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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/09/26の日記 塩館 常安寺館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ4 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象2 総合26
所在地
埼玉県大里郡江南町大字須賀広字重殿108
歴史と沿革

旗本稲垣氏の陣屋跡あるいはそれ以前の
 その所在地から須賀広陣屋とも呼ばれます。「新編武蔵風土記稿」では、須賀広村の陣屋跡ととして記述され、旗本稲垣藤七郎重太の陣屋であり家臣の田村茂兵衛重次を代官としてこの地を治めたものと推定されています。稲垣重太(1594〜1658年)は稲垣長重(1539〜1612年)の三男で、兄の重綱(1583〜1654年)は初代三河刈谷2万3千石の藩主となります。重太は寛永3年(1626年)従五位若狭守の叙任を受け徳川秀忠、家光、家綱に仕え6千石を知行し大番頭、留守居役を歴任し、その子重貞は元禄11年(1698年)近江山上藩の初代藩主となります。一般に旗本の陣屋については江戸町内の旗本屋敷の整備により近世の早い時期に消滅したといわれていますが、この田村陣屋については少なくとも17世紀の中頃、あるいはひょっとすると大名として領地替えとなる元禄期頃まで使用されていた可能性もあるのでしょうか。
 また、天正18年(1590年)の後北条氏滅亡の後に徳川家康が新たに関東の支配者となりましたが、武田氏の有力な武士団のひとつで天正10年(1582年)の武田氏滅亡後は徳川家の家臣となった武川衆のその多くは家康より鉢形城の防備を命じられました。そして、天正20年(1592年)3月の「武川衆宛知行書立」によれば現在の小江川、須賀広、千代合計660石余りの地が武川衆に対して知行され、さらに慶長9年の同書立では武川衆に対して加増の沙汰がなされています。このことから塩館と同様に武川衆に関連する館であった可能性も想定されます。
 さらに、東約2kmに所在する15世紀にその歴史をさかのぼるとされる文珠寺増田館の存在を考慮しますと、これだけの普請をする為の推定延べ数千人にもおよぶ労力・経費・月日などを考慮すれば、近世の陣屋として再利用される以前に恐らくは帰農した後北条氏時代以前の在地領主・土豪の館跡などが存在していたものと考えることもできるのではないかと思うのですが。

確認できる遺構
土塁、水堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■江南町中心街のやや南側に所在する西側に浅い谷を擁した緩斜面に所在しています。遺構として確認できるものは@東端の重殿稲荷から西側に伸びる堀跡とAこれにともなう西端の土塁の一部、B及び館跡を南北に縦断する町道の西側の部分に遺された自然地形も含めた辺りです。なお、館跡の中心部分は宅地となり民家が3、4件所在するほか、周辺部分は畑と平地林が広がっています。江南町を南北に分断するように西かに東に向けて流れている和田川沿いの丘陵地帯には、西から塩館、常安寺館、そしてこの田村陣屋、増田館などがほぼ直線状に並んでいます。
 また、「江南町史 資料編1考古」によれば方形を呈した陣屋跡で面積は39,600平方メートルの広さを有するとしていますので、このことからおよそ南北約250m、東西約150mから200mの範囲と考えられます。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「江南町史 資料編1考古」(1995/江南町) 
「江南町史 資料編3近世」(2001/江南町)   

文化財指定
訪城年月日
2005/09/26
訪城の記録

( 2005/09/26 )
肝心の土塁と水堀跡を見落としそうに
 江南町中心街のやや南側で西側に浅い谷を擁した緩斜面に所在しています。遺構として確認できるものは東端の重殿稲荷から西側に伸びる堀跡とこれにともなう西端の土塁の一部、及び陣屋跡を南北に縦断する町道の西側の部分に遺された自然地形も含めた辺りということになると思われます。
 ただ、土塁と水堀の位置関係がやや複雑な配置となっていることと、それ自体が民家の宅地内のやや薄暗い屋鋪林と混在していることから、比較的離れた場所からの観察となりますので見落とす可能性もあるかもしれません。特に「江南町史の資料編1考古」では西側の江南小学校側からの写真を掲載していますので、ついつい自分の場合には危うく遺構はこれだけかと早とちりする所でした。もっとも、重殿稲荷から西側に伸びる堀跡に面したきれいに整備された町道を散策すれば、まず見落とすようなことはないと思います。また、夏季は屋敷林などの樹木や雑草が叢生していますので、できることならば11月以降から3月までの間の訪城がよいかもしれません。

記念撮影

 
 陣屋跡の西側にはこのような浅い谷が形成されていて、天然の防御施設となっています。谷の水田面との比高差は最も高い所で4m前後はあります。
 また、土塁の一部と水堀跡が遺されている場所もこの写真の右側(東側)に所在しています。

( 2005/09/26 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■
 陣屋跡の中心部の東側には「重殿稲荷」という小さな稲荷神社が所在しますが、この位置が陣屋跡の東端部分と考えられます。また、重殿とはこの地を治めた稲垣藤七郎重太(しげもと、近江山上藩の祖)との関わりがあるものと考えられているとのことです。
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■2■
 重殿稲荷の周辺には水堀跡のような水路が遺されています。この水路は曲がりくねりながら細々と西へ延びて西端の土塁や水堀が残されている場所に繋がっているように思えました。
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■3■
 意外にも重殿稲荷の北側は見通しのきくきれいに整備された「重殿ふれあいひろば」と命名された公園となっていました。
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 北側の町道から眺めた陣屋跡。林の見える部分の右の方が土塁の一部が遺されている辺りかと。
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■5■
 叢生する草木越しの画像のため、説明がないととても土塁跡には見えないのではないかと。実際には晴天時でもかなり薄暗いので、肉眼でも見落としてしまう可能性があります。外側での高さは2mほどの部分もありますが、位置的に見て櫓台のような気もしますが。
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■6■
 上の土塁の場所に近い水堀跡。どうも土塁と水堀の配置関係が直線的ではないようで全体的なイメージを掴みにくいように感じました。
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 西側の江南南小学校の方から眺めた陣屋跡の様子。「江南町史 資料編1考古」(1995/江南町)に掲載されている写真はこちら側から撮影したもののようです。
交通アクセス

・県道47号線を東に600m入った江南南小学校の東側 MapFan Web の案内図です  

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