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関連ページへのリンク  2006/05/29のブログ 内藤氏陣屋 鳩井氏館 小林氏館 加納城 騎西城
おすすめ評価
訪城季節5 遺構状態2 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯3 印象3 総合27
所在地
埼玉県南埼玉郡菖蒲町新堀
歴史と沿革

金田氏の居城
 「大塚家系図」によれば金田式部則綱が康正2年(1456)に菖蒲新堀に城を築いて居住したとされています。金田氏は菖蒲佐々木氏ともいわれ同系図によれば近江六角佐々木氏の末裔ともされていますが詳細は不明のようです。菖蒲城主初代の金田則綱は古河公方足利成氏の家臣となり、以後氏綱、顕綱、定綱と続きますが5代頼綱の時に後北条氏に属し、6代秀綱の時には豊臣秀吉の関東侵攻により落城し廃城とされたと推定されています。なお、菖蒲佐々木氏については「菖蒲町の歴史と文化財 通史編」に詳細な論考が記されています。

確認できる遺構
なし(城址石碑のみ)
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■大宮台地の一部とされる島状ローム台地、および長年の周辺の河川の氾濫により形成された自然堤防からは外れた加須低地の中の埋没ローム台地に所在しています。現在も周囲には水田がひろがり、このため確かに要害の地である一方で常に水害との戦いも余儀なくされた地形であったことが窺がわれます。

文化財指定
訪城年月日
2006/05/29
訪城の記録

( 2006/05/29 )
難攻不落の城趾
 予想通りまさに水田のど真ん中の城趾。しかも、高齢者事業団のお年寄りの方々が石碑の周辺を整備中。 このため資材・機材が点在というか散乱状態。したがって記念写真の撮りようが...それでも何とか角度を変えてカメラの視界から人影が消えた瞬間を撮影。その後、城主とされる金田氏の墓石などが所在する近くの永昌寺へ移動。後裔の方の墓所は何とか見つけたものの、古い墓石などは見当たらず。 それでも色々と拝見していく過程で多分ここが金田氏の墓所なのだろうと納得を。さて、今回はネコには遭遇せず、その代わりにチャボが境内をウロウロ。
 永昌寺の帰路、再び菖蒲城へ立寄ることに。雨が少しずつポツポツと落ちてきたこともあり整備作業の中止を期待...しかし、今度は「軽トラ」が石碑の前に来て大きく視界をさえぎり、作業は本格化の一途を辿っていったのでありました...
というような次第で色々な意味においてまさに難攻不落の城趾なのでありました。

記念撮影
内藤氏陣屋から移築した表門との伝承のある屋敷門 画像クリックで現地解説板へ

 内藤氏陣屋から移設されたと伝わる屋敷門。このため地表上の遺構は見ることができないものの、「1個所で2度美味しい」という効率的な訪城です。唯一の発掘調査が行われたのもこの付近のようですが、調査範囲が余りにも狭いこともあり、「発掘調査報告書」の記述を見る限りでは必ずしも十分な成果が得られたという印象ではありません。
             画像クリックで屋敷門の現地解説板へ

( 2006/05/29 撮影 曇時々小雨 )
訪城アルバム
■1■菖蒲城遠景
 北側の観音堂から眺めた菖蒲城の遠景。よく目を凝らしてみると、水田の中に写真「2」「3」の菖蒲城址目印となる木立が見えます。
■2■菖蒲城址の石碑
 6月に行われる「あやめ祭り」に備えてのことと思われますが、城趾の所在する園内をシルバー人材センターの方々が作業をしている真最中。このためあこちに道具やら資材やらトラロープやらが所狭しと置かれていたので肝心の石碑周辺の撮影のしようがなく...結果的にこの角度の構図がベストだった様です。
■3■写真「2」の南側からの遠景
 菖蒲城の石碑の建立されている場所はあやめ園のほぼ真ん中に所在していましたが、当時においてもこれに近いような光景が広がっていたのでしょうか。耕地整理以前には堀や土塁の一部が認められたとのことですが、現在は菖蒲城ならぬ花菖蒲に囲まれた城趾となっています。
■4■花ショウブ
 花菖蒲の時期にはまだ早かったようで、所々にポツポツと3種類ほどが開花していました。花の盛りは例年「あやめ祀り」の行われる6月中旬のようです。
■5■菖蒲城主歴代の墓所
 菖蒲城の城主であった金田氏(佐々木氏)歴代の墓所が所在する曹洞宗久林山永昌寺の山門。山門の左手には金田氏の墓所である旨を示す文化財の標柱が、植樹の陰に隠れて少しばかり傾きかけた状態で設置されていました。
■6■たぶん菖蒲城主金田氏の墓所かと
 歴史の古そうな墓石はこの場所しかないようです。「佐々木」などの文字も何ヶ所かは確認できます。また帰農した後の姓である「大塚」という墓石もあるようなので多分こちらで間違いはないと思うのですが。身勝手な言い分とは思いますけど、小さな解説板などが所在するととても助かるのですが。
交通案内

・桶川市から県道12号線を北上し城下橋の袂の道路沿い、「あやめ園」と移設された「屋敷門」が目印
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類等記述の状況
■新編武蔵風土記稿
 埼玉郡菖蒲領新堀村の項によれば、「城蹟 村の巽方(南東)にあり、今陸田(畑)となる、段別(面積)およそ1町(約1ヘクタールほど)あまり、村民五郎右衛門はもと佐々木氏にて、今は大塚を氏とす、その家系(現在大塚家に伝わる系図)を見るに、康正2年(1456)丙子5月5日足利成氏(初代古河公方)の臣、金田式部則綱という者、当城を築きて菖蒲城と号しここに住せりと 〔鎌倉大草紙〕に足利成氏武州府中の軍敗れて、当城に退くこと見ゆ、金田は本姓佐々木にて、子孫源四郎秀綱、成田下総守氏長に属し、天正18年没落して、それより廃城となれり、按に成田の分限帳をみるに、源四郎というものはのせず、金田備前、金田斎宮などいえるもの見ゆ、是らも此城にこもりしにや」と記されています。

■鎌倉大草子
 享徳4年(1455)6月、時の鎌倉公方足利成氏が幕府および管領上杉氏との抗争の過程で、鎌倉から府中の分倍河原、古河へと転戦する際に「武州少府」に一時逗留した旨の記述があり、この「少府」を「菖蒲」の地に比定する説が有力なようです。また上記の記述と総合すると、この時点では未だ菖蒲城が完成していないことになるので、あくまでも菖蒲城ではなく「菖蒲の地」ということになるようです。しかし、態々敢えてその地名を記していることから、すでに要衝の地として存在していた可能性も窺がわれます。

■成田家分限帳
 忍城主成田氏長の譜代侍として「永楽20貫文 金田備前」および「永楽12貫5百文 金田斎宮」の両名が記されています。金田氏の一族は秀吉の関東侵攻の時には氏長に随って小田原城あるいは成田氏の本拠である忍城に籠ったと見るべきかもしれません。

■上杉家文書
 大永5年(1525)に北条氏綱が越後の守護代長尾為景に宛てた書状中に「金田拘候菖蒲要害」という文言が記されており、すくなくともこの時期において城として存在し機能していたことが示されています。

■武蔵志
 菖蒲領新堀村の項に「古城 菖蒲の城という 今の菖蒲町は星川を隔てるのみ 城地平原にて南は大沼(現在の小林沼と推定される)なり 古河公方の臣佐々木温久入道これに住む 成氏公も武州府中の軍敗れ給いし時は 当城へ退き給う事大草紙(鎌倉大草子)に見えたり...」と記されています。この記述から具体的な以降の存否は別として、周囲を沼地などに囲まれた微高地に城が築かれていた様子が窺えます。

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「菖蒲城跡」(1999/財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団)
 堀と土塁の一部と推定される遺構が確認され、出土した中世の高級な陶磁器の年代は15世紀後半から16世紀後半とされています。ただし「U.遺跡の立地と環境」の記述の内、康正年間の西暦表示などや古河公方の年代に錯誤あり。
「菖蒲町の歴史と文化財 通史編」(2006/菖蒲町教育委員会)
「菖蒲町の歴史と文化財 資料編」(2006/菖蒲町教育委員会)
「菖蒲町の歴史ガイド」(1986/菖蒲町教育委員会) 

・2006/06/19 HPアップ

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