城館跡の目次 トップ頁へ戻る サイトの趣旨 城館跡の目次 HP雑記帳
参考資料等 リンク集 工事中
PAGEの先頭 PAGEの最後 管理人へメール 工事中

アクセスありがとうございます。     素人の趣味ですので不備や間違いなどが相当にあると思います。     もしお気づきの点がございましたらご指摘ください。  
城館跡の名称
関連ページのリンク 2005/12/19の日記 2006/12/23のブログ 円良田城 金尾城 天神山城
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態7 探し易さ5 交通利便3 体力消耗4 歴史経緯2 印象3 総合28
所在地
埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷小坂331―1
歴史と沿革

日本最大の板碑と仲山城は深い関係が
 「新編武蔵風土記稿」野上下郷村の記述によれば、「城山 村の北にあり、登る事十町ばかり、絶嶺僅の平地・堀切も見えたり、土人の伝えに、何の頃なるにや、阿仁輪兵衛直家と云うもの居れ利りと云」としるされています。現地解説板や「ながとろ風土記」などによると北面の武士であった阿仁和兵助橘基保が神託により東国に移り住み新田義貞に仕え、正和元年(1312)に上州金山城の配下として城郭を構えたと伝わっています。長子直家は2代目城主となりましたが、延文2年(1357)に児玉郡秋山城の腰元「白糸」に恋慕して色恋沙汰のもつれから合戦となり、秋山城主秋山新九郎続照とその叔父である上州平井城の平井仙蔵重勝に敗れて仲山城は落城し直家は荒川の川原で討死を遂げたとされています。
 なお、当時の時代背景は南北朝時代の抗争が各地に頻発していた時期でもあり、直家が実際にどちらの側に立っていたかは判断する材料がありません。全く根拠はありませんが、寧ろこれに関連する争乱により、討死を遂げたというのが真相ではないかと思うのですが。
 国の指定史跡とされている国内最大の板碑である「野上下郷板石塔婆」は、この直家の十三回忌追善供養のために直家の夫人と一族郎党の手で造立されたとされています。

確認できる遺構
本郭、腰郭、堀切
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■野上下郷小阪地区の標高280m、比高120mの独立した山上に所在し南北の尾根を堀切り、その間に本郭と腰郭を2か所ほど配置したという簡易なの構造ですが地形的には北側の尾根が唯一の攻略ルートと考えられます。自分で実証したとおり南側の尾根筋も登攀は可能ですが、勾配も急で岩塊なども露出していますので極めて困難化と思われます。また北側と西側はより標高の高い陣見山・不動山の山系に囲まれて山上からの眺望は南側に限られています。
 仮に伝承などのとおりに城攻めが行われているとすればやはり北側の尾根伝いに攻めあがったものと考えられます。しかし、その合戦の規模は山上の狭さや領域の支配や人口などから考えると、多目に見て数十人が立て籠もる要害を200人程度の軍勢が攻略したという合戦の規模ではないかと推定されます。なお現地の解説板によれば経塚、御殿池、馬廻り、樋ノ口など城跡に関係する地名が付近に残されいるとのことです。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「」写真でみる児玉の歩み(2005/児玉町教育委員会)
「ながとろ風土記」(1974/長瀞町教育委員会)   

文化財指定
訪城年月日
2005/12/19、2006/12/23
訪城の記録

( 2005/12/19 )
「急がば回れ」は正しい
  南側の暖かな日差しを浴びる無住と思しき西光寺に立ち寄ったところ、墓地の裏側から山頂方向に向けて比較的しっかりした踏み跡が確認できたので迷うことなく登頂へ。しかしこれが間違いの始まりで、50mほど高度を上げたあたりから踏み跡は背丈を越える笹薮の出現とともに跡形も無く消失することに。それでも山頂に向けて前進を続け、漸く笹薮を抜けたと思ったら今度は棘のある潅木地帯に遭遇する始末。さらに、そのあとはつる性の植物に前進を阻まれて難渋し、次第に斜面は傾斜を増幅させ地面に積み重なる落ち葉は滑りやすく足元は著しく不安定モードに突入。ホールドになりそうな木の枝や根も、枯枝が多いためにこのあたりで一時立ち往生状態に。
 しかし、そうこうするうちに何とか高さ4mほどの緑泥片岩の岩塊の下へとよたよた何とかたどり着き一息をつくことに。さてどうしてこれを登ろうか...と、ここが思案の為所に直面、岩場も直面。足首の捻挫などという最悪の事態の発生に注意を払いながら、とりあえずは自己の経験・判断を信じて迂回ルートを見定めることに。右側から回り込んでいくのが最も足場が良さそうだと判断し、枯葉や浮石の足元に注意しつつ、枯枝以外のありとあらゆるものに掴まり平坦な岩塊の上部に到達。
 このあたりから再び踏みあとらしきものもあちこちに見られるようになり、まばらな潅木地帯抜けて南側の腰郭と思われる場所にあるNHKの電波増幅施設のところに到着。ここからは尾根筋の道が極めて明確となり電波増幅施設の脇を通り、途中で主郭南側の小規模な堀切を確認したのち東屋の所在するという本郭へ直行。その東屋で飲んだ無名メーカー製500mlで78円の適度に冷えたお茶の味が実に美味く、力が入らなくなった足首を含めて体力・気力がよみがえりました。しかしこれは自分の責任とはいえ、安戸城の藪が実に可愛いらしく思えてならない、現在のところでは間違いなく最悪の部類に属する藪漕ぎ体験ということに。

正しい道を歩くのがこれほど楽なものとは
 さて帰路は順路どおりに北側の細い尾根筋を辿り途中のもうひとつの堀切を確認し、その傾斜の度合いから東側からの攻略には著しい困難性を感じました。尾根筋の道は標高220m地点の切通となった峠部分に10分も要せずに到達。この尾根筋の道を登るのならばそれこそ5歳児でも登れそうなルートでありました。また、この峠部分までは幅員が狭く勾配のきつい個所が見受けられるものの、多分車で上がることもできそうな感じがします。
 一方これに対して、自分が登頂に要した時間は何と40分以上も要したことに。資料には確かにこの北側のカタクリの自生地の方から回りこむと、比較的楽に登ることができる旨が記されていましたの。やはり時々はそうした情報も当てにしないといけない場合もあるのだと深くひたすら自省を。また、この山城は頂上に近づくほど斜面の傾斜が鋭くなり、少なくとも北側の細長い尾根筋以外には攻め口の存在しないことも実感し、それはそれで貴重な体験をさせていただいたのでありました。

 県道82号線の金尾要害山の峠道の下り坂の途中から眺めた仲山城で、東西方向と北側をより標高の高い山に囲まれた立地条件のため国道140号線と荒川方向の南側のみに視界が開けていることがわかります。

( 2005/12/19 撮影 晴れ )

( 2006/12/23 )
やはり正しい登口から
 1年ほど前に西側の西光寺方面の裏道から山頂に向かって強行突破を試みたものの、叢生する篠竹の藪と茨の群生に進路を阻まれ、終いには目前に岩場が出現するなど散々な目に遭遇した曰つきの山城にて。
 軽といえども曲りなりにも一応は四駆なので、今回は北側の林道の峠部分まで車でそのまま進出。(但し、車高の低い車や3ナンバーは無理かと) 正しい登口からの入山なので、明らかに1年前とは異なり北側の平坦な尾根筋からの道程は実に楽な登り道。 但し心肺機能の低下は全くの別問題にて候。
 尤も「北西の堀切、「東屋の所在する主郭」、「南側の堀切」、「南側の小郭」と一通り回っても所要時間は僅か数分にて完了するというミニ山城。 南北方向の尾根筋を利用した山城の往復所要時間は上り10分、下り6分ほどで20分もあれば、2箇所の堀切と3ヶ所ほどの小さな郭跡の残る山城の確認は完了してしまうほどの規模なのであります。
 「小屋がけ」の作事を想定すると最大でも30人と収容しきれないような主郭を含む実にコンパクトな城域と南方の秩父往還しか見通すことのできないという立地条件。 地元の伝承は別として、ことによると戦国時代には武田氏などの侵攻に対する物見砦として使用されたとの可能性を頭に浮かべるのでありました。


記念撮影

 資料には比高差およそ120mほどと書かれており、明らかに先日の安戸城(東秩父村)に比べれば楽なはずの訪城だったのですが、近道をしようとして結果的にわざわざ困難なルートを選択して2005年最悪の藪漕ぎ体験となりました。画像クリックで拡大
 あくまでも正しい登山口は訪城アルバムの「22」「20」「19」などの写真と説明を参照してください。なお、上記の画像は再訪したときに西側より撮影したものです。

( 2006/12/23 撮影 晴れ )
訪城アルバム
以下の画像は全て2005/12/19に撮影したものです。
画像クリックで現地解説板へ
■1■画像クリックで現地解説板へ
 1928年2月7日国指定史跡(記念物)指定の高さ5mに及ぶ日本最大の板碑
画像クリックで拡大します
■2■画像クリックで部分拡大 
 阿仁和直家が延文2年(1357)秋山新九郎に敗れて討死を遂げたのち、十三回忌にあたる応安2年(1369)に奥方の芳野御前(妙円尼)らに造立されその菩提を弔ったことなどが板碑自体に刻まれてた文言から推定されています。
 この板碑は明治25年に現在の国道140号線となる県道が新設されたために現在の場所に移転されたとのことです。
 
■3■
 南西側の西光寺の白壁漆喰の堂宇が良く目立ったので立寄ったのがそもそもの間違いで、この寺が目に入らなければ北側のカタクリの自生地の方から回りこむ予定でした。とはいうものの、別にこの無住のお寺に責任があるわけでもなく全ては自分の判断誤りに尽きます。
画像クリックで拡大します
■4■画像クリックで拡大
 この辺りの斜面の角度は40度近くあり、このため掴まるものがないと横への動きが厳しい状態です。この岩塊も多分緑泥片岩で、右側の斜面を斜めに登りながら岩の上へと上がりました。そこから先も岩の上は掴まるものもなく足元も不安定で...またもこの間の藪漕ぎは筆舌に尽くしがたくとても写真などを撮影している余裕は...(^^;
■5■
 やれやれやっと人心地。板碑の原材料の原産地周辺だけにがあちこちにこのような破片が散らばっていました。中央の緑泥片岩は近世の民間信仰の石碑のようですが、他の普通の緑泥片岩の破片と混ざっていました。
■6■
 写真の右端の低い山が天神山城のようです。
■7■
 御嶽山、三笠山、八海山の大神を祀った近世以来流行していた民間山岳信仰の石碑。
■8■
 本郭の南側の腰郭の露出している岩塊で、これも恐らくは板碑の原料となる緑泥片岩かと思います。下の帯郭状の平坦地よりも2mほど高くなっていました。
■9■
 一番南側の帯郭のような腰郭にはNHKの電波増幅装置が設置されていました。
 
■10■
 本郭南側の腰郭との間に存在している堀切ですが、現在では本郭側で2m、腰郭側では1m程の高さしかありません。
■11■
 本郭の南側の腰郭状の100uほどの平場。
■12■
 本郭から南側の方向にやや低くなって続いている細長い地形で、二の郭というにはやや規模の小さな腰郭状の平場。
東西方向に幅約10m、南北方向に長さ約15m、面積にして150uほどの規模があります。
画像クリックで拡大します
■13■画像クリックで拡大
 本郭の東屋の脇に設置されている城跡の解説板。意外にもこういうものと遭遇するととても嬉しくなります。
■14■
 本郭の東側の岩塊の後ろ側は小さな腰郭のようなスペースが見受けられましたが、地形がオーバーハングしていることと足元が相当に不安定の模様なので接近を断念。
■15■
 東屋が設置されている250平方メートルぐらいの広さを有する本郭。ここで呑んだペットボトルのお茶が実に美味くてお握りが欲しいところですが、非常用の食料しか携帯していないので残念でした。
画像クリックで拡大します
■16■画像クリックで拡大
 本郭の北側の掘切部分は南側の備えに比べて遥かに規模が大きく、このような岩が露出して堀切の東側部分はそのまま谷底へ切れ落ちていました。
 ここで落ちると数十メートルほどは落下しそうですのでまず無事ではすまないかと...尤も本郭側で堀切の高さは現状で3m以上ありますが、その反対側は50センチ程度しかありませんでした。このため見方によっては竪堀のようにも見えなくもありません。
■17■
 本郭北側の堀切を過ぎるとこの細長い痩せ尾根にでますが、両側は切り立った斜面となっていてこの尾根筋の東西方向から登攀することは極めて困難です。下山の途中で右手の東側の谷から相当冷たい風が吹き上がってきました。
■18■
 下山路はこのような痩せ尾根をぐんぐんと下っていきましたので、本当にあっという間に「19」「20」の地点に到達してしまいました。
■19■
 「20」の峠の右手斜面にこういう登山口の標識が丁寧に立てられていました。この峠部分から登ればどう考えても僅か20分程度の道程(休息含めても)なのでありました。
■20■この峠が登山口の目印
 尾根筋の道は標高220m地点との現代の堀切である切通となった人工的な峠部分には、下山路ということもあり山頂から僅か10分も要せずに到達してしまったのであります。
画像クリックで拡大します
■21■画像クリックで拡大
 今年は多分全体として柿の当たり年かも知れません。仕事先の柿の木も200個以上の実がなりましたし、10月下旬頃にはあちこちで鈴生り状態の柿の木をよく見かけたものです。朝晩の低温、日中の乾燥した北風と暖かい日差しがより甘い干し柿を生み出すという見本のような光景です。(下山路の途中の民家の2階の軒に吊り下げられていましたのを失礼して撮影)
■22■この場所から登ってください
 本来の順路は県営長瀞団地(コンクリートの集合住宅)の先にあるこの写真幅3mほどの道を右折します。集落の中の細い道を進んでいくと仲山城への標識が集落の道が分岐する要所要所に丁寧に数ヶ所ほど設置されています。道は直ぐに坂道となり5、6分ほど標高を上げていくと「20」の仲山城の本格的な山道の入口となる峠部分に到達します。
交通案内

・国道140号線沿いの荒川左岸に「野上下郷の板碑の標識」があり、これを右手の小坂の集落へ入った右手前方の送電線の所在する小山。
登口はくれぐれも⇒「22」「20」「19」の写真を参考にしてください。
・2005/12/31 HP追加
・2007/03/16 再訪により画像追加・記述訂正
いつもガイド の案内図です 地図

工事中 PAGEの先頭 PAGEの最後 ご感想はこちらへ 工事中