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城館跡の名称 西方の国道140号線から千馬山城の全景 大堀切
関連ページのリンク  2006/01/30の日記 高松城 浦山城 仲山城 設楽氏館 花園城
おすすめ評価
 訪城季節3 遺構状態8 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯3 印象5 総合31
所在地
 埼玉県皆野町三沢茗荷沢2980ほか
歴史と沿革

竜ヶ谷城とも
 「新編武蔵風土記稿」などの近世に編纂された地誌などによれば山上の主郭に祀られていると伝わる用土新左衛門正光(政光、正道など)が築城したとされる山城です。「皆野町史」などでは武田氏などの侵攻に備えて鉢形城の西方秩父方面を押さえる役割を担っていたとされています。ただし眺望や距離の点で荒川が流れる秩父盆地北部に直接睨みを効かせるのにはやや無理があるように思われ、そうした機能については尾根筋の北西に所在していたと推定される「田野城」が補完していたものと思われます。
 その後「秩父郡誌」「関八州古戦録」などによれば、天正年間には三上外記、安藤兵庫助などの名が城将などとして登場します。なお、「新編武蔵風土記稿」ではその名称を「りうかい山」として記され要害山が転訛したものであると付記されています。
 また「皆野町史」によりますと、「千馬山城」は永禄期の呼称で、このほかに別名として「田野城」(天正期の呼称)「要害山城」(「秩父郡誌」)「竜ヶ谷城」(一般的呼称)などがあると記しています。

確認できる遺構
主郭、二の郭、三の郭、腰郭(石積)、土塁、堀切、竪堀、構堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■標高321メートルの独立した山頂に主郭を配し、北辺の急斜面が続く尾根筋からの進入はほぼ不可能と思われますので、緩斜面となる南東側を中心に郭、腰郭、堀切、竪堀、構堀などが複雑に組み合わされ花園城、天神山城の築城手法に類似しているとされています。(訪城アルバム「1」の現地解説板を参照)
 南側には「美の山」(標高586.9メートル)が大きな壁となって立ちはだかり、北側は「釜伏山」(標高582メートル)から西へと続く稜線のために、平地の眺望そのものは三沢川沿いに東西方向が開けているに過ぎません。荒川沿いに睨みを利かすというよりも寧ろ、南方の曽根坂峠や北東の釜伏峠の道を監視する役割が強いように思われました。 

文化財指定
 埼玉県選定重要遺跡 1976年10月1日指定
訪城年月日
 2006/01/30
訪城の記録

( 2006/01/30 )
岩尾根に穿たれた堀切...遺構が多すぎて
 登口からいきなりの九十九折の山道に出くわし、ヒイヒイいいながら3分ほど登ると小さな祠のある尾根筋に到達。その西側のやや下がった個所に所在する麓の郭と呼ばれる平坦地を確認したあと西側の尾根筋の道を10分ほど登攀。するとやがて堀切、土橋、腰郭、石積みなどが、これでもかこれでもかと登場してきてデジカメ撮影フル回転。撮影と平行して必死になって縄張り図を参照しながらメモを取るのですが、最終的に60枚以上も撮影したため後の整理を考えるとため息が...(^^;
 さて、肩の郭から物見郭(出郭)と呼ばれる尾根上の細長い平坦地を確認後、特徴のある大きな岩が露出している個所を迂回して二の郭へと到達。すると目の前の2.5mほど上には二つの楕円形がくっついたような小さな主郭があり、無事到達できたことを山上の稲荷神社にお礼参り。
 予め地図で確認していたとおりやはり千馬山城と田野城は同じ尾根上にあり、こちらの千馬山城からは70分ほどで到達することができそうな感じが見て取れます。しかし、この尾根筋の難路をすすんでゆくだけの時間と体力・気力が毛の先ほどもないことから北西の尾根筋の一つ目の堀切を確認して誤魔化すことに。また、写真としては予想通り訳のわからないものになったものの、二の郭下方の折のつけられた構堀付近はなかなか印象的でした。
 ところが水の手とされる谷を挟んだ東側の尾根伝いの遺構については道自体も明確ではなく、余りにも竹薮がものすごく立ち入ることができそうもないので渋々断念することに。しかし別途、少し北寄りとなる尾根筋の予想外のダイナミックな二重の堀切をしっかりと確認できたので満足度アップ。
 さて歳は取りたくないもので、一回目は二の郭北側の堀切を降りる際に股関節が堅くなっていることに気づかず1mほど滑落。もう一回は主郭からの帰路の下り道で落ち葉がずるっと滑って、左の手首を地面に突いてしまい軽く痛めることに。しかし2回ともその後の行動には特に支障がなく一安心を。

記念撮影


 東側に延びる痩せ尾根に遺されているダイナミックな二重堀切の西側部分。樹木の根の成長や岩塊の風化により崩れかけ始めてはいますが、この荒々しい光景を目にしただけでも来た甲斐があったというものです。(「19」「20」「21」の画像参照)
 堀切のこの先は足場も安定せず急傾斜の断崖となっているのでこれ以上近づくのはやや危険な気配が。なお、正面に見える低山はこのあと訪れた田野城方面と思われます。
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( 2006/01/30 撮影 晴れ時々曇 )
訪城アルバム
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■1■県道脇の解説板 画像クリックで拡大
 歴史的な経緯と縄張り図が掲載されたステンレス製の立派な解説板が強石橋の東側の袂に建てられています。初めて訪れたものにとっては登口の案内のようなものがあるとなお親切なのですが。
■2■登口
 登口がすぐに見つかるかどうかという懸念がありましたが、千馬山城の場所も含めて予想よりも簡単に登山道を発見。住宅の手前の左の「黄色い矢印」の部分から左手の尾根筋に取り付いて登っていきます。3分ぐらい辛抱して登っていくと次の「3」の個所に到達します。
■3■「麓の郭」の東側に所在する祠
 「麓の郭」とよばれる人為的な平坦地がこの西側の下方に所在し、かつてはその場所から本郭付近まで見通すことができたということのようですが、現在では樹木の生長により現在は見づらくなっていました。
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■4■腰郭の石積み 画像クリックで拡大
 数か所ほど石積みが存在しているらしいのですが、残念ながら直接確認できたのはこの腰郭の補強部分ともう一箇所の腰郭のみでした。自然の岩塊と組み合わせて郭を補強している所が奥ゆかしいのですが、剥落した石積みの破片が斜面に見受けられるように年月の経過に伴い大分崩落が進行しているようです。
■5■「肩の郭」
 二の郭と物見郭の分岐となる自然地形に近い印象の平坦地です。
■6■物見郭(出郭)の堀切
■7■物見郭(出郭)
 東側の三沢方面と西側の皆野方面の両方が見通せるという正に物見台には格好の地形です。
■8■二の郭を支える岩塊
■9■二の郭
 左側の主郭との間に大分浅くなってしまったような堀が所在し、そのまま東側の尾根筋を堀切る形となって続いています。
■10■山上の小祠
 用土新左衛門を祀ると伝えられている主郭山上の祠。賽銭が26円だけひっそりと置かれていました。
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■11■主郭から伸びる北西の痩せ尾根 画像クリックで拡大
 「田野城」方面へと続く北西方向の狭小な痩せ尾根さえにも「12」のような堀切が施されています。「皆野町史」ではこの尾根筋を搦手と推定しています。ちなみにこちら側から登ってくることは可能ですが、両側は50度前後の急斜面であることに加えて、尾根幅は人一人がやっと歩ける程度の尾根幅しかなく相当に攻撃しづらい地形となっています。
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■12■堀切 画像クリックで拡大
 堀切の先端部分はそのまま谷底へと落ち込んでいきます。ここを登ってくるのは50度近い急斜面に加え稜線近くは岩が露出し掴まるものがないので相当に骨が折れそうです。
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■13■北西方向から見た主郭 画像クリックで拡大
 最高地点である主郭は敢えて堀切を設けなくとも、小規模ながらこのように人を寄せ付けない峻険な岩場なのでありました。
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■14■主郭北側の傾斜 画像クリックで拡大
 このままの角度で比高差50mほどの急斜面が続きます。二の郭が見ると2.5mほど上には二つの楕円形がくっついたような小さな主郭で、手前の二の郭寄りには稲荷神社無事到達できたことに山上の竜ヶ谷稲荷・龍神を祀るという小社にて取りあえずお礼の参拝。
 簡素で小さな祠ですが俄雨などの時に雨宿りさせてもらうには充分な空きスペースがありました。
■15■二の郭東端部分
 左側の北辺部分は50度ほどの急斜面で、この正面の途切れて先が見えない個所が「16」の堀切部分となります。
■16■二の郭東側直下の堀切
 千馬山城の写真の中でもっともよく見かける構図のひとつで、堀切の堀底道がそのまま二の郭直下の構堀の堀底道に繋がっています。左側の堀切を下るときに股関節が十分に開かず前のめりにバランスを崩しました。
■17■「16」の撮影位置から西側に20mほど後退して撮影したもの。
  左側の斜面が二の郭側で、中央の堀底道の右側に高さ1mほどの土塁が見えます。この位置から更に10mほど西側に後退すると「18」の写真の個所となります。
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■18■折を見せる構堀 画像クリックで拡大
 写真としては予想通り訳のわからないものになったものの、二の郭下方の折のつけられた構堀付近は肉眼ではなかなか見ごたえがありました。
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■19■東の尾根二重堀切 画像クリックで拡大
 西側の堀切部分で、風化などのため上り下りは慎重な対応が必要です。バランスを崩して画面向こう側の北側に落ちるとどえらいことになる可能性があります。
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■20■東の尾根二重堀切 画像クリックで拡大
 東側の堀切
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■21■東の尾根二重堀切 画像クリックで拡大
 手前が東側の堀切で、その向こうが西側の堀切。
■22■
 東側の尾根筋北辺は麓の方では緩斜面であるのに、稜線に近づくに従い傾斜を増し稜線付近では比高差50mほどの峻険な断崖を形成し、この方面からの登攀はまず不可能かと思われます。
■23■「田野城」方面
 主郭から北西の尾根沿いに80分ほどアップダウンの激しい岩塊が露出した痩せ尾根を慎重に辿れば多分到着するはずですがそんな元気はありませんでした。
■24■二の郭南端から見上げた主郭
■25■腰郭の石積み
 資料などによるともっと多くの石積みが遺されているはずですが、この季節特有の枯葉に埋もれて見えない個所が多いようです。もっとも夏場では樹木・草木が叢生して更に酷いことになりそうですが。
 「4」の石積みと同様に「新編武蔵風土記稿」の三沢村の項でも「りうかい山 ...今に石壁なども往々にの遺りてあり...」と記されています。
■26■南東の集落からの眺め
 正面のピークが「物見郭」(出郭とも)だと思われ、主郭は右側の稜線の陰に隠れて見えないようです。上りの所要時間は25分から30分で、下りは15分から20分ほどで、山城もこれぐらいの所要時間だと随分と楽なのですが。
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■27■「美の山」から眺めた千馬山城 画像クリックで拡大
 千馬山城の遠景を撮影すべく南側の観光地「美の山」(586.9メートル)に出かけたものの肝心の千馬山城の位置がはっきりせず1時間以上も貴重な時間を浪費。また位置は特定できたものの、予想に反してなかなか格好な場所が見つからず、何とかデジカメに収めたものの標高差がありすぎて肝心な城跡が下界に沈降しています (^^ゞ
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■28■西方の国道の歩道から撮影した「千馬山城」遠景 画像クリックで拡大
 次に再び国道140号線の三沢集落への入口の交差点まで戻って、よくよく景色を眺めると何と東側の三沢川の谷沿いに三角形をした千馬山の山容がはっきりと見えるではないですか。何もわざわざ時間をかけて「美の山」方面まででかける必要など全くなく、やはり山は下から見上げるものだということのようです。
交通案内

・国道140号線の皆野寄居バイパス皆野長瀞ICの西、県道82号線強石橋バス停から強石橋をわたり、東側の支谷沿いの集落への道を250メートルほど進むとアルバム「2」の個所の登口に到達します。比高差約140m、上り25分、下り20分程度
いつもガイド の案内図です 地図 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)

・2019年3月2日 chrome対応のためタグ等を修正しました。 

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