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関連ページへのリンク  2006/12/23のブログ 円良田城-春の山野草-
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ5 交通利便3 体力消耗3 歴史経緯2 印象4 総合27
所在地
埼玉県児玉郡美里町大字円良田字城山1846
歴史と沿革

別名を「虎ヶ岡城とも」
 「美里町史」によれば戦国末期の城跡であるがその築城時期は不明であるとしています。築城者については藤田氏、鉢形衆の有力者逸見氏、猪股党の猪股範直などの諸説があり、いずれにせよこの地域を支配していた後北条氏の一門である北条氏邦との間接的な関係が窺えます。この点について当時の城将については、「美里町史」では矢那瀬大学、「関八州古戦録」には「猪股能登守の弟小平太則家」が守りを固めたとも記され、「秩父志」では「虎ヶ岡城 臣邊見若狭守持」、「増補秩父風土記」では「猪俣丹波守居」などとの記載が見られますがその何れについても確かな傍証を伴うものではないようです。
 なお、長瀞町の矢那瀬では「秩父志」に記されているように「虎ヶ岡城」と呼ばれており、このため円良田城と虎ヶ岡城が別個の存在であると誤認された時期もあったようですが、現在ではあくまでも同一の存在である考えられています。また「武蔵志」では「ユウガイノ城」(要害の転訛)とも呼ばれていたことが記されています。
 「美里町史」の記述によれば、北条氏邦の居城である鉢形城の出城として食料の供給の中継点の役割を果たしたともいわれ、天正18年(1590)秀吉の関東攻略による鉢形城の攻防の際に真田昌幸の兵により落城したと伝えられていますが、現実問題としてこの程度の小規模な山城を舞台として実際に合戦が行われたかどうかについては甚だ疑わしいものがあります。寧ろ形勢不利と判断した城兵が逃亡・撤退したことによる、いわゆる「自落」ではなかったかと想定することが妥当ではないかと考えられます。

確認できる遺構
土塁、空堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

秩父往還を監視するための砦か
 円良田城の遺構は本郭を中心としてやや南に屈曲した東西に伸びる250mほどの細長い尾根上に所在します。本郭の東西にそれぞれ2か所ずつの堀切を施し、南側の尾根筋にも小規模な三、四ヶ所の腰郭を配していますが、郭と呼べそうな部分は本郭と東西の腰郭部分ぐらいであり、多くて見積もっても100人が籠れるかどうかという程度の規模のようです。こうしたことから、鉢形城の支城として食料の供給の中継点のあるいは眼下の秩父往還を監視する砦のようなものだったものと考えられます。
 なお「美里町史」などによれば、長瀞町側矢那瀬方面は桑畑の開墾のために遺構が消失しているとのことです。東2kmに猪股城、南西1.2kmに金尾城、南東1.55kmに花園御嶽城などが所在し、後北条氏時代の鉢形城の支城のネットワークの一翼を担っていたものと推定されています。
 標高337m、比高差約150mという割には、円良田湖の所在する東側からの登りは峠の先の部分から一転して急斜面となり思ったよりも息切れをいたします。

文化財指定
訪城年月日
2005年4月22日、2006年12月23日
訪城の記録 記念撮影

( 2005/04/22 )
 名前の分からぬ山野草だらけで、己の不明を思い知る
 登山口がいくつかあるようで、地元の方に確認して一番南側の臨時のカタクリの自生地の案内標識が併設された場所から西側の谷に沿って集落の舗装道を上がっていきます。すると、すぐに小さな橋のかかるカタクリの自生地へ向かう左側の道と右側の円良田城への道が分岐する場所に出ます。帰路に分かったことですが、カタクリの自生地の手前まで車で行って駐車し、そこから谷を右にわたって渡ってハイキングコースに入るほうが多少は近道のようです。地元の方は円良田城などとは言わずに「城山」と呼んでいましたが。 もっとも、持参してきた縄張り図の方位を勘違いしたりしていたのこともあり、最後の丸太の階段登りにはいささか閉口しました。西側の大槻峠まで車で行って往復するコースのほうが、はるかに高低差も少なく体力的には楽なような感じですが、こちらのほうがカタクリの自生地もあるし山野草を愛でるにはいいのだなどと独りごとをいってみたりして...
 さて肝心の城跡の方は主郭の手前の腰郭で方向と現在位置を確認して、とりあえず全体の位置関係の把握に成功。まずは、西側に伸びる部分の探索に赴くことに。その前に主郭との間の堀切を確認。この堀切は全体の中で最大の規模があり、本郭との比高差は約十m前後はありそうです。さらにその先に進んでいくと小規模な堀切が二ヶ所ほど確認できますが、どこまでが城跡なのか判断のし辛い結晶片岩の痩尾根となって続いています。
 また、東側の様子は一段低い腰郭が続きその先の郭の一部には僅かに石積が確認できます。またその更に先の左側の斜面には井戸跡と呼ばれる結晶片岩が露出した遺構がありますが、この当たりは斜面で足場も悪いので足元に注意が必要かと。なお、本郭南側の急傾斜となる尾根筋にも二、三段くらいの半円形の小規模な腰郭を確認することができます。
 それにしても、昼時をはさんで都合二時間ほどの在城でしたがそろそろハイキングの季節であるというのに結局最後まで円良田城ではまったく人に会うこともありませんでした。最近になって少しずつ山城を廻るようになりましたが、これまでに人に出会ったのは都幾川の大築城の時だけにて。

( 2006/12/23 )

 この度は「城郭図鑑」管理人さんと同行
 西側の大槻峠より東方の「円良田城」(「虎ヶ岡城」)へ。 峠からはいきなり比高差60mほどの落ち葉でやや滑りやすい斜面を直登。 このために年々能力が低下の一途を辿る当方の心肺機能が一向に順応する気配を見せず、出だしから「先陣」が覚束ないという恥ずべく由々しき事態を露呈いたしました。 直線距離で600m前後のため、所要時間20分ほどにて最初の堀切付近に到着。
 相変わらずこの西側部分については城郭遺構としての範囲が摑み辛き由にて。 また本郭西側の大堀切は相変わらず健在で目の前に大きく立ちはだかっておりました。
 今回は本郭東側からの地形的には些か分かりにくくなってしまった小口も改めて確認することに成功し、南東方向の3段ほどの腰郭群を確認後北東方向の腰郭、石積み、堀切、井戸跡など一連の遺構を確認... などと書くと如何にも簡単に遺構の確認を終えているように聞こえるやも知れず。然し 実のところ前回1度で確認できた井戸跡は、此度は何と3回目にしてやっと遭遇した由にて... 前回の訪城は2年近くの前のこととはいえ、早くも「先陣」のメッキがバリバリと音を立てて崩壊していったのでありました。

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猪俣城の帰途に東側の集落から見上げた円良田城
( 2006年12月23日 撮影 )
訪城アルバム
■1■大槻峠(標高約315m)
 安永年間の紀年銘が刻まれた馬頭観音や天明年間の如意輪観音の石碑が所在するものの、大槻峠であることを示す道標などはありませんでしたがこの場所が間違いなく大槻峠に相違ありません。
 峠の手前約500mほどの林道の途中に東屋を伴う15台分くらい収容できる駐車場が右側にも所在しています。 然し午前7時30分過ぎの早朝ということもあり、峠道へと続く山道直下の道路脇のスペースに車を寄せて駐車して大槻峠から東側へと山道を進んで行きました。
■2■緑泥片岩の欠片がごろごろと
 大槻峠からはいきなり標高369mの地点まで登らざるを得ないので、早くも心肺機能に黄色信号が点滅...尤も山道とはいえ一般的なハイキングコースでもあるので道に迷うような心配は殆どありません。然し地形図の所持を含むハイキング程度の装備は不可欠かと思われます。
 なお、このピークからの下り道ではくれぐれも左側(北側寄り)の尾根筋には向かわないようにすることが肝要です。(城跡ではない別の尾根筋へと出てしまいます)
 
■3■西端の南側の竪堀
 堀切の延長といえなくもありませんが、北側には明確な竪堀は確認できず南側にのみこのような地形が残されています。
■4■本郭西側の堀切その1
 「3」の個所から80mほど尾根筋を東にすすむと初めて明確な堀切が登場しますが、落ち葉などで埋もれていることもあり見かけ上の深さはおよそ3m前後というところです。南側からの撮影。
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■5■本郭西側の堀切その2
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 画像左側(西側)の堀切の見かけ上の深さは2m程度ですが、右側の部分は本郭の斜面に連続しているためその比高差は10mをはるかに越えるという規模を有しています。南側からの撮影。
■6■本郭西側の堀切その2
 円良田城の最大の見せ場と思われる同様の堀切を北側から撮影したものですが、こちらからの画像にでは大きく印象が異なります。
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■7■本郭西側の堀切その2
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 同様の堀切の高さを表現するために南側の竪堀近くまで後退して撮影したものです。主郭側の斜面が50度前後の急傾斜を有していることが分かります。以前に念のため直登を試みましたが、何分にも足元が悪く困難を極めて断念しました。
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■8■本郭西側の堀切その2
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 主郭側の堀切の中段近くから撮影したもので、主郭側とその反対側の高低差が明確になるように工夫してみた構図です。西側から攻め登ろうとすると遥か頭上からまともに矢玉の攻撃を受けることとなるはずです。
 元来の自然地形である尾根筋の高低差を巧みに利用した備えであると考えられます。
画像クリックで林道からの遠景へ
■9■東屋の所在する本郭
 午前8時を過ぎて漸く朝日を浴びて明るくなったきた本郭の風景ですが、土塁などの遺構の存在を確認することはできません。面積にして300㎡ほどの広さしかないので、仮に小屋掛けしたとしても50人ほどが漸く寝泊りできる程度のものかと思われます。    画像クリックで途中の林道からの遠景へ
 帰りがけに東屋にて小休止いたしましたが、ハイキングの季節としては相応しくないようで我々2人以外には人影を見ることもありませんでした。
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■10■本郭への小口部分 
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 北側から撮影した2度目の訪城にて理解できた本郭への小口部分で、縄張り図などの資料がなければ気付かないまま見過ごす可能性も無きにしも非ず。
 実のところ最初の訪城時には資料を持参しながらも、山城の経験が未熟なためものの見事に見落としておりました。
■11■本郭への小口部分
 同様の小口部分を南側から撮影したもので、画像の右下から本郭への道が登ってくるという構造となっています。従って、右手の本郭部分から攻め手の頭上に横矢をかけることが可能であるということにこの時初めて思い当たったのでありました。
■12■南側からの本郭
南側の腰郭(2の郭とも考えられなくもない規模を有しています)から本郭を眺めたもので、その比高差は目測で4m程度と思われます。 画像の右手の道を登ると「10」「11」の小口部分に到達します。
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■13■本郭東端から見下ろした東側の腰郭部分
 およそ4mほどの比高差を有し、手前西側の本郭を防御する役割を担っていると考えられます。
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■14■本郭東側直下の腰郭
 一応は平坦な地形ですが、小屋掛けできるほどの広さがあるというほどではありません。少し先の東側には尾根筋の切れ目のような小規模な堀切状の地形も所在しています。
■15■本郭東側の堀切
 南側から撮影したもので、画像「18」の石積みの個所はこの画像の右手(東側)上方の南側に所在しています。
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■16■井戸跡の所在する斜面の岩盤
 井戸跡はこのように結晶片岩が鍵の手に露出しており、前回と同様にこのときも枯れ葉の下の土が明らかに湿めっていることが確認できました。
 ほぼ城跡の遺構が残る東端部分に所在していることから、本来の城域はもう少し東側までを含んでいたものとも考えることができるかもしれません。
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■17■井戸跡
 肉眼では僅かですが直径にして2mほどの明確な窪みが見えるのですが、撮影した結果はこの通り訳の分からない落ち葉の画像なのでありました。
 画像そのものとしては寧ろ尾根筋の上方から撮影した以前のものの方が多少わかり易く撮れておりました。
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■18■本郭東側の堀切近くの唯一の石積み遺構
 現地地用達されたと見られる緑泥片岩と思われる石材を使用した石積みで堀切東側の細長い平場
の斜面をを補強したものと思われます。 なお、前回訪れたときには、恥ずかしながら些かその所在地を誤認しておりました。 画像クリックで拡大
交通案内

円良田集落からのルートは比高差150mのため、最後の急登がややきつく所要時間は約50分前後。
大槻峠からのルートは多少のアップダウンがあるものの大槻峠自体が標高315mのため比較的比高差が少ない。
あくまでもきつい登りは最初の個所だけなので、円良田城の本郭まではおよそ600mほどの距離。このため所要時間は25分から30分ほどで到達します。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 城跡が所在する矢那瀬村、那賀郡円良田村ともに城蹟に関する記述は見当たりません。
■武蔵志
 円良田村の項に「古城アリ ユウガイノ城ト云ウ (鉢形?)ノ城ト相対シ 経○○也 猪俣小平太○○今平六方○○」と加筆され、猪俣氏との関連についての伝承の存在を窺がい知ることができるようです。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「美里町史 通史編」(1986/美里町)
「関八州古戦録」(槇島昭武原著/霜川遠志訳 1981/教育社) 

・2005/04/28 HPアップ
・2007/02/28 再訪に伴い画像・記述の追加訂正

以下の画像については、2005年4月22日東側の円良田集落から登ったときに撮影したものです。 

■東側の猪俣城へ向かう道路上から見た円良田城。
 いくらか角度を変えてみたものの完全な逆光状態のために一部ハレーションが発生してしまいました。
■本郭のある南側の急傾斜の尾根筋。樹林の中に三段ほどの半円形の小さな腰郭が隠れていますが、谷沿いのハイキングコースからでは全くその存在を確認することができません。
■円良田湖の堰堤の上から北側の眺め。左側の尾根が円良田城へ右側の尾根は鐘撞堂山を経て猪股城へと続きます。
■湖の堰堤上から撮影したもので、左側の山が花園御嶽城の所在する場所かと思われます。
■県道349号線を北上し円良田湖を過ぎると右側に円良田特産センターの建物があり、その300mほど先に円良田城へのハイキングコースの標識があります。この道を左に折れて5分ほど集落の中の舗装道路を緩やかに登っていきます。
 すると小さな橋を渡る道と直進する道に分かれています。一応、左にすすめばカタクリの自生地へ向かい、右側の道が円良田城へのハイキングコースとなっています。しかし、左の道を進んでも途中で谷を渡ればハイキングコースに合流しますので余り変わりはありません。
 そのカタクリの自生地が向側の谷沿いの斜面にあるとのことで、帰りがけに寄って見ましたが残念ながら時期が少し遅いのか、その様子を目にすることができませんでした。
モクレン 画像クリックで拡大
■分岐となる橋の傍の道端に咲いていた見事な紫色のモクレンの花。
 ハクモクレンは高木で開花時期もコブシと同じくらいの3月中旬ですが、この低木のモクレンは高さ1.5mから2mほどの大きさで花は4月中旬が見ごろのようです。
 道々タチツボスミレ、ヤマブキ、オオイヌフグリなど春の山野草を愛でつつというか撮影しながら登っていくので、時間の割にはなかなか先へと進まず。
 谷沿いのハイキングコースの概ね右側の斜面にかなり後の時代のものと思われる結晶片岩の石積が様々な形態で点在し、その年代や意味や役割を含めて真剣に思案..
■新しいもののようですが、正体不明の石積その1
追記⇒「石積み」には相違ありませんが、たぶんイノシシ除けの「シシ垣」ではないかと思われます。(2007/02/27)
■同じく「シシ垣」と思われる石積み。
■谷沿いの道を上り詰めるとこの峠に出ますので、円良田城はここから画像正面の稜線を登っていきます。途中から丸太の階段となり、これが結構息が切れて...然しながらどうにかやっと峠の部分に到着し、円良田城の方向を見上げるとまだまだかなりの登りがありそうな感じが。東側の樹木がそっくり伐採されているので、この稜線からは遠く寄居方面と思われる春霞でぼんやりとした平野のひろがりを目にすることができました。
■先ほどの峠を少し登った所から山の向こう側に寄居方面がよく見渡せますが、この辺りはまだ城跡の中ではないようです。
 途中で、幾度かセメントの原料となる石灰岩を満載した秩父鉄道の貨物列車の走行音と警笛が聞こえ、それが何とも古めかしく長閑に山々に響いており、ゴロリとその辺りの草原で昼寝でもしたくなるような雰囲気でありました。
 
■途中で、ヤマツツジ、ヤマザクラ、スミレなどの春の花が咲きみだれていたので、デジカメの絞り優先機能と、接写の昨日を確認しながらの行動しているため、結局本郭のある山頂に到着したのは登り始めてから何と50分後ということに。
 南側の腰郭(2の郭とも)から本郭を望む。比高差は目測で4m程度と思われます。
■本郭の東側の腰郭状の平場で、本郭に比べて4mほど低くなっています。その東側にはやや小規模な堀切状の地形続き比較的大規模に東側の堀切へと続いています。
■本郭より南側の腰郭(2の郭とも)を見下ろしたところ。
■本郭西側の堀切を南側から撮影。新緑の木々が芽吹き始めており、山城歩きの季節はそろそろ終了に近づいておりました。
■本郭西側の堀切を今度は北側から撮影したもの。
■どの辺りまでが城跡なのか分かりにくい西側の結晶片岩の露出した痩尾根。この尾根道を画像の手前の西側に向かって進むと大槻峠に至ります。
■本郭のすぐ東側の腰郭状の平場から本郭を見上げたところ。
■本郭の東側の堀切を北側から撮影したもの。
■一番東側の堀切。西側の細長い平場部分との比高差は10m前後ぐらいはあります。また、右側の井戸跡はこの場所から更に20mほど東寄りの北側斜面に所在しています。
■城跡の一番東端にある井戸跡と推定されている場所ですが、斜面のため足場が悪く滑りやすいので注意が必要です。
■帰り際にもう一度南側の腰郭(2の郭とも)から本郭を撮影。円良田城の遺構は本郭を中心として東西に伸びる細長い尾根に2か所ずつの堀切を施し、南側の尾根筋にも小規模な三、四ヶ所の腰郭を配していますが、郭と呼べそうな部分は本郭と東西の腰郭部分ぐらいであり、せいぜい多くても100人が籠れるかどうかの規模に思われます。こうしたことから、防御施設としての意味合いよりも南側の秩父往還を監視する役割の砦のような役割を担っていたものと推定されます。
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