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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/10/31の日記 戸崎城 種垂城 小沼耕地遺跡 多賀谷氏館 道智氏館
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態4 探し易さ5 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯3 印象3 総合27
所在地
埼玉県北埼玉郡騎西町根古屋・牛重
歴史と沿革

少なくとも3度の落城が
 「騎西町史」によると騎西城の具代的な築城時期は不明とされていますが、「新編武蔵風土記稿」では大田道灌が築城し本間彌九郎が城主となったという伝承を記していますが、騎西町の浄楽寺所蔵の「根古屋古城申伝」には時期は不明なもののそうした経過が記されています。
 文献資料としては享徳の乱の康正元年(1455年)古河公方足利成氏が真里谷武田氏、里美氏、簗田氏、一色氏などが関東管領上杉氏の軍勢(上杉藤朝、庁鼻和上杉憲信・憲明、長尾景長)のこもる騎西城を攻略したことが初見とされています。(「鎌倉大草子」「足利成氏書状写」)
 その後古河公方の奉公衆である佐々木氏が居城し15世紀の終わりごろ種垂城の小田氏が佐々木氏と交替して城主となり永禄3年(1560年)には関東管領を承継した上杉謙信が後北条氏の支配がすすむ関東に進入を開始し、永禄6年(1563年)忍城成田長泰の実弟小田伊賀守朝興の守る騎西城は大軍に包囲され降服します。このため一時は主家の成田氏と共に上杉陣営の一角を形成しますが、上杉氏の影響力が低下するにつれて再び後北条氏側に立ち天正18年の秀吉の関東攻略まで忍城の成田氏の一族として居城しました。
 徳川家康の関東入府後は松平周防守康重が2万石(実高1万6千石)で城主となり慶長6年(1601年)に1万石が加増され常陸笠間へ転封となります。次に騎西城主となったのは小田原城主大久保忠隣の子の加賀守忠常とその子忠職が城主となりますが、嘉永9年(1632年)に美濃加納5万石に転封となったため騎西城は廃城となりました。

確認できる遺構
土塁、堀跡
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■「騎西町史」などによれば、加須低地の埋没ローム台地に所在し東西南北400mほどの規模を有し、騎西町の生涯学習センターとその北側一帯が城跡とされています。近世の武家屋敷は万福寺までの幅500m、長さ1.2kmがその範囲とされています。伝わっている絵図などによれば近世初頭の騎西城は周囲を深田や水堀に囲まれ本丸、二の丸、天神曲輪をふくむ5つの曲輪から構成される連郭式のものであったことが窺がわれます。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「騎西町史 通史編」(2005/騎西町)
「騎西町史 考古資料編1」(2001/騎西町)
「騎西町史 考古資料編2」(1999/騎西町)
「騎西町史 中世資料編」(1990/騎西町)   

文化財指定
騎西城土塁跡 騎西町史跡 1992年3月16日指定
訪城年月日
2005/10/31
訪城の記録

( 2005/10/31 )
模擬天守にも味わいが...
 城攻めをともなう合戦や近世初期の徳川家の大名の居城としての歴史もあるので、実際の所後々のHPの編集のことも考え訪城するのはもう少し色々と資料を読みこなしてからと思っていました。しかし、どうせ何時かは行くのだからこの際とりあえず行ってみようということで、模擬天守もあり比較的著名な有名な騎西城にきてしまいました。
 近世の騎西城の城郭部分は埋め立てや農地開発、近年の宅地開発などで大きく変貌し地表上では殆ど見る影もありません。それでも天神曲輪と推定されるその南側土塁の一部が当時の様子を彷彿する姿で保存されています。また城郭部分の東方に位置する前玉神社西側には少なくとも近世初頭当時の堀跡らしき水田の形状が遺されているように思えました。
 武家屋敷などが立ち並んでいたとされる城の東側の地域には、それほど広くはない範囲に寺が3か所と神社が2か所も存在していることから、一時的とはいいながらも城下町としての歴史を感じさせます。一方郷土資料館となっている鉄筋コンクリート製の三階建て模擬天守も歴史的な考証は別として写真にすると周囲の風景になじんでいるように見えるとともに、歴史・文化財の広告宣伝としての一定の役割を果たしているようにも思えます。しかし、せっかくの施設も年間のごく限られた時期しか開館していないので大変残念な感じもします。発掘された遺物、遺構などのパネル展示だけでも見学できると嬉しいのですが、運営費用や施設管理のことを考えるとなかなかそう簡単には踏み切れないのかもしれません。

記念撮影

 

 議論は色々とあるとは思いますが、資料館を兼ねたこの模擬天守も昭和50年の完成以来すでに30年を迎えて、周囲の植栽の成長と共に騎西町のシンボルとしてよく馴染んできているように見えました。
 なお、写真の被写体としてはこの東側からの角度が比較的宜しいように思いましたが。
 
( 2005/10/31 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■
 騎西城南側の公園は萩原遺跡という縄文時代と古墳時代の住居跡が確認されている場所です。
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 下の解説版の設置されている南側からの模擬天守。建設当初は婦人会館として利用されたようですが現在は郷土資料館となっています、ちなみにこの模擬天守のあるところは近世の騎西城の南側の外堀のあたりに相当しているようです。
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 騎西城の現地解説版。私市城、埼西城根古屋城、寺西城、山根城とも云われたということです。昭和55年から始まった騎西町の発掘調査により障子堀を含む多くの遺構が確認され12世紀から19世紀までの焼き物や16世紀から17世紀の戦国時代の兜などの武具が出土しています。
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■4■
 近世の騎西城城跡の縄張図。現代に伝わっている絵図面には何種類かのものがあり、この写真のものは騎西町教育委員会の調査による「騎西城全測図」に基づくもののようです。
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 近世の騎西城には天守閣は存在せず土塁や堀をめぐらした平屋建ての建物であったと書かれています。この模擬天守の資料館はこの説明版によると年間を通じて1ヶ月と少しの期間だけ開館しているとのことです。
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 騎西町の観光案内図。この案内図にあるように藤の花が咲く頃には郷土資料館も一時開館しているようです
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 現在の生涯学習センターの南東の角に建てられている天神曲輪跡の標柱。かつてはこの曲輪に天神社が存在したことからこのように呼ばれているようです。
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■8■
 土塁跡に設置されている「武州騎西城之図」の解説版。この元になった絵図は大久保忠常、忠職親子が騎西城主であった慶長7年(1602年)から寛永9年(1632年)の間に作成されたもので家臣団の屋敷、足軽屋敷が詳細に記されています。また寺社や道路の位置などは現在の位置と符合しているとのことです。
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■9■
 騎西城の土塁跡に関する説明が詳しく記されている現地説明板。
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 県道38号線沿いに唯一残されている北東側から見た天神曲輪の南側に相当する土塁跡で、東西の長さ約20m、南北約10m、高さ最大で3m程かと思います。ただし、説明版にもあるとおり東側の部分は平成10年に復元延長されたものであるとのことです。
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 上記の土塁を南東側から撮影したもの。左側の高い部分が元来の土塁跡。騎西城の廃城後、江戸時代から城郭の取り壊しがすすみ、昭和40年の時点ではすでにこの土塁の一部が残るのみとなっていたそうです。
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 近世の騎西城の大手門が所在したとされる場所で、写真の右下に標柱があります。
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 前玉神社(さきたま)の境内を西側から撮影したもの。この位置から見ると現在水田となっているかつての堀跡と神社境内を含む周辺との比高差がはっきりと確認できるのではないかと思います。
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 前玉神社の鳥居と社殿。騎西城の古絵図には現在の玉敷神社との関連を示唆する「元ノ久伊豆」との名称が記されています。
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 写真右側の前玉神社の西側には近世の騎西城の堀跡の名残と思われる水田が残されています。(「13」の個所を南側から撮影したものです)
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 水田面と東西の両側の地面の比高差は1mから最大で1.5mほどあり、近世の騎西城大手門前の外側の二重堀のように思われます。県道沿いの町の指定史跡となっている土塁跡と並んで貴重な景観のひとつではないかという印象でした。
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 前玉神社の現地解説版。境内の天神社は騎西城内に存在したものが移設されたと伝わっているということです。
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 秋晴れの青空の下、今年の柿はどこへ行っても豊作のようです。騎西城跡近くの民家の柿の木が絶妙の色彩のコントラストを醸し出していました。
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 北側に広がる水田地帯から前玉神社(左)と元屋敷という地名の残る大手門近くの曲輪の所在していた辺り(右)を場所を撮影したもので、こうして見るとかつての武家屋敷の辺りは水田地帯よりも2mほど高い位置にあることが分かります。
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 日蓮宗妙光寺。この寺院の周囲にも江戸時代の初期には四方を堀が囲んでいる様子が描かれています。
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 この妙光寺の付近には足軽町という小名がのこり足軽衆の屋敷跡が立ち並んでいたということです。大きな石柱の影に標柱が立てられていました。
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 屋敷町の東端に所在する真言宗万福寺。一説には浅井長政の家臣であった牛重村黒川家の祖先が、長政長男の万福丸の菩提を弔うために創建したと伝えられ「武州騎西城之図」では十王堂として記されています。
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■23■
 万福寺の現地解説版。
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■24■近世の騎西城屋敷町の最も東側とされる場所に所在する天神社。
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■25■
 天神社の現地解説版。
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 説明によれば戦国時代まで遡ると推定されている中宿という地名の残る宿場が置かれたあたりを示す標柱。背景の花は萩。
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■27■
 真言宗智山派金剛院。騎西城の近世初期の絵図である「武州騎西城図」には寺の四方にははっきりと堀跡が記されていますので妙光寺と同様に防御拠点の一角を形成していたたものと思われます。多くの末寺を持ち幕府より寺領30石の後朱印が与えられています。
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 金剛院の現地解説版
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 画像板碑の現地解説版
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 高さ3.14メートルの金剛院の阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩の三尊が刻まれた日本最大といわれる画像板碑。
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 ダツラ別名をキダチチョウセンアサガオとも。中南米原産のナス科ブルグマンシア属で漏斗状、あるいはラッパ型の大輪の花を咲かせます。一年草、多年草、常緑低木などの種類があるらしいのですが、これはたぶん常緑低木のような気がしました。花径は約20センチ前後、長さも約30cmと殆ど冗談のような巨大さがユーモラスな印象を与えてくれます。
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 二の丸の標柱の脇には家庭ごみの集積所があるため、烏よけのネットが折りたたまれていました。(写真撮影に際して失礼して少しだけ畳みなおしましたけど)
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 恐らく近世の騎西城の本丸辺りと思われる場所には休耕中の農地が広がっているばかりで、収穫の終了した水田では陽気のせいか稲が再び穂を伸ばし始めていました。
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 文化祭の時期ということもあり、騎西城址のある騎西町の生涯学習センターでは菊花展の開催準備中でした。
交通アクセス

・国道122号線東側、県道38号線沿い MapFan Web の案内図です  

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