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関連ページへのリンク  2006/06/05のブログ 八幡谷遺跡 北遺跡 春日氏館 細田城 倉田孫四郎館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合21
所在地
埼玉県北足立郡伊奈町大字小針内宿字戸崎
歴史と沿革

13世紀から16世紀中頃の遺物が出土
 13世紀中頃から戦国時代の中頃にかけての焼き物などの遺物が確認されており、下記の堀跡との関連から「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」「戸崎前遺跡」などの資料・文献によればかなり明確に中世の館跡であるとの推定がなされています。この地域は岩付太田氏重臣であった春日氏の勢力範囲であったことから、それらの一族に関わる遺構であったことも想定されますが、館としてのその歴史的な経緯については詳らかではありません。なおこの戸崎遺跡自体は先土器時代、縄文時代、古墳時代、平安時代の遺構・遺物を伴う複合的な遺跡です。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

土橋跡を含む堀跡
 「戸崎前遺跡」などの資料によると1993年度において、幅4mほどの南側の小口と推定される土橋跡を含む上幅約2.5m、深さ約1m、東西方向に長さ76mの規模の館の南辺と推定される堀跡が発掘され、また館跡そのものはさらに北側へ続いていたものと推定されています。同資料の記述によれば、地形全体としては綾瀬川方向に北側に向けて張出した舌状台地の形態をとり、南側には現在も水路が流れており、東側の水田面との比高差は3m程度であったとされています。このことから低地の湿地帯を天然の堀として利用していたと考えられますが、現在では道路や教育機関の建設によりその地形も大きく改変されているため当時を偲ぶことは全く困難な状況です。

文化財指定
訪城年月日
2006/06/05
訪城の記録 記念撮影

( 2006/06/05 )
遺構は道路の真下に
 伊奈町の記念公園の北側の堀跡が検出された遺跡とのことです。現在は特定区画整理事業により土地の区画形質が大きく変貌し、遺構などが所在していたとされる新しい道路が目立つ住宅地に変わりつつありました。自分の頭の記憶容量の関係で本日はここまでのつもりが、これでは余りにも消化不良ではないのかと自問自答。さて時刻はというば午後3時を少しまわった所ということもあったので、10キロほどの炎天下を歩き続けてきたものの、どうせここまで来たのなら...ということで、このあとは後日改めて訪城を予定していた伊奈城(伊奈氏陣屋跡)へ立寄ることに計画変更を。
 さて、発掘関係の調査報告書を良く調べてみると、たった一枚だけ訪城の証として撮影しいおいた下記の写真の右端の方にどういうわけか偶然、「土橋跡を含む70メートルを超える館の堀跡が発掘された場所が」辛うじて写り込んでいました。もっとも現在は道路となってますが嬉しい誤算というか、それなりに山勘が当たったというか...もっともアスファルトの上からそれらの埋め戻された遺構を透視することなどはできるものではありませんけど。


( 2006/06/05 撮影 晴れ)
交通案内

・伊奈町制施行記念公園の直ぐ北側。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 関連する具体的な記述はありません。
■武蔵志
 関連する具体的な記述はありません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「伊奈町史資料調査報告書第7集」(1991/伊奈町)・「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)
「戸崎前遺跡」(1997/財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団) 

・2006/07/18 HPアップ

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