( 2006/05/29 )
凸陣屋跡の伝承地名
ここも菖蒲城同様に周囲をぐるりと水田に囲まれた地帯で、資料等によれば長福寺の周辺が陣屋跡として推定して差し支えなさそうな印象です。長福寺の北西側には用水路と思われる大きな溝が現存し、その一部は現在も用水路や水田の一部となっているような状態です。この大きな溝は位置的に見て中世の館跡としての堀跡をそのまま用水路として活用しているようにも見えたのですがあくまでも直感的な印象に過ぎないものです。また周辺の道路の形状は明らかにかつての堀跡としての印象が色濃く残存しているという印象が強く、その道路の様子からは二重堀のような構造を窺がわせるものがあります。しかし、時代背景を含めてこの「陣屋」と称される館跡の主が今のところ全く不明なのには本当に弱りました。
また、南西付近に所在する「堀の内」の存在も気にかかるところですが、今回は天候の事情によりパスすることに。
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長福寺の北西側には空堀跡のような比較的大きな溝が現存していて、現状での深さは約1m、幅は約2間ほどの規模を有しています。
この堀跡は北東方向から南西方向にかけて200m以上の直線となり、南西方向では写真の「4」「5」に続いて水田の一部に繋がっています。また、北東側では写真「1」の水田に繋がる用水路(現在は未使用の模様)を兼ねていました。
( 2006/05/29 撮影 曇り )
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■1■東側から眺めた陣屋跡付近
寛政3年(1791)「戸ヶ崎村絵図」(平沢家文書)には2か所ほど陣屋」と記されたの地名が長福寺の境内の東側に所在しています。
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■2■真言宗智山派熊野山無量院長福寺への参道
「新編武蔵風土記稿」の菖蒲町の寺院の由来によれば、近くの本寺となる新義真言宗袋田山安穏寺吉祥院の開山である弘鍐による開山と伝わっています。また吉祥院の開基は菖蒲城主佐々木源四郎と伝わっているとのことですが、こちらの開基については記されていません。
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■3■堀跡?
南辺の内堀跡のようにも見える不自然な集落内のU字型にカーブした通路で、前期の「古図」によれば写真の右手辺りも「陣屋」と記されていることが確認できます。
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■4■堀跡?
用水路としても利用されていた時期もあるようで「記念撮影」の写真から南西方向に100mほど直進して、次の「5」の水田に注ぐような形状となっています。畑の根切りの印象も否定できないような、でも堀跡だと嬉しいのですが...深さ約1mで幅は2間ほどの直線ですのでやはり本来は用水路なのかもしれません。
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■5■堀跡?水田?
こうなると正直全く分かりません、道路の北側は空堀跡のようにも見えるのですが、道路を挟んで堀幅は拡張されて水田の一部を形成していました。なお、右側のビニールハウスの所在する畑は後世に水田を埋め立てたもののように思われます。
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・国道122号線と県道12号線が交差する北東側
・いつもガイド の案内図です 陣屋跡 堀の内付近
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凸地誌類記述の状況
■新編武蔵風土記稿
菖蒲町の項の小名として「馬場、陣屋、堀の内」の城館に関係するとおもわれる地名が記されています。また、戸ヶ崎村の項には「古は足利義氏の臣、佐々木温久と云う人の領地成志と伝う」と記され金田佐々木氏との関連が窺がわれますが陣屋跡との関係については記されていません。
■武蔵志
関連する記述なし。
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凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「菖蒲町の歴史と文化財 通史編」(2006/菖蒲町教育委員会)
「菖蒲町の歴史と文化財 資料編」(2006/菖蒲町教育委員会)
「菖蒲町の歴史ガイド」(1986/菖蒲町教育委員会)
・2006/06/ HPアップ
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