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浅羽城跡
関連ページのリンク  2004/10/18の日記  
所在地
埼玉県坂戸市鶴舞1丁目2番付近、鶴舞団地住宅の中の公園をふくむ周辺
歴史と沿革

浅羽氏について
 武蔵国児玉郡神泉村周辺を本拠地とする児玉党の一族有道資行は入西郡に居を構え入西氏(にっさいし)を称し、その子行成は浅羽氏と称した。その一族は鎌倉幕府の御家人として入西郡、比企郡に勢力を広げていたとされている。なお、弟の遠広は小代氏を名乗っている。浅羽氏の本拠は現在の坂戸市北浅羽一帯とされており、菩提寺の万福寺には板碑が残されている。永享の乱(1438年)では、鎌倉公方方として浅羽下総守が敗戦により自害したといわれている。浅羽氏は戦国時代ごろまで存続したと見られているものの、勢力は次第に衰退していったとされている。(以上「中世の坂戸」42、43頁より)また入西、浅羽の名称は現在も坂戸市の地名で残されている。

浅羽城の歴史
 歴史的にもあまり明らかではなく遺構が存在していないこととは全く対照的に、現在少なくとも「岡山大学図書館池田家旧蔵絵図」「国文学研究資料館所蔵 城築規範」「国立国会図書館所蔵 日本城郭史資料」など数種類の絵図が伝わっている。「新編武蔵風土記稿」では萱方村の項に伝承も含めて詳述されている。それによれば江戸時代宝暦年間(1751年から1764年)以前に七町ばかりの城跡の大半が開墾された。また、浅羽下総守が後北条氏の時代に居城し、北条氏照の家臣として上野攻略に功績があったが秀吉の天正18年の関東攻めにより落城した模様であるらしい。江戸時代には萱方村に属していたので萱方城とも言われている。

浅羽城の伝説
 大徳子龍が昭和5年に「埼玉史談第2巻1号」に著した「伝説隻眼の魚」によると、城主浅羽下総守が小田原に篭城した際に、留守居の家臣、息女たちが秀吉の大軍と果敢に戦ったという。要約すると「天正のころ浅羽城主に生来隻眼の息女があり、武芸に長じ今巴御前と呼ばれていた。秀吉の関東攻めのとき、姫は家老の森田将監と篭城したが、上杉・前田の大群に包囲され、奮戦むなしく敗れて、侍女らとともに弁才天の池に16歳の身を投じた。それからというもの、この池で採れる魚はすべて隻眼となった....」(坂戸市史728頁から731頁より)
 付近の地形を見る限り、現在よりも当時の深田や河川の状況が要害としての役割を強めていたとしても、城側の城兵の動員力はせいぜい数百人規模であり、とても数万の大軍を相手に攻防できるかどうかはかなり疑わしい。しかし、そうした歴史的な事実も確かに大事ではあるが、こういう伝承・伝説の類は歴史へのロマンが広がり大変興味深いものがある。

確認できる遺構
構造的特徴および周辺の地理的特徴

 北に向かって飛び出す舌状の台地に築かれ、南側に大手口を持つと考えられている。(以上「中世の坂戸」64、65頁より)昭和30年代の前半には、水田地帯の中に城跡として伝わるあたりが高まりを形成していて、北側の眺望が開けていたというが、現在では全くその痕跡すら窺うことができない。北西約600mを高麗川が流れ、北西側の備えは堅い。舌状台地については現在の周辺の地形、国土地理院の2万5000分の1の地図、昭和30年当時の写真などの資料から見ておよそ比高2、3メートル程度ではなかろうかと考えられる。

参考資料、古文書、記録

「坂戸市史」(1992年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行) 昭和30年ごろの浅羽城の貴重な写真が2枚と、浅羽城にまつわる伝説が掲載されている。
「坂戸の歴史--坂戸市文化財ガイド」(1992年坂戸市教育委員会編集発行)
「坂戸市史--中世資料編1」(1987年坂戸市教育委員会編集/坂戸市発行)
「坂戸風土記--坂戸市史調査資料第1号」(1978/坂戸市教育委員会発行)
「中世の坂戸」(1996年坂戸市教育委員会編集発行)浅羽氏と浅羽城の絵図面について詳しい。  

文化財指定
訪城年月日
2004/10/18
訪城の記録

<<2004/10/18>> 「坂戸市史」や諸先輩のサイト情報などから遺構は全く存在しないとは知らされていたが、本当になにもない。本丸跡と伝えられる住宅の中の公園の道路沿いにある、坂戸市教育委員会の設置した説明版が唯一城跡であったことを伝えているのみである。仮に当時の様子をかろうじて伝えているものがあるとすれば、北東側の田園地帯に残されている深田と水路ぐらいであろうか。(下記の写真参照)特に坂戸市では以前において30以上もあったとされる中世城館跡は、残念ながら遺構が確認できるものは近年消滅の傾向が著しく、現在数ヶ所を残すのみとなったようです。
 その中で文化財としての指定を受けているのは、多和目(田波目)城だけである。(埼玉県の選定重要遺跡の指定だけで、それ以外の城館跡については坂戸市としての独自の指定は行われていない模様)消滅した代表格のような城跡ということになる。 

 


 浅羽城北東側に広がる田園地帯。未収穫の稲が残り、気候の関係からか、その脇には刈り取った稲の茎の間から新しい稲の茎が伸びていた。
<<2004/10/18 撮影 >>
交通アクセス

 東武越生線一本松駅から北へ徒歩約20分程度。一本松の信号を基点にすると県道74号線を北西に600mほど進み、右側に郵便局のある丁字路を左折し、100メートル先で二叉路となるのでこれを右折すると左側に細長い公園が見える。そこが浅羽城跡です。
 車を駐車するとすれば、そのまま現在の道を直進して公園の北側に出れば鶴舞団地の集会所があり、公園側の道路脇に寄せれば幅員が結構あるので、少しの間ならばそれほど迷惑はかからない感じがします。


<<2004/10/18撮影>>
 説明版が木陰になっているので、文字が少し見づらい。そういう訳でサムネイルにしてあります。
 住宅団地の北側の深田と用水路。浅羽城の存在した当時は周辺の深田が城への進入を防ぐ手立てとなっていたといわれており、なんらかの関係があるのかもしれないが.....詳細は不明です。堀の幅は約2m、深さ1m未満。写真の右側は比高2m程度の台地になっている。
 このあたりが本丸跡であるとのことであるが、遺構どころか痕跡さえもなく、公園内はちょうど樹木などの剪定と清掃の作業中であり、もともと写真の撮りようがないのに加えてどうにもならない構図となってしまった。
 さすがに撮影する被写体に窮して、公園脇の花壇の秋の花を愛でたりした。(呼称調査中(^^;) 住宅地の中の集会所では住民の方の葬儀がしめやかに執り行われている模様であった。
 

 
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