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関連ページへのリンク  2006/05/29のブログ 加納城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯5 印象4 総合31
所在地
埼玉県菖蒲町
歴史と沿革

十六神将内藤氏の陣屋
 後北条氏の滅亡後天正18年(1590)8月1日に、徳川家旗本内藤氏は四郎左衛門正成(1526-1602)の時に家康とともに関東に入り、三河国幡豆郡七百石の知行から埼玉郡に5千石の知行を拝領しました。この正成を初代として幕末の14代正從(まさとも)にいたるまで埼玉郡では戸ヶ崎、新堀、小林、栢間、三箇など5ヶ村5千石を知行したとされています。その後内藤家は3代忠利の不祥事により一時は改易に見舞われるものの、三河以来の武功・家柄が評価され四郎左衛門正成の孫にあたる正重が旧地を賜り、天和2年(1682)5代正吉のときに上野台之郷・下野作原での加増により五千七百石を知行しそのまま幕末に至ります。
 四郎左衛門正成は三河以来の徳川家旧臣の家柄で自身は弓槍の術に長け、姉川の合戦(1570)、三方ヶ原合戦(1572)、長久手の合戦(1574)などを経て徳川家康十六神将の一人とされるほどの武功を立てます。一族の中には延岡藩7万石、挙母藩2万石、湯長谷藩1万5千石、高遠藩3万3千石、岩村田藩1万6千石などの大名となった家系も少なくありません。
 なお、「埼玉の中世城館跡」などでは下萱間陣屋と記されていますが、城館としての歴史的経緯がある程度判明していることから、「菖蒲町の歴史と文化財 通史編」などの記述に従い「内藤氏陣屋」と表記しました。別名内藤陣屋とも。

確認できる遺構
水堀跡、外郭の形状
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■大宮台地東方の元荒川東岸に所在し、元荒川方向に向けて緩い傾斜がかかるものの、概ね平坦な地形で、南西1.2キロメート付近の元荒川対岸には桶川市の加納城が所在します。「菖蒲町の歴史と文化財 通史編」などにると、陣屋跡の面積はおよそ3万5千平方メートル(南北約250m、東西約200mの不定形)で一部二重堀を含む幅10mから15mの堀が巡らされていたとしています。

文化財指定
訪城年月日
2006/05/29
訪城の記録

( 2006/05/29 )
住宅建設までの景観か
 菖蒲町立萱間小学校とその南側に所在していた工場の跡地が陣屋跡とのこと。そうした現況であるにも拘らず陣屋の外郭の形状と水路となった堀跡の一部が明確に残存しています。一度工場敷地となりながらも、「栢間村絵図」「栢間村耕絵図」などと比較してみると外周道路の形状はそのままの状態で残されてきた様子が窺われます。このため外郭形状が掲載された資料を睨みながら、普段とは異なり膝の足取りも頗る軽くまさに至福の訪城で陣屋跡の周囲を反時計回りに一周半。
 小学校の南側には丁寧な現地解説板も設置され、旗本内藤氏とその陣屋についての記述があります。これで縄張りの略図でも付されていれば素晴しいのですが、流石にそこまでの用意はなかったようです。しかし、南側の工場跡地の空き地には現在埼玉県住宅供給公社が所有している旨の立て看板が設置されていました。何れ近い将来には住宅地などとして開発される可能性もありそうで、そうなれば外郭形状を伝える外周部の細い道路は消滅必死であると予想されることが残念の極みです。
  帰路、陣屋跡南側の内藤氏菩提寺である善宗寺へ。栢間村など5ヶ村の領民の建立した高さ3mほどの宝篋印塔を始めとして内藤氏一族の墓石22基を拝見。しかし地盤の関係からか一部傾きかけた宝篋印塔も所在し、また近年は暫し墓参が途絶えているような印象も垣間見られました。

記念撮影
下萱間陣(内藤氏陣屋) 画像クリックで現地解説板へ

 萱間小学校の南側には丁寧な説明が記された現地解説板が所在しています。陣屋跡の大部分は小学校の校庭となっているようですが、特に何らかの遺構が現存しているということではありません。したがって校庭の方をじろじろと眺めたり、或は時節柄みだりに立ち入るようなことは差し控えてこの解説版の所で大人しく記念撮影をさせてもらいました。
 また校庭に沿ってかつては東西方向にのびていたと推測される内堀の跡の道路とこれに並行する現在の用水路もあり、当時の陣屋跡の形状の特徴を如実に物語っていました。

( 2006/05/29 撮影 曇り )
訪城アルバム
■1■外郭の南西部分
 「菖蒲町の歴史と文化財 通史編」に掲載されている「古図」のとおりにかつての堀跡の一部と推定される細い道路が90度の角度で曲折し南西部分の外郭を形成していたことが確認できます。またこの道路に沿って、この手前の西側部分には現在幅1m深さ1.5mほどの堀跡の一部とも思える水路が元荒川方向へと緩やかに流れています。
■2■内藤氏菩提寺の浄土宗國豊山天龍院善宗寺山門
 「新編武蔵風土記稿」によればこの陣屋跡の直ぐ南側に隣接する善宗寺は、慶安2年の朱印により寺領として50石を賜わったとされています。開基は内藤四郎左衛門正成その人で、以後内藤氏歴代当主の菩提寺となりました。
■3■領民の建立した宝篋印塔
 戸ヶ崎、新堀、小林、栢間、三箇の領民が建立した高さ3mほどにも及ぶ大型の宝篋印塔が参道の左側に所在しています。
内藤氏歴代の宝篋印塔 画像クリックで南側からの画像に拡大
■4■内藤氏歴代の宝篋印塔
 墓地の通路の両側には旗本内藤氏の嫡流は正成(まさなり)をから幕末の正從(まさとも)含めて14代となりますが、一族のものなどと思われる22基の宝篋印塔が所在していました。
■5■かつて陣屋跡に所在していた稲荷神社(右奥)と開墾の石碑(左手前)
 この明治41年に建立された「紀功之碑」はこの陣屋跡の開墾の経緯等を記したものですが、冒頭部分には「当所は武蔵七党の一族野与小太郎行基の三男萱間六郎弘光の啓発せし旧城址なり、爾来鳩井三郎義景に伝わり太田庄に属す、そののち徳川幕臣内藤四郎左衛門正成この地に住居し以後同家の所領となった...」というような文言が刻まれていました。
 しかし、鎌倉期に活躍したとされる萱間氏、或は室町期から戦国時代前半に登場する鳩井氏とこの陣屋跡の直接的な繋がりを示すような史料は見当たらないようです。
■6■諏訪神社
 明治の初めに編纂された「武蔵國郡村誌」の記述によれば、寛永年間(1624-1644)に創建されたと伝わる陣屋跡の鬼門(北東)に所在する諏訪大明神の社殿ですが、直接内藤氏とのかかわりを示す史料は見当たらないようです。
交通案内

・県道12号線の東側に所在する菖蒲町立栢間小学校とその南側の工場跡地
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類記述の状況
「新編武蔵風土記稿」
 
埼玉郡栢間村の個所に「陣屋 村の西にあり、横1町、竪3町ばかりの地なり、四方に垣を結廻せり、内藤四郎左衛門正成この地に住し、後旗本の士一統江戸に移りしより、ここには留守居として在住の家人一人ずつ交代して守らしむ、今に至りて然り」と記され、寛永2年(1625)の幕臣に対する「府内宅地の制」により当主が江戸屋敷住まいとなった後も引き続いて陣屋としての支配形態が存続していたことが窺がわれます。

「武蔵志」
 
菩提寺善宗寺と初代四郎佐衛門正成の関係が記されているが内藤氏陣屋についての具体的記述はありません。

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「菖蒲町の歴史と文化財 通史編」(2006/菖蒲町教育委員会)
「菖蒲町の歴史と文化財 資料編」(2006/菖蒲町教育委員会)
「菖蒲町の歴史ガイド」(1986/菖蒲町教育委員会) 

・2006/06/12 HPアップ

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