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凸埼玉県児玉郡美里町大字駒衣字新堀1170から1180番地 | |
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地表上はまったく無 | |
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なし | |
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2007/05/14 |
( 2007/05/14 撮影 ) |
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凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿 吉橋大膳について駒衣村の項には、次のような戦国期の中世文書文書が収録されています。 1.永禄12年(1569)長浜の内10貫文、大塚の内10貫文が恩賞として加増 2.元亀2年(1571)武田勢との榛沢合戦の功績に対する感状(吉橋大膳亮宛の北条氏邦印判状−「武州文書」−) 3.天正5年(1577)吉橋和泉守(吉橋大膳亮)、弟とされる高柳因幡守に対する村岡河内守分(欠所か)の所領宛行状(北条氏邦印判状−「同上」−) このほか、著名な天正10年(1582)秩父孫二郎等の秩父衆139人に対する着到状中に吉橋大膳亮の名が記され、「弓一丁、馬上一騎」の軍役を化されていることが確認されています。(−「彦久保文書」−)また、天正一四年(1586)の鉢形城秩父曲輪の維持管理分担として2間分の役割を命じられています。こうしたことからいわゆる一騎駆けの武士に近い極めて小規模な在地領主であったことが推定されます。なお、その墓石は美里町内に所在し、同稿によれば元和4年(1618)に没したことも記されています。 またその弟とされる高柳因幡守については、男衾郡木部村の屋敷一円不入に関する文書(元亀2年北条氏邦印判状)、松村帯刀の欠所8貫500文、岡部弥七郎分(欠所か)の内7貫文の土地を宛行う旨の文書が残されています(−「木部文書」−) ■武蔵志 駒衣村の項には屋敷跡に関連するような記述は確認できません。 ■武蔵国郡村誌 駒衣村の項に「字地」として、「新堀」(にいほり)村の北方にあり、東西3町4間南北3町との記述があるのみです。 |
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林) 「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣) 「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 「美里町史 通史編」(1986/美里町)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本) 「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社)・「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県) ・2007/12/13 HPアップ |
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