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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/09/26の日記  泉福寺館 三門館(和泉陣城)
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ3 交通利便5 体力消耗4 歴史経緯2 印象3 総合26
所在地
埼玉県大里郡江南町大字塩字荒井144付近
歴史と沿革

近世初期の陣屋跡か
 「新編武蔵風土記稿」の塩村の記述によれば、武田氏の遺臣である甲斐の武川衆伊藤新五左衛門の館跡で元和九年(1623年)まで知行したという伝承を記しています。甲斐の武川衆は武田氏の有力な武士団のひとつで天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は徳川家の家臣となり、天正18年(1590年)の後北条氏滅亡の後に新たに関東の支配者となった徳川家康により、その多くは鉢形城の防備を命じられました。天正20年(1592年)3月の「武川衆宛知行書立」によれば現在の小江川、須賀広、千代合計660石余りの地が武川衆に対して知行され、慶長9年の同書立では武川衆に対して加増の沙汰がなされ柳沢兵部丞についで伊藤三右衛門の名が見えます。
 中世城館の規模としてはかなり小さめの大きさですが、とは云うもののこれだけの普請をする為の推定で延べ数百人にもおよぶ労力・経費・月日などを考慮すれば、恐らくは帰農した後北条氏時代の土豪の館跡を転用したと考えるべきでしょうか。
 なお、後に老中首座となる柳沢吉保はこの武川衆の棟梁である柳沢兵部丞(信俊)の孫にあたります。http://www.jade.dti.ne.jp/~miyoshir/shitei/3.html三芳町立歴史民俗資料館の頁( リンク許諾済みです )

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■江南町を西から東へ流れる和田川右岸の比企丘陵北端の北側緩斜面に位置します。土塁は北側と東側がよく遺されていますが、南と西側は自然地形の斜面の関係で遺構の確認が難しい状態です。館跡の大きさは東西南北50mから60m程度の小さな規模ですが、東側には深さ数十センチ程度の堀跡も遺されていることが分かります。また、滑川町の和泉に所在する泉福寺館、三門館が南東1.5kmほどの距離に所在しています。また、館跡の南側には比企郡小川町から熊谷に抜ける、現在は県道11号線となっている古い往還が所在します。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「江南町史 資料編1考古」(1995/江南町) 
「江南町史 資料編3近世」(2001/江南町) 

文化財指定
訪城年月日
2005/09/26
訪城の記録

( 2005/09/26 )
午前中の所用をてっきり失念
 なんと前日の夜まで、本日の午前中一杯時間がかかる所用の存在を失念していました。したがって本日は午後からの訪城ということで、現地に到着したのはすでに午後1時を大分過ぎていました。さて彼岸の中日も過ぎ夕方の西の空が雲が多いと暗くなるのも早くなってきたので、行動可能な時間はあと3時間ほどかと。
 この場所は季節の上でも地形的に見ても余り人の入らないような低山の斜面のに所在するため、いかにも藪と薮蚊と蜘蛛の巣が凄そうな場所であると予想していました。さらにいつものことではありますが、始めは資料の読み違いをして西側の全く別の場所に行ってしまいました。しかしそこでも、人工的な切落としのように見える地形が隠れていたりしてそれなりに興味深かったのですが、どうも地形にしても踏み跡程度の道にしても明らかに違う印象でした。
 そこでよくよく資料を見て場所を確認してみると、なんと駐車させていただいた八幡神社から直ぐ北側の林の中らしいことが判明しました。そんなわけで早速気を取り直して雑木林の中へ突進。やはりこの場所が正解のようでした。左側に雑木林、右に畑の所在する境のところにある幅1間ほどの右方向にカーブする緩やかな坂道を60mほど下っていくと、道から30メートルほど左側の林の奥の方に忽然と土塁らしき影が現れました。これが東側土塁の南端部分に相当します。こういう瞬間は何度体験しても嬉しいもので、薮蚊・蜘蛛の巣なんのそのという心理状態に突入します。
 館跡は北側に向って緩斜面となった場所に位置し、郭内には東西方向に自然地形とほとんど区別ができないような堀跡状の地形も確認されたりしましたが、なんといっても叢生する草木のため見通しが利きません。それでも土塁の外側部分は多少見通しが利くので、なんとか東側の土塁と北側の土塁の位置を確認することができました。雑木林の中では無数の蜘蛛の巣と薮蚊の大群に行く手を阻まれ、枯枝や夏草の名残のため足元も殆ど見えず、更につる性の植物に体を拘束されながら悪戦苦闘の30分間でありました。しかし、この4日後にもっと凄みのある「藪館跡」を体験しました。

記念撮影

 
 和田川の流れる北側の水田地帯から館跡の所在する丘陵地帯を望む。矢印が館跡の所在する辺りで、水田面との比高差はおよそ10m程度かと。
 
( 2005/09/30 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■@■( 2005/09/26 撮影 晴れ 以下同様 )
 東側から見た塩館。黒っぽくみえる林の中に400年以上も前の遺構が静かに時を刻んでいます。

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■A■
林と畑の境にある坂道を下っていくと左側の林の中に現れる東側土塁の南端部分。写真を見ても分かりますが、雑草・薮蚊・蜘蛛の巣などのためできることならば4月から9月の半年間は避けたほうが賢明のようです。土塁の外側の堀跡もこの辺りが一番はっきりとしているのですが、上記の事情により写真の撮りようがありませんでした。

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■B■
 東側土塁の中央付近にある小口のようにも見える土塁の切れ目です。1983年に行われた江南町教育委員会の測量調査の概略を記した「江南町史 資料編1考古」(1995/江南町)には特に記されていませんので後世の破壊跡かもしれません。

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■C■
東側土塁の北寄りの部分で、高さは外側で1.5m近くありそうです。

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■D■
北側土塁の西よりの部分で、この左側に小口と推定されている土塁の切れ目があるのですが、写真を撮ってはみたものの余りにも雑草・藪が多くて使いものにならず、あらためて肉眼とデシカメの性能の違いをまざまざと体験することとなりました。

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■E■
 塩館はこの八幡神社境内からみて北側の山林の中にあります。運行本数の余り多くないバス停が目の前にあり、その名も「塩八幡前」という名称です。
交通アクセス

・小川町から熊谷市に抜ける県道11号線の江南町の水田地帯に出る手前の左側に八幡神社が目印、また県道の反対側には「そば茶房やしろ」という手打ちそばの店舗がありますのでお勧めです。
 MapFan Web の案内図です  

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