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関連ページへのリンク  2006/06/05のブログ 春日氏館 北遺跡
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合21
所在地
埼玉県北足立郡伊奈町大字大針字細田山
歴史と沿革

細田氏の居城?
 「新編武蔵風土記稿」や地元に残る伝承によれば細田山に細田某が城を構えていたと伝わっていますが、その時代背景や細田氏の事跡については委細不明のようです。なお、「伊奈町史」に先立って刊行された「ふるさと伊奈」によると「武蔵国郡村誌」の記述を引用しつつ「以前には周囲に水路がめぐり、小高い山林になっていたことから、かつては細田山に砦(小城)のようなものがあったことはほぼ間違いないもの」と推定していますが、いずれにしても伝承の域を出ないもののようです。
 戦国時代には岩付太田氏の支配地域でありその有力な家臣であったと推定されている春日氏とも多少の関係がありそうですが、これもまた推測の域を出るものではありません。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

細田山の謎
 細田山は大宮台地の東端の舌状台地先端部分に位置しています。「武蔵国郡村誌」などの記述によるとその城跡の規模については、高さおよそ15丈(約45m)、竪120間(約218m)、横100間(約182m)、面積16013坪と記されています。しかし現在の伊奈町の標高の最高地点が約20mとされ、低地の大半の標高が10m程度であることから想定すると、「細田山に入る道が30度以上もあろうかという傾斜があった」( 「ふるさと伊奈」 )としても、その比高差はおよそ10m強程度の規模ではなかったのかと推定されます。

文化財指定
訪城年月日
2006/06/05
訪城の記録 記念撮影

( 2006/06/05 )
「細田山」は何処に
 今も細田山という地名が残され、かつては城跡が存在したという伝承が存在するというだけの甚だ心許ない城館跡。下記の写真の通り水田から眺めた比高差は最大で5mほどの台地を形成していましたが、現在は一部の梨畑などを除いて細田山団地という住宅地に完全に変貌しています。このため、「細田山」と呼ばれた地形的な特徴も大分変わってしまった模様です。それでも強いて言うならば外周部分の道路の曲折した形状に何処となく歴史の名残を感じさせるものがあるような印象が僅かに感じられました。
 なお、この日は梅雨入り前の蒸暑さと強烈な紫外線が降り注ぎ500mlのペットボトルのお茶2本を完飲してもなお足りず、更に自動販売機で500mlのアイソトニック系飲料にて水分補給して熱中症対策。また極力駐車違反を避けるべく公園の正規の駐車場に駐車し、一筆書きの要領で伊奈町の城館跡を探査している最中で、この時点ですでに歩行距離は10kmほどに達していましたので足取りはまさに牛の歩みのごとく...

北側の水田地帯から眺めた細田山
北側の水田地帯から見た細田山の細長い台地
( 2006/06/05 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■細田山団地内の公園
 特に公園整備に伴う大規模な造成工事が行われたような節が少ないように見受けられたので撮影してみたまでのことです。大きな木の向こう側は2m以上の崖となっていましたが何処までが元来の地形であったものか判断が難しい状態でした。
 公園の設備としてはプラスチック製のやや年代物のベンチ1脚、小さな砂場1ヶ所、写真の左側にたまたま写り込んでしまった外灯1ヶ所。
■2■確かに「細田山」に間違いはない
 持参してきた資料などから、この場所が「細田山」であることは間違いがないとは思いつつも、何か確実な証が欲しいと写真「1」の公園の付近をうろついていたらこの消火器のケースを発見。確かに「細田山」の文字を確認...しかし丁度その時、地元の防災無線が「怪しい人を見かけたら警察・役場までご連絡してください」との恒例の放送を開始。デジカメで何の変哲もない消火器を念入りに撮影している中年男は果たして「怪しくない人」なのでしょうか、自分でもその点であまり自信が...(^^;
■3■梨の白い花と成長する前の果実
 おそらくは幸水、豊水という種類かと思われます。大きさは未だ直径2センチ前後という可愛らしさ。細田山のほぼ中央部に残されている梨畑にて撮影したものです。
 その昔、梨といえば「長十郎」と「二十世紀」の2種類しかなかった時代が懐かしいのでありました。そういえば「二十世紀」の方は薄い柔らかな紙に包まれていた高級品であった記憶が。たぶん標準米10キロ800円の当時で1個あたり120円くらいだったかも。
交通案内

・伊奈町役場の北約500mに所在する「細田山団地」付近。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 足立郡大針村旧蹟の項に「古城蹟 村の東方にあり、細田山という、小高き所にて2町(約200m)四方程なり、古細田某住せし所なりという、城跡とは伝うれど、全く砦のあとなり、細田某はいつの頃の人なりや詳ならず」と記されているのみで細田城と細田氏の事跡については不明のようです。

■武蔵国郡村誌
 大針村古跡の古城跡として「細田山という。高さおよそ15丈(約45m)、竪120間(約218m)、横100間(約182m)、面積16013坪。村の東方にあり。その由来詳ならず...」と記されています。概ね「新編武蔵風土記稿」の記述を踏襲しているものの、その具代的な規模が詳細に述べられている点が注目されます。ただし高さおよそ15丈(約45m)というくだりは現在の9倍ほどの高さを有していたことになり、その後の開墾や宅地造成により削平されたとはいうもののその部分の表現に関しては些か誇張されている節があるのかもしれません。

■豊島宮城文書
 あくまでも「細田氏」に関する記述ではありませんが、北条氏政が天正5年(1577)7月13日に太田右衛門佐、春日左衛門尉・細谷刑部左衛門尉資満・福島四郎右衛門尉、宮城四郎兵衛の岩付太田氏の家臣と推定される5人に対して宛てた岩付衆の軍事的動員を命じた虎印判状によると、細谷氏が馬上奉行・陣庭奉行・篝奉行・小荷駄奉行に名を連ねる有力家臣であることが推定されます。「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」によれば、細谷氏は太田全鑑の下で後北条氏に従属して江戸衆として足立郡木崎郷を領有していたとされています。また、「戦国人名事典」(2006/吉川弘文館)や「小田原衆所領役帳」では井草郷の領主としています。しかし、「細谷」が「細田」と誤伝したとしても、元来「細田山」とそれぞれの本拠とは10km以上の地理的な隔たりが介在していますのでやはり無関係である可能性の方が高そうです。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「伊奈町史資料調査報告書第7集」(1991/伊奈町)
「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)・「ふるさと伊奈」(1990/伊奈町)  

・2006/07/13 HPアップ

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