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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/10/19の日記  谷縁館 常安寺館 塩館 成沢館 田村陣屋
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯2 印象3 総合26
所在地
埼玉県大里郡江南町大字千代字南方
歴史と沿革

深谷上杉氏の一族の居館跡か
 「江南町史」などによると、館跡の中心部にはかつて文禄4年(1595年)の検地帳を有する小久保家が所在し、先祖代々千代村の名主を勤め、深谷上杉氏の家臣として仕えていたとの伝承が遺されているとのことで、この上杉館には一族の上杉憲成が居住したとされているようです。
 後北条氏の滅亡後は、この江南町千代の地は徳川家の家臣となった武川衆の知行地とされました。甲斐の武川衆は武田氏の有力な武士団のひとつで天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は徳川家の家臣となり、天正18年(1590年)の後北条氏滅亡の後に新たに関東の支配者となった徳川家康により、その多くは鉢形城の防備を命じられました。天正20年(1592年)3月の「武川衆宛知行書立」によれば現在の小江川、須賀広、千代合計660石余りの地が武川衆に対して知行され、慶長9年(1604年)の同書立では武川衆に対して1251石余りの加増の沙汰がなされ、そのとき200石の加増で千代の地を知行したと「新編武蔵風土記稿」が伝える折井市左衛門次忠の名も見えます。
 なお、別名として、「小久保館」「南方館」「深谷館」などとも呼ぶそうです。

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■江南台地上の南北を浅い谷津により挟まれた小高い丘陵上に所在し東西約300m、南北約200mほどの規模を有するものと想定されますので、周辺の戦国時代の館跡の規模と比較しても大規模な方になるのではないかと思います。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「江南町史 資料編1考古」(1995/江南町)
「江南町史 通史編 上」(2004/江南町)   

文化財指定
訪城年月日
2005/10/19
訪城の記録

( 2005/10/19 )
断片的な遺構が多いらしいのですが、これがなかなか見つからず
 江南町の資料によると空堀跡などの遺構が平地林のあちこちに分散しているとのことです。それらの所在と現状を逐一確認していたため、都合90分以上も時間を費やしてしまいました。しかし結局のところ確信を持って確認できたのは、南北方向に約50メートル遺されている土塁とスケールの大きな空堀跡だけで、その多くは竹林や屋敷林の中に埋もれているらしく厳冬期でも確認することは難しそうな状態でした。 しかし、この一番状態のよい南北方向の土塁と空堀跡にしても、館跡全体として本来の形がどのようなものであったのかを窺い知ることが難しい状況ですが、およそ県道47号線西側の東西約300m、南北約200mほどの範囲に存在するようなので、周辺の戦国時代の館跡の規模と比較しても大規模な方になるのではないかと思います。
 さて、たまたま土地の所有者と思われる方がこちらの方をご覧になっている様子でしたので、遠くからですがご挨拶の上了解をいただいて撮影実行。比較的見通しのよい竹林の中は思いのほか蜘蛛の巣が多く薮蚊がまだまだ活動中でしたが、延長にして50m以上で空堀の底からの高さ2.5m以上の土塁とこれと並行する堀幅10m前後の空堀の姿を目の当たりにすると、そういった問題は実に些細なことになってしまいます。
 また、県道47号線千代の信号の四つ角には、最近のものでその具体的な関係は不明ですが上杉桐の家紋が付された「上杉家」と刻まれた墓石も所在し、地元の旧家の伝承などからもやはり深谷上杉氏と関連が浮かび上がってくるような気がします。

記念撮影

 
 水田地帯となっている北側の谷津部分から眺めた上杉館跡の北側の様子。ガードレールと台地の間には台地の形状に沿って複雑に折れ曲がる比較的規模の大きな用水路が流れていますが、水田と台地の比高差は僅か2m程度です。
 館跡の西側には「太平洋クラブ&アソシエイツ江南コース」のゴルフ場が近接しています。」
 
( 2005/10/19 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■
 「江南町ふるさと歩道」の東屋が館跡の西側の公道沿いにありますが、平日ということもあり人気は全くなく、地元の方にだいたいの館跡の位置を聞こうにも何方もいらっしゃらない状態でした。車を停める適当な場所が見当たらず、この小公園の道路わきに停めさせてもらい徒歩にて周囲をぐるっと一周半ほど。
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■2■
 季節柄、通称「赤とんぼ」( たぶんアキアカネかと )が秋空を群舞していました。そのうちの一匹が写真を撮ってくれといわんばかりにホバーリングを繰り返すもので、おおそうかそうかよしよしなどと云いながらシャッターを押しました。
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■3■
 伊勢神宮の外宮に祀られる穀物の神である豊受比賣命主祭神とする飯玉神社の由来などを記した解説版。
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■4■
 神社は上杉館から見ると概ね北東鬼門の位置に当たるようです。南側の古い池には片目の魚の伝承があるとのことですが坂戸市の浅羽城に関する伝承と少し似ている感じがします。
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■5■
 館跡の南西の角部分で、館跡の南側には用水路が流れかなり複雑な蛇行を繰り返しています。資料によればこの先の左側に空堀跡が所在するということですが、用水路の反対側の屋敷林の中なので外側からは全く見えませんでした。
 最近この用水路に大量の廃油を不法投棄した不届きな者がいるとのことで全くとんでもないことです。
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■6■
 地元の方の墓地が何ヶ所か所在していますが、五輪塔の空輪・風輪のものと思われるものも丁寧に他の墓石や近世の石仏と共に祀られていました。
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■7■
 「江南町史 資料編1考古」によれば、館跡の東側を南北に走っている県道47号線も堀跡の一部ではないかと推定しています。北の熊谷方向に向けて道は緩やかに下っています。
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■8■
 「江南町史 資料編1考古」でも記されている通り、この南北に伸びる約50mほどの土塁の辺りが一番分かりやすいのですが、それさえも竹林の奥の方に所在していますので表の公道からは全く見えません。 
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■8■
 左側の土塁に平行して竹林の奥の方まで続いている堀幅10m以上になろうかという空堀跡。50mほど北に向かい東側に90度の角度で曲がっていましたが。、その部分の写真は暗すぎるのと合わせて竹しか写っていないこともあり没に。
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■8■
 南側からの上杉館の遠景。この林の奥の方に「8」「9」の土塁・空堀が良好な状態で遺されています。
交通アクセス

・県道47号線を北に向かい江南町千代交差点を左折
MapFan Web の案内図です  

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