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騎西城南側の公園は萩原遺跡という縄文時代と古墳時代の住居跡が確認されている場所です。
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下の解説版の設置されている南側からの模擬天守。建設当初は婦人会館として利用されたようですが現在は郷土資料館となっています、ちなみにこの模擬天守のあるところは近世の騎西城の南側の外堀のあたりに相当しているようです。
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騎西城の現地解説版。私市城、埼西城根古屋城、寺西城、山根城とも云われたということです。昭和55年から始まった騎西町の発掘調査により障子堀を含む多くの遺構が確認され12世紀から19世紀までの焼き物や16世紀から17世紀の戦国時代の兜などの武具が出土しています。
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近世の騎西城城跡の縄張図。現代に伝わっている絵図面には何種類かのものがあり、この写真のものは騎西町教育委員会の調査による「騎西城全測図」に基づくもののようです。
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近世の騎西城には天守閣は存在せず土塁や堀をめぐらした平屋建ての建物であったと書かれています。この模擬天守の資料館はこの説明版によると年間を通じて1ヶ月と少しの期間だけ開館しているとのことです。
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騎西町の観光案内図。この案内図にあるように藤の花が咲く頃には郷土資料館も一時開館しているようです
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現在の生涯学習センターの南東の角に建てられている天神曲輪跡の標柱。かつてはこの曲輪に天神社が存在したことからこのように呼ばれているようです。
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土塁跡に設置されている「武州騎西城之図」の解説版。この元になった絵図は大久保忠常、忠職親子が騎西城主であった慶長7年(1602年)から寛永9年(1632年)の間に作成されたもので家臣団の屋敷、足軽屋敷が詳細に記されています。また寺社や道路の位置などは現在の位置と符合しているとのことです。
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騎西城の土塁跡に関する説明が詳しく記されている現地説明板。
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県道38号線沿いに唯一残されている北東側から見た天神曲輪の南側に相当する土塁跡で、東西の長さ約20m、南北約10m、高さ最大で3m程かと思います。ただし、説明版にもあるとおり東側の部分は平成10年に復元延長されたものであるとのことです。
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上記の土塁を南東側から撮影したもの。左側の高い部分が元来の土塁跡。騎西城の廃城後、江戸時代から城郭の取り壊しがすすみ、昭和40年の時点ではすでにこの土塁の一部が残るのみとなっていたそうです。
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近世の騎西城の大手門が所在したとされる場所で、写真の右下に標柱があります。
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前玉神社(さきたま)の境内を西側から撮影したもの。この位置から見ると現在水田となっているかつての堀跡と神社境内を含む周辺との比高差がはっきりと確認できるのではないかと思います。
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前玉神社の鳥居と社殿。騎西城の古絵図には現在の玉敷神社との関連を示唆する「元ノ久伊豆」との名称が記されています。
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写真右側の前玉神社の西側には近世の騎西城の堀跡の名残と思われる水田が残されています。(「13」の個所を南側から撮影したものです)
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水田面と東西の両側の地面の比高差は1mから最大で1.5mほどあり、近世の騎西城大手門前の外側の二重堀のように思われます。県道沿いの町の指定史跡となっている土塁跡と並んで貴重な景観のひとつではないかという印象でした。
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前玉神社の現地解説版。境内の天神社は騎西城内に存在したものが移設されたと伝わっているということです。
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秋晴れの青空の下、今年の柿はどこへ行っても豊作のようです。騎西城跡近くの民家の柿の木が絶妙の色彩のコントラストを醸し出していました。
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北側に広がる水田地帯から前玉神社(左)と元屋敷という地名の残る大手門近くの曲輪の所在していた辺り(右)を場所を撮影したもので、こうして見るとかつての武家屋敷の辺りは水田地帯よりも2mほど高い位置にあることが分かります。
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日蓮宗妙光寺。この寺院の周囲にも江戸時代の初期には四方を堀が囲んでいる様子が描かれています。
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この妙光寺の付近には足軽町という小名がのこり足軽衆の屋敷跡が立ち並んでいたということです。大きな石柱の影に標柱が立てられていました。
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屋敷町の東端に所在する真言宗万福寺。一説には浅井長政の家臣であった牛重村黒川家の祖先が、長政長男の万福丸の菩提を弔うために創建したと伝えられ「武州騎西城之図」では十王堂として記されています。
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万福寺の現地解説版。
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■24■近世の騎西城屋敷町の最も東側とされる場所に所在する天神社。
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天神社の現地解説版。
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説明によれば戦国時代まで遡ると推定されている中宿という地名の残る宿場が置かれたあたりを示す標柱。背景の花は萩。
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真言宗智山派金剛院。騎西城の近世初期の絵図である「武州騎西城図」には寺の四方にははっきりと堀跡が記されていますので妙光寺と同様に防御拠点の一角を形成していたたものと思われます。多くの末寺を持ち幕府より寺領30石の後朱印が与えられています。
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金剛院の現地解説版
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画像板碑の現地解説版
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高さ3.14メートルの金剛院の阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩の三尊が刻まれた日本最大といわれる画像板碑。
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ダツラ別名をキダチチョウセンアサガオとも。中南米原産のナス科ブルグマンシア属で漏斗状、あるいはラッパ型の大輪の花を咲かせます。一年草、多年草、常緑低木などの種類があるらしいのですが、これはたぶん常緑低木のような気がしました。花径は約20センチ前後、長さも約30cmと殆ど冗談のような巨大さがユーモラスな印象を与えてくれます。
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二の丸の標柱の脇には家庭ごみの集積所があるため、烏よけのネットが折りたたまれていました。(写真撮影に際して失礼して少しだけ畳みなおしましたけど)
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恐らく近世の騎西城の本丸辺りと思われる場所には休耕中の農地が広がっているばかりで、収穫の終了した水田では陽気のせいか稲が再び穂を伸ばし始めていました。
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文化祭の時期ということもあり、騎西城址のある騎西町の生涯学習センターでは菊花展の開催準備中でした。
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