1577)7月13日に太田右衛門佐、春日左衛門尉・細谷刑部左衛門尉資満・福島四郎右衛門尉、宮城四郎兵衛の岩付太田氏の家臣と推定される5人に対して宛てた岩付衆の軍事的動員を命じた虎印判状によると、細谷氏が馬上奉行・陣庭奉行・篝奉行・小荷駄奉行に名を連ねる有力家臣であることが推定されます。「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」によれば、細谷氏は太田全鑑の下で後北条氏に従属して江戸衆として足立郡木崎郷を領有していたとされています。また、「戦国人名事典」(2006/吉川弘文館)や「小田原衆所領役帳」では井草郷の領主としています。しかし、「細谷」が「細田」と誤伝したとしても、元来「細田山」とそれぞれの本拠とは10km以上の地理的な隔たりが介在していますのでやはり無関係である可能性の方が高そうです。 |
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林) 「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣) 「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 「伊奈町史資料調査報告書第7集」(1991/伊奈町) 「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)・「ふるさと伊奈」(1990/伊奈町) ・2006/07/13 HPアップ |
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