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城館跡の名称
関連ページのリンク 2006/02/09の日記 02/13の日記 千馬山城 高松城 花園城 鉢形城 仲山城 円良田城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態8 探し易さ5 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯3 印象4 総合31
所在地
埼玉県長瀞町岩田字城
歴史と沿革

藤田氏の後に北条氏が支配
 「新編武蔵風土記稿」の岩田村の城山の項では、「山内上杉家の家臣であった藤田右衛門佐重利は天文15年(1546年)に河越夜戦以降に北条氏に従い、北条氏邦を婿養子として鉢形城を氏邦に譲り天神山城を築城して転居した。」と記されています。しかし、「秩父志」では「鉢形城から転居する際に築城したものではなく、元々武藏七党丹党の岩田氏の拠点であり、それを永禄弘治年間に藤田五郎安国が改修し、天正年間の初めに北条氏邦の室大福御前が居城した」と記述し、それ以前から天神山城が存在していたことを述べています。また「秩父風土記」では「始め猪俣能登守が城主を兼ね、その後藤田右衛門佐が城主を兼ねた」とされています。
 なお、天文17年(1548年)北条氏康は六男氏光に重利の武勇にあやかるため藤田右衛門佐氏光名乗らせ、藤田右衛門佐重利は天神山城を氏光に譲り用土城を築城し用土新左衛門と改名し、氏光は後に右衛門佐康邦となったというと記されています。(「藤田氏系図」にも記載あり)
 しかし、これらの記述については「戦国人名事典」(2006/吉川弘文館)において、浅倉直美氏は藤田康邦と重利が同一人物であり、藤田泰邦と用土新左衛門尉は別人で、かつ泰邦(弘治元年・1555年没、享年34歳=正龍寺の宝篋印塔銘)の存命中に氏邦を婿養子に迎えることは考えられないとしています。また、氏光が右衛門佐康邦と同一人物であるというのも、どうやら同書によれば明らかに史実とは異なるようです。ただしいずれにしても、藤田氏主流である藤田業繁の家督継承者であった藤田右衛門佐泰邦(重利)が天神山城主であったこと自体は確かなようです。
 別名を根古屋城(「新編武蔵風土記稿」)白鳥城(「秩父志」より)とも。

確認できる遺構
土塁、空堀、堀切、郭、腰郭、石積み、大規模な出郭
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■荒川が北から東側へと流れを変える個所に突き出した標高226メートルの山頂に主郭を置き、堀切を挟んで南東側の二の郭、三の郭へと続く連郭式の山城。西側の秩父盆地側に多くの腰郭、構堀、竪堀を配し、東側のやや幅の広い尾根筋には100m×50mという大規模な出郭が防備を固めています。
 「新編武蔵風土記稿」の岩田村の城山の項では、「...此城跡登り五町ばかり、山上の平坦南北へ長く、南の方井戸村にかかれり。南を前(大手)とし、北を後(搦手)とし..城蹟の地形北の方一階高く、平坦十間四方ばかり、此所少しの堀切あり。それより南の方へ長十間幅、八間ばかりにして又堀切あり。堀幅六尺、深さ一丈。(主郭と二の郭の間に現存する堀切)それより長五十間、幅十間にして又堀切あり。歩幅六尺、深さ六尺。それより又長二十間、幅十間にして堀切あり。堀幅六尺、深さ一丈。これより南の方へ峯を伝え長く、平坦にして井戸村のほうに至る。...」と出郭についての言及がないものの、現在の遺構の状況に照らして比較的正確な縄張りの描写が行われています。
 また「秩父志」の岩田村の項では「出郭」を含めて詳細な縄張りが描かれた「天神山城跡圖」として掲載されています。

文化財指定
訪城年月日
2006/02/09、02/13
訪城の記録

( 2006/02/09 )
足元が定まらず 午前10時10分から午後1時30分過ぎまで 本郭編
 
 観光開発が挫折して廃墟となった模擬天守が、今もなお麓からよく見えるある意味有名な城跡。登口となる白鳥神社からの比高差は僅か90メートルほど。ついうっかりして足元を確認しないままスニーカーで登頂開始。奥の院に当たる祠までは道幅も広く至って楽な登り道。しかし、その場所を過ぎた途端に道は狭くなり木の枝が道に張出し、間伐材が道を塞ぎ...もっとも、道自体ははっきりとしているので全く問題はなし。大きな岩の塊の上に乗る本郭はもう目の前に。
 構堀や大きな腰郭を過ぎ坂小口状の坂を上ると荒れ果てた模擬天守の所在する本郭へと到達。まず本郭北側の堀切と腰郭を探索。枯葉の斜面は予想通り滑りやすく、トレッキングシューズに履き替えなかったことを後悔。下りも滑るが上りでも滑るため作業用の特殊手袋であちこちの木の枝にしがみついてやっと本郭に復帰し、この北側斜面からは攻め寄せることの難しさを体感。
 本郭と二の郭の間の堀切を確認後、二の郭西側の腰郭から見ることができる二の郭石積みを観察して、三の郭へ。観光開発したものの廃業後放置された建物が残骸となって所々に点在しているのをみると遺構が破壊されてしまったことに加えて更にその印象の痛々しさが倍加。三の郭の鉢巻城の堀跡は思いのほかしっかりと遺されていて意外な印象が。
 この跡三の郭付近の井戸跡といわれている個所から出郭方面へ足を伸ばそうと道を探したものの、思いのほか足場が悪く断念。スニーカーであったことが再び悔やまれ、後日、再度北側の谷沿いから攻め上ることとし再訪を期すことに。

( 2006/02/13 )
忘れ物に遺失物 午前10時25分から午後12時30分過ぎまで 出郭編
 
 前回の訪城時に三の郭付近から出郭方面へ足を伸ばそうと道を探したものの、思いのほか足場が悪く断念。スニーカーであったことが最大の理由でありました。今回は足元はトレッキンク仕様で万全かと。しかし今度は必要アイテムである腕時計を忘れ、ついでに途中でデジカメのレンズキャップを紛失...
 今回は二の郭東側の比較的緩やかな傾斜の尾根筋に築城されている出郭の探索がメインですが、攻城する側に立って敢えて骨の折れる東側の谷筋からアプローチすることとしました。さて、思いのほか幅の広い見通しの良いかつては水田地帯であったと思われる谷あいの小道を南下していきます。
 道は途中で東側の尾根筋を登るルートを分岐しますがそのまま谷に沿って直進します。少し進むと谷あいの道は消滅しますので、西側に所在する主郭を過ぎた辺りで頃合を見計らって湿地帯を横断し、南北に流れる小さな谷川を横切り尾根筋に取り付き木の枝にしがみ付いてとにかく上へ上へと這い上がります。今回はやや南に行き過ぎたものの無事出郭の南端部分に到達。驚くほどの規模と良好な状態で空堀、郭、土塁、土橋、堀切など多くの遺構がが遺されていることにある種の感動を覚えました。

( 2006/12/23 )
三度目の正直 13時05分〜14時05分

 天神山城の東側の尾根筋の斜面に築造された出城を「城郭図鑑」殿と再々訪。
相変わらず深い空堀とこれに囲まれた多数の方形の郭群は健在。 本郭直下のこの急峻な尾根筋や谷筋について、再びここまでの普請を行う必然性が存在したのかという素朴な疑問が湧き上がってくるのであります。
 何度見てもしつこいほどの構堀・空堀、竪堀に加えて小口、堀切、腰郭...やはり半日見ていても飽きない光景にて。 それにしても、最上部の腰郭から2の郭への「道」の険しいこと。 出郭へ下るルートの目印としてのマーキングテープが未だ現存していて少しだけ嬉由有之候。 なおこの日はすでに4ヶ所目の山城探訪ゆえに、誠に遺憾ながら完璧な「殿軍(しんがり)」と成り果て候。

記念撮影
天神山城の遠景

画像クリックで拡大

 確か未だ学生の頃だったと記憶しておりますので、もうすでに30年以上も前になるのでしょうか、秩父方面に向って国道140号線を車で走っていると、左手の山上に突如として天守閣が出現したのは。
 この日は都合よく天空に月がかかっていたので、真昼の「荒城の月」の図となりました。大分以前に廃屋となってしまった観光開発された模擬天守はこの南西の方角からしか見えません。この日はご覧の通りの快晴のため、時折屋根瓦の先端部分が太陽に反射してキラキラと鯱のように光って見えました。

( 2006/02/09 撮影 晴れ )


天神山城出郭の堀切 天神山城出郭の堀切の堀底道

−画像クリックで拡大−

 左側の画像は出郭西側の深さ4m近い堀切を西側の郭から撮影したもので、右側は堀切の堀底道から撮影。遺構の多い変化に富んだ城跡は少なくとも2回以上は訪れないとなかなかその特徴を掴みにくいのでありました。                  

( 2006/12/23 撮影 晴れ )
訪城アルバム
以下の画像は2006/02/09 撮影
画像クリックで神社の解説板へ
■1■白鳥神社 2月9日訪城の本郭編 画像クリックで現地解説板へ
 「一に天神山とも云う、此山の麓に天神社あり、因りてかく云えり」と「新編武蔵風土記稿」が伝えているように、天神山城の名称の元となった菅原道真公が祭神の一柱である神社。現地解説板によれば、本来は日本武尊、埴山姫命を祀り、岩田氏(白鳥氏)が勧請した後に何時の頃からか天神社となり、戦国時代の末期には白鳥天満宮として北条氏邦が篤く信仰したようです。
 なお、この社殿の南側付近を根古屋と呼んでいたことが幕末から明治初期にかけて大野満穂が編纂した「秩父志」の天神山城の詳細な絵図に記されてます。
■2■急勾配の主郭北側斜面
 天神山城への登口は「白鳥神社」の向って左奥にあります。奥の院の祠までは大変歩きやすい整備された道ですが、途中からは主郭へと向う九十九折の道となり傾斜45度前後の斜面を這い上がっていきます。しかし道そのものはしっかりと斜面に刻まれていますので、当たり前ですがよく注意して歩けば殆ど危険はありません。
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■3■構堀 画像クリックで拡大
 本郭西側斜面に所在する長さ40m、深さ1mほどの規模の構堀。
■4■主郭北側の腰郭
 主郭西側直下の大きな腰郭から撮影したもの。このあたりから、この腰郭に向う人もいるようで、比較的はっきりとした踏み跡が斜面に遺されていました。写真「9」の個所を撮影したもの。ここから写真の向って右方向にある小口状の坂を上ると荒れ果てた模擬天守の所在する本郭へと到達します。
■5■模擬天守の内部
 模擬天守の内部は相当に荒れ果て、天井は剥がれ落ち、床板が抜け、床板を支える根太も腐食、東側の屋根の一部は崩落し歴史的には3度目ぐらいの落城の憂き目に(所謂「自落」かも)。 体重が軽くフットワークが良ければ腐食していない所を探して内部に入れないこともなさそうですが、長期にわたり放置されているとはいえ民法上及び不動産登記法上の建造物には相違ないので入口からの記念撮影だけに止めて不法な侵入は断念。 
■6■北側の腰郭から本郭を望む
 模擬天守は一見頑丈なように見えますが、実は軽量鉄骨と木材で構成されているような簡素な構造なので、風雨に晒される山上で今なおその形態が保持されているのが不思議なくらいです。
■7■屋根の一部も崩落
 狭い本郭の幅一杯にほぼ9m四方の模擬天守が所在するため、このような状態の脇をすり抜けることとなります。重量のある瓦も落下しているのでこの下を通るときにはくれぐれも注意が必要です。
■8■二の郭から本郭
 南側の二の郭の間には大堀切が遺されていますが、その間にこのような軽量鉄骨製の橋が架けられています。堀切に下りてみたところ橋の構造物の腐食が相当に進行していました。勿論すぐに崩落するようなことはなさそうですが、かといって多勢でどかどかと渡るのは間違いなく危険なようです。
■9■本郭北側の腰郭群
 本郭北側の堀切と腰郭を探索しようとした所、大怪我をするほどの比高差ではないものの枯葉の斜面は予想通り滑りやすく、トレッキングシューズに履き替えなかったことを後悔。下りも滑るが上りでも滑るため作業用の特殊手袋であちこちの木の枝にしがみついてやっと本郭に復帰し、この北側斜面からは攻め寄せることの難しさを体感したという次第。
 写真「4」の個所を上方から撮影したもの。
■10■二重堀切
 「9」の急斜面の腰郭群を抜けると竪堀や堀切が待ち構えていました。本郭から50mほど下に位置するこの堀切は一番北端の遺構。現在では大分埋まってしまっている印象ですがそのまま尾根の両側に竪堀となって下りていました。また、だいぶ下の方まで人が歩いた形跡がありますが、下りはともかくとしてこの斜面を登るのは疲れます。
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■11■主郭と二の郭の間の深さ4mほどの堀切 画像クリックで拡大
 西側の正面方向が秩父盆地の北端で天神山城の北西のところで荒川は北から東へとその流路を変えて金尾要害山、花園城の下を東流し鉢形城へと向います。二の郭と三の郭の間にも同様の規模の堀切が所在していたと考えられているようです。
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■12■二の郭直下の石積みの遺構 画像クリックで拡大
 比較的有名な石積みの個所のようです。二の郭から三の郭の西側には複数の腰郭や構堀、竪堀などが所在しているはずなのですが、この2月という時期にも拘らず、笹薮が酷くて見通しがほとんど利かずこの場所以外には踏み込めませんでした。
■13■三の郭南面の石積み?
 石積みのような、木の根の成長に伴う侵食のような...全く自信がありません。
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■14■三の郭を巡る鉢巻状の構堀 画像クリックで拡大
 三の郭の西側から南側にかけて鉢巻状の構堀跡は思いのほかしっかりと遺されていて意外な印象がしましたが、郭の上部は滑石(所謂蝋石)の採掘のために大穴が穿たれていました。長瀞といえば滑石の名産地でしたが現在は殆ど輸入材に頼っているとらしいいうことを利いた覚えがあります。50年ほど以前の子どもの時分に、父が土産に購入してきた滑石の置物を蝋石代わりにして遊んでいたことをふと思い出しました。

以下の画像は2006/02/13 撮影
■15■ここからはは2月13日訪城の出郭編です。
 北側から眺めた本郭。天神山城の地形的な弱点は南側の尾根続きの部分がまず挙げられますが、その次に考えられるのが写真左側のこの東側の谷に張出しているやや幅の広い比較的緩やかに見える尾根筋です。
■16■東側の谷
 東思いのほか幅の広い見通しの良いかつては水田地帯であったと思われる東側の谷あいの小道を南下していきます。道は途中で東側の尾根筋を登るルートを分岐しますがそのまま谷に沿って直進します。少し進むと谷あいの道は消滅しますので、西側に所在する主郭を過ぎた辺りで頃合を見計らって湿地帯を横断し、南北に流れる小さな谷川を横切り尾根筋に取り付き木の枝にしがみ付いてとにかく上へ上へと這い上がるといくらも進まないうちに出郭の東端に到着します。
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■17■出郭南西部分と構堀、竪堀 画像クリックで拡大
 この出郭部分は標高160mから200mという40mの比高差を生かして、腰郭が10ヶ所以上、小口を有する比較的規模の大きな郭が3か所もあり、その間には構堀、竪堀、堀切が施されるというなかなか威圧感のある構えとなっています。
■18■堀切
 左側が出郭で高さ約2m、右側が腰郭で高さ約4mですが急勾配なので登るのも下るのもなかなか骨が折れます。。
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■19■構堀 画像クリックで拡大
 出郭の北側の角部分で構堀の深さは1mほど。
■20■出郭の北側斜面
 この出郭の斜面の高さは自然地形の尾根筋を利用しているために5mから6mの高さを有し、東側の大きな谷筋や本郭と二の郭の間の狭い谷から攻め寄せる軍勢に対して、こちらからは見えても相手からは見えにくい上方からの攻撃という大きな威力を発揮できます。
■21■西側上方の比高差4mほどの腰郭から東側下方の700uほどの出郭を望む
 この撮影個所の坂小口を有すると思われる15m×15mほどの郭から、比高差にして20mほど上方にかけて3段の郭および腰郭が構築されています。ここから上の腰郭へは踏み跡程度の急斜面なので登るのも降りるのも少し疲れます。しかし、岩場が露出しているわけではないので木の枝に掴まって慎重に行動すれば、生命にかかわるような危険は殆どありません。
■22■出郭への最短コース
 東側の谷沿いから出郭への所要時間は上り25分で下り20分ほどですが、途中から道がなくなり湿地帯と小さな川を横切ります。楽に訪れるとしたら、二の郭の小屋を解体したトタンなどの廃材が放置されている辺りから東側へ降りるのが最短ルートのようです。ただし斜面に生茂る潅木の枝などのために上部の二の郭から見ても、出郭東側の麓から眺めても出郭自体を直接目にすることは困難です。したがって、念のため二の郭から降りる辺りの木の枝に黄色のテープを目印代わりに何ヶ所か装着しておきました。これを辿っていけば当分の間は出郭到達間違いなしかと。

以下の画像は2006/12/23 撮影
出郭の小口部分
■23■出郭の小口
 空堀や竪堀に囲まれた方形の郭群の主郭に相当する個所の南側の小口部分に相当します。ゆっくりと落ち着いて眺めると形式上は内枡型となっているようです。
 然しめてこの場所を訪れたときには他の空堀などの遺構に目を奪われて気付かずじまい。今回2度目の出郭探訪にて漸くその存在を確認した次第であります。
交通案内

・2006/02/19 HPアップ
・2007/03/17 画像・記述の追加
・出郭のみを東側の谷から訪城した場合 往復の所要時間は上り25分下り20分程。一部難路有。比高差50mから70m。
・本郭方面 往復の所要時間は上り20分、下り15分以内で道は概ね良好。比高差90メートル。
いつもガイド の案内図です 本郭周辺⇒地図サイトいつもガイド 出郭部分⇒地図サイトいつもガイド

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)、「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収、
「戦国人名事典」(2006/吉川弘文館)、「寄居町史普及版 寄居町の歴史」(寄居町教育委員会/1989編集発行)
「寄居町史 通史編」(寄居町教育委員会/1986編集発行) 

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