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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/01/15の日記 浦山城 設楽氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ3 交通利便3 体力消耗4 歴史経緯4 印象3 総合21
所在地
埼玉県秩父郡皆野町下日野沢
歴史と沿革

逸見若狭守の山城
 「新編武蔵風土記稿」の下日野沢村高松城の項には、「村の東にありて 登ることおよそ十町にして 山上平坦四十間四方ばかり 所々堀切など今猶存せり 鉢形北条の臣 逸見若狭守の城墟なり 若狭守子孫野巻村に蟄居し いま野巻村の名主役を勤む」と記され、逸見氏は鉢形城の逸見郭にもその名を残す北条氏邦の有力家臣の一人とされています。
 逸見氏は小池氏などと同様に、「武藏志」(江戸時代中期に福島東男1734-1802が編纂)などによると甲斐の出身とされています。始めは藤田氏と共に上杉方に帰属していましたが、「逸見文書」によれば永禄4年(1561)12月に後北条氏に降服したと推定され、以後30年間その家臣として武田氏や上杉氏との攻防で活躍したもようです。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■日野沢川が南北に大きく蛇行する金沢川の合流点に所在し、南側は峻険な岩壁が近づくものを拒み東西は深い谷が刻まれた尾根筋を利用して築城された山城で、南東部に主郭が配置され複数の郭がや堀切や竪堀により防御される縄張りとなっていたようです。防御上の弱点はやはり大手口とされる北側尾根続きの「山の神山」方面と考えられます。

文化財指定
訪城年月日
2006/01/15
訪城の記録

( 2006/01/15 )
文字通りの城跡
 高松城は以前からの石灰岩や山砂利などの採掘のために山ごと削り取られ文字通り「城跡」に。城跡としての遺構はほぼ完全に消滅している模様です。なお事前に本格的な発掘調査が行われて戦国時代の城跡であることを示す多くの遺物が出土したということですが、かつての遺構の存在を示している縄張り図や航空写真などの記録とは余りにも乖離した悲しい現実を突きつけられました。
 高位から俯瞰することも含めて、北側の「山の神山」方面から採掘現場にアプローチを敢行。一直線に下って接近したというと非常に格好が良いのですが、採掘により断崖となっている模様のため(尾根筋の先が見えない)ここは大人しく尾根伝いに迂回しながらじりじりと接近を果たすことに。何を隠そう現在地の確認からこの場所への尾根伝いの道を探すまでに何と30分以上も時間と体力を浪費したもので残りのエネルギーが...
 城跡南側の自然地形の延長にして80mほどの岩壁だけはまだ何とか形が残存してましたが、それ以外は見事さっぱりと掘削されて、城跡は2万uほどの平坦地に掘削用の重機がポツポツと置かれていました。資料によれば以前は多分360メートルほどの標高があった模様です。つまりそうすると少なくとも高さにして30m分ぐらいは削り取られている計算になるのかと。
 ここから車を駐車した高松不動までは比高差60mの登りですが、見た目よりも途中の道なき道が3歩進んで一休みの繰り返しとなる辛い帰り道でした。始めにかなり時間を浪費したため車に戻った時点で時刻はすでに2時時50分。高松城南端の岩壁から「天神砦」と「旗塚」が眼下と眼前に大変よく見えたので、太陽の角度と自分の体力と相談してとりあえず行ったことに(^^;

記念撮影

 手前の掘削された平坦地が高松城の遺構が存在した辺りで、目の前には東西100m×南北200mほどの荒涼とした光景が展開していました。また、郭や堀切が正面の「山の神山」の南側の尾根筋に続いていたらしいのですが、その部分もご覧のように削り取られて岩肌が露出していました。なお、おおむね写真の手前辺りが主郭が存在していた場所のようです。

( 2006/01/15 撮影 晴れ )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します
■1■高松不動 画像クリックで拡大
 そういえばこの場所にも記憶が。歳のせいかこういう宗教施設を見ると必ず参拝をする習慣がつきました。しかしこのあと、現在地点を誤認したことから2回ほど違った尾根筋をすすみ人跡未踏の岩場を往復して、下れる場所は必ず上れるという原則を改めて体験。でも息は絶え絶え...
画像クリックで拡大 横瀬町の根古屋城と皆野町千馬山城方面
■2■諏訪神社近くの展望台 画像クリックで拡大
 この場所にもやはり記憶が。多分40年以上前かと思いますが。高松城址の場所自体が林道沿いから見つからず、とりあえず高いところから眺めれば...ということでしたが、ここでも木の枝に遮られて全く見えません。いずれにせよ地形と方向を確認してなんとか現在地だけはとりあえず把握に成功。もっとも、あとから確認したところでは正に正面の真下付近ということが分かりましたが、城跡の山が30メートル以上も掘削されて全く見えなくなっていたことも原因かと。
■3■木立の間の高松城跡
 林道を徒歩で戻る途中でやっと目視できた高松城跡の採掘現場。キョロキョロしながら歩いていたつもりですが、視力が余りないのでどうしても遠くは見落としてしまうようです。それでもなかなかすすむべき尾根筋がなかなか見当たらず、高松不動のところまで戻ってやっとルートを確認。これでそのまま帰ってしまってはポリシーが...ということで午前中の設楽氏館めぐりと2度の尾根筋探しで踏ん張りのきかない状態となっている足腰を叱咤激励。
■4■山の神山への登り口
 九十九折の林道の高松不動まで上らない少し手前の最初の民家への私道のようなところから高松城址へと続く「山の神山」への登口が左手に分岐していました。地形図の読みこなしにかなりの問題があったようです。
■5■高松城の裏鬼門とされる「山の神山」山頂の祠と利勝法大神の石碑
 集落の墓地を過ぎて少し上るとすぐに標高368メートルの山頂の石造りの祠のある場所に到達しました。しかし、残念ながらこの場所からも殆ど眺望が遮られていてかつての高松城址の全体を見渡すことができませんでした。
■6■宝登山
 本来は山の神山の尾根筋付近からかつての城跡を眺めることができればそれで充分だったのですが、採掘現場の方まで下りてみないことにはどうにも様子が判然としない状況でした。そういうわけで、致し方なく山の神山の山頂を越えて東側の尾根伝いに移動し採掘現場へと向うことに。廃車となったマイクロバスが置かれている個所を通り過ぎて採掘現場へと到達。このとおりかつての城跡は予想通り全く見る影もありませんでした。また金沢川を挟んで対岸に位置する宝登山もその南側は近年のゴルフ場の開発で景観が一変していました。
画像クリックで東側の断崖へ
■7■南側の断崖 画像クリックで拡大
 城跡南側の自然地形の延長にして80mほどの岩壁だけはまだ何とか形が残存してましたので、わずかにその要害としての残滓を感じさせてくれました。所々で確認した限りでは概ね15メートル以上の断崖が残されているようで、その下の方も予想以上の急勾配が続いていました。しかし余り断崖の近くまで寄っていくと、採掘による崩壊などの危険性が充分に予見されますのでかなりの注意が必要かと。いずれにしても南側からの出入りは極めて難しそうな地形でであることは間違いないようです。
■8■新しい石垣
 高松不動近くの数軒ほどの集落では、斜面の多い地形なので平坦地を確保するために概ねこういった石垣が宅地などの擁壁として組まれていました。もちろん高松城跡とは直接的には何のかかわりもありませんが、こういった味わいのある石垣も次第にコンクリートの擁壁に変わっていくのでしょうか。
交通案内

・県道284号線日野沢川左岸で根古屋集落北側の尾根
いつもガイド の案内図です 地図 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)、「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)、
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)、「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)、
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)  

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