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■1■白鳥神社 2月9日訪城の本郭編 画像クリックで現地解説板へ
「一に天神山とも云う、此山の麓に天神社あり、因りてかく云えり」と「新編武蔵風土記稿」が伝えているように、天神山城の名称の元となった菅原道真公が祭神の一柱である神社。現地解説板によれば、本来は日本武尊、埴山姫命を祀り、岩田氏(白鳥氏)が勧請した後に何時の頃からか天神社となり、戦国時代の末期には白鳥天満宮として北条氏邦が篤く信仰したようです。
なお、この社殿の南側付近を根古屋と呼んでいたことが幕末から明治初期にかけて大野満穂が編纂した「秩父志」の天神山城の詳細な絵図に記されてます。
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■2■急勾配の主郭北側斜面
天神山城への登口は「白鳥神社」の向って左奥にあります。奥の院の祠までは大変歩きやすい整備された道ですが、途中からは主郭へと向う九十九折の道となり傾斜45度前後の斜面を這い上がっていきます。しかし道そのものはしっかりと斜面に刻まれていますので、当たり前ですがよく注意して歩けば殆ど危険はありません。
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■3■構堀 画像クリックで拡大
本郭西側斜面に所在する長さ40m、深さ1mほどの規模の構堀。
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■4■主郭北側の腰郭
主郭西側直下の大きな腰郭から撮影したもの。このあたりから、この腰郭に向う人もいるようで、比較的はっきりとした踏み跡が斜面に遺されていました。写真「9」の個所を撮影したもの。ここから写真の向って右方向にある小口状の坂を上ると荒れ果てた模擬天守の所在する本郭へと到達します。
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■5■模擬天守の内部
模擬天守の内部は相当に荒れ果て、天井は剥がれ落ち、床板が抜け、床板を支える根太も腐食、東側の屋根の一部は崩落し歴史的には3度目ぐらいの落城の憂き目に(所謂「自落」かも)。 体重が軽くフットワークが良ければ腐食していない所を探して内部に入れないこともなさそうですが、長期にわたり放置されているとはいえ民法上及び不動産登記法上の建造物には相違ないので入口からの記念撮影だけに止めて不法な侵入は断念。
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■6■北側の腰郭から本郭を望む
模擬天守は一見頑丈なように見えますが、実は軽量鉄骨と木材で構成されているような簡素な構造なので、風雨に晒される山上で今なおその形態が保持されているのが不思議なくらいです。
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■7■屋根の一部も崩落
狭い本郭の幅一杯にほぼ9m四方の模擬天守が所在するため、このような状態の脇をすり抜けることとなります。重量のある瓦も落下しているのでこの下を通るときにはくれぐれも注意が必要です。
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■8■二の郭から本郭
南側の二の郭の間には大堀切が遺されていますが、その間にこのような軽量鉄骨製の橋が架けられています。堀切に下りてみたところ橋の構造物の腐食が相当に進行していました。勿論すぐに崩落するようなことはなさそうですが、かといって多勢でどかどかと渡るのは間違いなく危険なようです。
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■9■本郭北側の腰郭群
本郭北側の堀切と腰郭を探索しようとした所、大怪我をするほどの比高差ではないものの枯葉の斜面は予想通り滑りやすく、トレッキングシューズに履き替えなかったことを後悔。下りも滑るが上りでも滑るため作業用の特殊手袋であちこちの木の枝にしがみついてやっと本郭に復帰し、この北側斜面からは攻め寄せることの難しさを体感したという次第。
写真「4」の個所を上方から撮影したもの。
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■10■二重堀切
「9」の急斜面の腰郭群を抜けると竪堀や堀切が待ち構えていました。本郭から50mほど下に位置するこの堀切は一番北端の遺構。現在では大分埋まってしまっている印象ですがそのまま尾根の両側に竪堀となって下りていました。また、だいぶ下の方まで人が歩いた形跡がありますが、下りはともかくとしてこの斜面を登るのは疲れます。
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■11■主郭と二の郭の間の深さ4mほどの堀切 画像クリックで拡大
西側の正面方向が秩父盆地の北端で天神山城の北西のところで荒川は北から東へとその流路を変えて金尾要害山、花園城の下を東流し鉢形城へと向います。二の郭と三の郭の間にも同様の規模の堀切が所在していたと考えられているようです。
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■12■二の郭直下の石積みの遺構 画像クリックで拡大
比較的有名な石積みの個所のようです。二の郭から三の郭の西側には複数の腰郭や構堀、竪堀などが所在しているはずなのですが、この2月という時期にも拘らず、笹薮が酷くて見通しがほとんど利かずこの場所以外には踏み込めませんでした。
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■13■三の郭南面の石積み?
石積みのような、木の根の成長に伴う侵食のような...全く自信がありません。
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■14■三の郭を巡る鉢巻状の構堀 画像クリックで拡大
三の郭の西側から南側にかけて鉢巻状の構堀跡は思いのほかしっかりと遺されていて意外な印象がしましたが、郭の上部は滑石(所謂蝋石)の採掘のために大穴が穿たれていました。長瀞といえば滑石の名産地でしたが現在は殆ど輸入材に頼っているとらしいいうことを利いた覚えがあります。50年ほど以前の子どもの時分に、父が土産に購入してきた滑石の置物を蝋石代わりにして遊んでいたことをふと思い出しました。
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