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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/09/30の日記  増田館 田村陣屋
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態4 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合27
所在地
埼玉県大里郡江南町成沢1125
歴史と沿革

深谷上杉氏にかかわる城館跡らしいのですが
 深谷上杉氏は14世紀後半南北朝時代に、庁鼻和(こばなわ)に城を構えた上杉憲英(のりふさ)に始まるとされています。その後、管領上杉氏の一族として憲光、憲信と3代にわたり庁鼻和の地を本拠地としましたが、折りしも享徳の乱の発生により康正2年(1456年)第4代の房憲の時に古河公方足利成氏との軍事的緊張関係から、庁鼻和の西側に位置し唐沢川により東側を遮断されたより防御性の高い深谷城を築城して移り住んだとされています。
 その後、天文21年(1552年)に本家筋にあたる関東管領上杉憲政が越後に逃亡したのち、深谷上杉氏は後北条氏の軍門に降ります。 しかし、永禄4年(1561年)関東管領を承継した長尾景虎が関東に侵入したあたりから、当主上杉憲盛は同族の好で他の関東諸将らとともに後北条氏に一時敵対します。けれども、その後関東に対する謙信の影響力が低下していくと、元亀4年(1573年)には再び後北条氏の傘下に戻り北条氏邦の城代として深谷城を引き続いて支配したとされています。
 さてこの遺構は、「大永5年(1525年)関東管領上杉憲政の時代に武田氏に対する備えとして築かれ成沢越前守隼人正義佑が守備した」(出典不明、伝承か)と静簡院の入口の説明版に記載され、また「新編武蔵風土記稿」にも静簡院の開基が深谷上杉氏当主8代目にあたる上杉憲盛であるとの伝承を紹介していることから、いずれにしても深谷上杉氏に関係する城館の一つである可能性がありますが、それ以上のことは不明のようです。また、「新編武蔵風土記稿」「成田家分限帳」などから19貫文の知行を有する成田氏の家臣成沢藤三郎という人物も存在したようです。

確認できる遺構
土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■和田吉野川の南側の東西に伸びる江南台地北端の崖線付近に位置し、周辺には文珠寺の増田館、須賀広の田村陣屋、千代の上杉館など戦国時代の城館が同じ台地上に存在しています。とくに南東2キロメートルには古河公方の家臣であったとされる増田四郎重富の比較的規模の大きな館跡が所在しています。
 この二つの中世城館が同時に存在したと仮定すると古河公方と管領上杉氏の争いである享徳の乱、山内上杉氏と扇谷上杉氏の争いである長享の乱などを通じて常に軍事的な緊張関係が存在していたものと推定されますが、伝承などの関係から整理するとどうやら両者の間には約50年ほどの隔たりがあるようです。
 また、「江南町史 通史編 上」(2004/江南町)に収録されている航空写真を見ると同史も記しているように東西250m、南北150m程の大きさの二重方形館の形が見て取れます。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「江南町史 資料編1考古」(1995/江南町)
「江南町史 通史編 上」(2004/江南町)
「成田家分限帳」(鷲宮町史資料編四 1983/鷲宮町) 

文化財指定
訪城年月日
2005/09/30
訪城の記録

( 2005/09/30 )
館というよりも小規模な城郭の気配が
 深谷上杉氏関係の城館の一つらしく関東管領上杉憲政の時代に武田氏に対する備えとして築かれたと静簡院の入口の説明版に記載されていました。しかし自分の見た限りにおいては、現在遺構として確認できるものは本堂北側の農道沿いの長さ30m、高さ1.2から1.5mほどの土塁だけでした。また、その南側の部分が空堀跡であるらしいのですが外形上は殆ど分からない状態となっています。しかし、周辺の南北の地形をよく見てみるとそれぞれに水路が西から東へ向けて流れる浅い谷が形成されており、比高差は南側で約3m、北側の少し離れた所では少なくとも5m以上あり、天然の要害というほどではないにせよ東西にのびる細長い台地の上に所在していることがはっきりと分かります。
 さて、この静簡院では少し耳を澄ますとどこからか延々とご詠歌が流れてきます。最初はどなたかのご法要かとも思いましたが、ご本尊のお参りの際によくよく見てみると、本堂の正面の壁にスピーカーが据付けられていてそこから流れていたものでした。おそらくは防犯対策と参詣者へのサービスの両方の意味合いがあるように思われました。

記念撮影

 北西側から眺めた成沢館の遠景で、上記の航空写真から推測するとこの畑は外郭の北西部分ということになります。
 
( 2005/09/30 撮影 )
訪城アルバム
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■1■
 天正14年(1586年)に上杉憲盛(天正3年没)が開基と伝わ曹洞宗静簡院の本堂。
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■2■
 本堂裏手の道路沿いに遺されている土塁跡で延長約30m、高さは1.5m前後ですが、近年墓地の拡張により西側の部分が消滅したということです。また、最近では家庭用のゴミ回収用の施設が設置されています。(写真には写っていませんがこの右端の部分に土塁を削るようにして設置されているように見えました)
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■3■
 正面が現在遺されている土塁で、おそらく右側が消滅した土塁跡のようです。
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 僅かに残されている土塁を境内側から撮影したものですが、寺院の庭などの一部となっているため少し分かりにくくなっていました。
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 リニューアルされたらしい上杉憲盛の墓所。難をいえば歴史的な風情が殆ど感じられないような...
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 静簡院り入口付近に設置されている説明版。
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■7■
 台地の北側を東流する和田吉野川付近から江南台地を遠望したものです。東西に伸びる台地の形状がはっきりと目にすることができ、成沢館の遺構が所在する静簡院はこの台地の崖線から200mほど南に位置しています。なお、左上に写っている黒い影はUFOではなく鳥(名称不明)です。
交通アクセス

・県道11号線を熊谷方面に向かいゼリア新薬研究所の先の信号を左折約し直進600m 
MapFan Web の案内図です  

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