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関連ページへのリンク  2006/05/08の日記 加納城 加藤氏館 小高氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態6 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合28
所在地
埼玉県桶川市大字倉田
歴史と沿革

謎の倉田氏?
 「新編武蔵風土記稿」 の足立郡倉田村、入間郡今市村(現:越生町)の項などによれば、今市村法恩寺の年譜を引用し「児玉党の系譜をひく倉田孫四郎基行が、事情により隠居(仏門とも)して倉田村に居を構えた」と記しています。
 この点について「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」によれば、「従来から倉田孫四郎屋敷と伝承されているが、これを裏付ける資料の発見は未だない」と記されています。また同書によると、近世に入り岩付阿部氏等の所領を経て幕府直轄領等とつづき、宝永3年(1706)には中山五郎大夫勝周が蔵米から転じ高500石を知行されています。しかし、この時点では江戸の武家屋敷の整備が完了しているため、所謂旗本の陣屋がおかれることはまず考えられません。
 一般に鎌倉時代初期の武士の館跡が、そのまま後世に伝えられていることは考えにくいことから、地域的にみれば戦国時代の岩付太田氏の影響力下に置かれた在地領主層の館跡の一つと推定するのがおおむね妥当なのかもしれません。

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■大宮台地北東の端に位置し1kmほど離れた綾瀬川に向かって緩やかな傾斜があるようですが周辺の地形は、見た目ではほぼ平坦地としか見えません。南側を除く三方向のやや離れた辺りに水田地帯が存在していたものの、現在の状況から見た限りでは天然の要害という地形には程遠い地形です。
 遺構の詳細については「記念撮影」「訪城アルバム」の説明の項を参照。

文化財指定
訪城年月日
2006/05/08
訪城の記録

( 2006/05/08 )
次第に雨模様へ
 倉田氏館の近くの三仏堂に到着した頃から今にも降り出しそうな空模様。このためやや足早に北側に所在する館跡の山林を目指すことに。
 さて、南北方向にのびる公道沿い東側には梨畑が広がり、さらにその向こう側には余り人気のない鬱蒼とした印象のある平地林が所在。こうして館跡のおよその場所は確認できたものの、なかなか平地林へアプローチするルートが見つからず、しばらくそのまま農道を北進していくことに。すると民家の手前の梨畑との間に東へと向かう幅1mほどの農道を確認。次に、この農道を右折して少しばかり東へと進んでいくと、さらに右手の平地林へ向かう細い農道が。
 北西の平地林がやや張出したような個所にはトタンの上屋を掛けた1坪ほどの広さの稲荷社の祠がポツンと所在。東西に延びる長大な堀跡がこの部分には確認できないことから「出郭」のような役割を果たしていたのかもしれないなどといい加減な想像を...
 堀跡の遺構として明瞭な個所は2ヶ所ほど所在し、一つは先ほどの祠西側の畑との間の部分で祠の後ろ側には土塁状の盛り土のような跡も見えます。しかし、隣の畑との関連で考えると多分に「畑の根切り」の印象もあるような。もう一つは平地林と畑との境界部分に所在する東西方向に150m前後はあろうかという長大な空堀。深さは数十センチから1mほどですが堀幅が3間前後はあり、その規模から判断して空堀跡と見るのが妥当の模様。しかし、様々な堆積物や繁茂する樹木のためその全容が掴みきれず。
 またさらに南側の平地林の中にも細かい堀跡状の浅い溝が散見できるものの、藪が酷すぎて地表の形状が識別しづらく雨水の流路なのかどうか判断が困難なくらいに埋没。
 こうして時計回りに館跡の周辺を回っている最中に、空模様は次第に弱い霧雨に変わりはじめ、おおよその堀跡の状況など最小限度の遺構確認も終えたので、とっとと足早で車まで戻ることに。

記念撮影
北東からの遠景



 手前の畑と奥の平地林との間には東西方向に150m前後の長大な空堀跡が遺されているようです。深さは数十センチから1mほどですが、場所により堀幅が3間前後の所もあり、その規模から判断して空堀跡と見るのが妥当の模様です。しかし、その大部分部は草木の著しい繁殖や伐採された樹木などが横たわっているなどの状況のため全容が把握できません。

( 2006/05/08 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■三仏堂
 倉田氏館の近くの三仏堂に到着した頃から、今にも降り出しそうな空模様に変貌しはじめ、このためやや足早に北東に所在する館跡の平地林を目指すことに。
■2■稲荷神社
 北西の平地林がやや張出したような個所(出郭のような配置)にはトタンの上屋を掛けた1坪ほどの広さの茅葺屋根の稲荷社の祠が侘しげに所在。( 「桶川市史」では神明社と記されています ) そっと扉を開けて中を拝見したこともあり、迷うことなく高額( あくまでも自分としては )のお賽銭を。 昼間とはいえ天候のせいもあり、薄暗い湿度の高い陰気な雰囲気の漂う平地林の中は、不可解な現象を含めて何が起こっても不思議がなさそうな気配が漂って...
■3■確かに細かい溝が
 稲荷神社の南東側のいくらか林が開けたような場所には、縦横に幾つかの浅い堀跡状の地形が確認できます。 しかし、現状はかなり埋まってしまっているという印象で自然の雨水の流路のようにも見えてしまいます。
 更に奥の方の様子を確認したい所ででしたが、草木の繁殖がものすごい状態なのでとても地表の様子を視認できる状態では...10m先の様子が見えないぐらいでした。
■4■土塁、空堀跡?
 稲荷神社の祠西側の畑との間の部分で祠の後ろ側には高さにして数十センチほどの土塁状の盛り土のような跡も見えます。また、隣の畑との間には深さ1m幅3mほどの空堀跡が確認できますが、畑との位置関係で考えると多分に「畑の根切り」の印象もあるような。あるいは空堀として存在していたものを農地の開墾に伴い「畑の根切り」を行ったもなのか、その現状からは何とも判断のしようがありませんでした。
■5■北側からの遠景
 「4」の北側(写真の手前方向)に少し張出した出郭のような場所は、この写真の右端の部分ですが、平地林全体の確認のため冬場の再訪が必要なようです。
■6■空堀跡
 東西方向に伸びる長大な空堀跡の東側部分は現在は家庭菜園に隣接しているため落ち葉の堆肥がうず高く積まれていましたが、一定の手入れをされていることもあり空堀跡の状態がよく分かります。
交通案内

・桶川市東部の上越新幹線の南西側約300m、三仏堂の北東約200m付近の平地林。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類記述の状況
「新編武蔵風土記稿」
 足立郡倉田村の項
では「入間郡法恩寺の年譜録に云う、文治2年(1186)隣県之令有倉田孫四郎基行者、この当郡市刺史児玉武蔵守・藤原惟行家弟而為河内守、越生次郎家行の叔父なり、有所以退隠于倉田の邑...」と記されていることから、児玉党の系譜をひく倉田孫四郎がわけあって倉田村に隠居したと解されます。
 また、入間郡今市村の項では更に詳細に法恩寺の年譜録を引用し、倉田孫四郎夫婦がともに仏門に入り瑞光坊、妙泉尼と称し法恩寺の再興を源頼朝に願い出たので、直ちに越生次郎家行に命じてこれを再興させ、吾那(吾野)の3百町を瑞光坊、妙泉尼の2人に与えた旨が記されています。しかし、児玉党系図と対照して倉田氏を名乗る人物が不在なこと、また「新編武蔵風土記稿」の越生氏の出自に関する推論などと照合すると、その年代が100年以上合わないことから年譜録の記述に疑問が残ります。
「武蔵志」記述なし

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「桶川市史 第3巻 古代・中世資料編」(1985/桶川市)
「桶川市史 通史編」(1990/桶川市) 
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