( 2006/08/14 )
凸巨大板碑と構堀
はじめに通称「寅子石」と呼ばれる高さ4mの埼玉県指定文化財の延慶年間の板碑を見学。畑の中の墓地に所在しているので全く迷わずに直行。長瀞町の仲山城の近くの5mを越える応安の板碑に比べれば幾分小さいものの、周辺が全くの平坦地なので目立つことこの上なし。
さて、肝心の遺構はというと事前に所在地そのものがやや曖昧なため、およその見当をつけて西側ほ進んでいくと、民家の屋敷林の北側になにやらそれらしい気配が漂っていました。該当個所に近づくに従い次第に気配が濃厚に僅かばかりの期待も。
構堀の現状は幅2間から3間、深さ約1mの規模のものが北側で30mほど、西側で20mほどが鍵の手状に確認できます。
しかし、その時代背景については明確ではないものの、屋敷の北側から西側を囲む構堀の一種であることは間違いがないようです。ただし、付近には水田の開発・耕作に伴う用水路が数多く存在しているために、中世城館に関係するものと断定するには資料的な裏づけが不足しているようにも思われ正直な所その判断に迷いました。
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( 2006/08/14 撮影 ) |
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■1■辻谷堀の内の遠望
構堀の屋敷林遠景ですが、用水路上の蓋の歩道を西方へと進んでいくと、何と一部コンクリートの蓋がずれていて、人間の足がすっぽりと落ちるぐらいの隙間が。昼間ならばそうそう落ちる心配もないものの、年配者・幼児ならば危険な状況。また周囲は外灯なども無いので無論夜間ならば、間違いなく大怪我に繋がる可能性が。この際、腰痛覚悟で約60キロほどのコンクリート製の蓋と格闘して、隙間のずれの復旧に成功。 これで9月始め頃からの原因不明の腰痛の理由が明白に(笑)
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■2「用水路」か「堀跡」か
綾瀬川はこの屋敷林の向こう側(南側)を流れていますが、北側にもこれに並行する形で用水路が複数所在していますので、手前の溝の部分はこれらを繋ぐ水田の用水路のようにも思えます。しかし、奥の屋敷林近くでは、前掲の画像のように明確な構堀の形態を維持していました。
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■3■水田脇の向日葵 画像クリックで拡大
本来ヒマワリ(向日葵)は夏を代表する植物ですがこの多分「サンリッチ・オレンジ」と思われる品種は花期が2ヶ月以上あるようです。
一方背景のかなりぼやけたピンク色の花は秋を代表する同じキク科の一年草のコスモス(秋桜)。堀の内近くの水田の傍らに仲良く並んで咲いていました。敢えてヒマワリに焦点を合わせて背景をぼやかしてみたのですが、撮影者の影響を受けてヒマワリそのものもいくらかボケています。
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■4■ネコ顔をしたスズメ除け...たぶん 画像クリックで拡大
この日は出会う全てのネコに逃げられて、この絶対逃げないネコとお近づきになりました。
ネコのお面の両眼はキラキラと光るCDのような素材が嵌め込まれていて、鷹の鋭い眼球を連想させる目玉のような付属品とともに、水田を吹き渡る風に時折揺らぐ風景はなんとも形容のし難いユーモアがあり製作者の遊び心が伝わってきました。
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■5■通称「寅子石」といわれる巨大板碑 画像クリックで拡大
高さ4mのこの板碑は、水田地帯の平地に所在しているので見落としようが無いくらいにとにかく目立ちます。 「南無阿弥陀仏」の6文字の彫の深さと豪快さを感じさせる字体には、なかなかの見ごたえがあります。延慶4年(1311)の紀年が刻まれたもので、正式名称は「馬込辻谷真仏報恩板碑」とされ浄土真宗の祖親鸞の高弟である真仏の追善供養のために造立されたもので、勧進により集められた銭百五十貫という文字が裏面に刻まれています。
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・綾瀬川の北岸、国道16号線東大宮バイパスと東北本線が立体交差する地点から西北西に約300mほどの地点。
・いつもガイド の案内図です
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凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
埼玉郡岩槻領馬込村の項に小名として 「辻屋」との記載があり、現在の 「辻谷」という字名に関連しているものと推定されますが、それ以上の記述は見られません。
■武蔵志
旧馬込村周辺の記述については欠落している模様です。
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「蓮田市史 通史編TおよびU」(2002・2004/蓮田市)・「蓮田市史 考古資料・古代中世編」(1999/蓮田市)
・2006/09/10 HPアップ
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