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アクセスお礼申し上げます。  素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。  お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。  
1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/05/14のブログ 御所の内 円良田城 猪俣城 猪俣氏館 広木大仏城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象2 総合21
所在地
凸埼玉県児玉郡美里町大字駒衣字新堀1170から1180番地
歴史、人物、伝承

凸 委細不詳の屋敷跡
 「新編武蔵風土記稿」駒衣村(こまきぬむら)の条には、この集落との関わりを示唆しているものとも捉えられる戦国期の後北条氏被官である吉橋大膳亮(吉橋和泉守)およびその弟とされる高柳源左衛門に関連する中世文書が収録掲載されています。こうしたことからこれらの在地領主との関係を想定したいところですが、その傍証となるべき史料等についてはまったく確認できない模様です。この点について、「美里町史」では吉橋大膳亮が那珂郡駒衣村の住人ではじめ武田信玄に仕えその旗本として活躍したとの伝承を記していますがその出典については明示されてはいません。大膳亮はその後に後北条氏に仕え北条氏邦の被官として活動したことが上記の文書として伝わっています。
 なお「同史」によりますと、この新堀屋敷の時代背景や経緯等についてはまったく委細不詳の模様ですが土豪の家敷地と伝わり、別名を「長者面」と呼ばれる伝承地名が残るとされ、また広木の「御所の内館」と近いことから古代の馬牧を管理した別当屋敷かも知れないとの説も紹介されています。
 しかし仮に古代よりの系譜をひく屋敷跡に関わるものであるとしても、その後においては後北条氏の滅亡により帰農した在地領主階層が、さらにその後において村落の有力者となり最終的には近世初期の豪農層の屋敷となったというような可能性もあながち否定できないようにも思われます。

確認可能な遺構
地表上はまったく無
地理的特徴

平坦な耕作地が広がる
 耕地整理が行われた八高線沿線に所在する平坦地で、西側方面に新たな用水路が掘削されているほかには特徴的な地形を見出すことは困難な状況です。「美里町史」によれば、駒衣の集落の北側の水田地帯に所在し「平地で正方形をなし。水彫りの一部が残っていたが、昭和50年代の圃場基盤整備事業の実施で、現在は全く遺構は残存していない」と記述されています。

文化財指定
なし
訪城年月日
2007/05/14
訪城の記録 記念撮影

( 2007/05/14 )
 耕地整理で消滅
 八高線と牛舎を経営されていた農家などが所在するのみで周辺は一面の農耕地。 予めこの場所が城館跡であるという情報が無ければ通り過ぎてしまうような水田の中の平坦地。「美里町史」の記述によりますと、誠に残念ながら昭和50年代の圃場基盤整備事業の実施によって、かつて水堀などが所在したとされる往時の地形は完全に消失しているとのことです。 そうしたなか、西寄りの個所に所在する用水路が気になるといえば気になる次第でありますが、冷静に考えればあくまでも用水路以外のものではなさそうでした。
 また、前記の「美里町史」と「埼玉の中世城館跡」とでは所在地の表示に些か微妙な相違があり、「美里町史」の方がやや八高線の南側に比重を置いているのであります。これに対して後者の方では北側に比重を置いていますが、然し何れにせよ現状の地表上の地形と管理人貧弱極まりない想像力と知識では如何とも判断のしようがないのでありました。

画像クリックで拡大します
手前の畑付近にかつて水堀が所在していた模様
( 2007/05/14 撮影 )
訪城アルバム
「八高線北側の由緒正しい用水路」⇒一応画像クリックで拡大しますが、あまり意味はありませぬm(__)m
新堀屋敷跡付近の畑
凸1 北側の用水路
 八高線の北側に所在するこの水路は、一見すると不自然な形態をしていることから無理やり堀跡と関連付けたいところではありますす。
 しかし当時の減反政策も視野に入れた大規模な耕地整理を想定した場合、これに伴うところの由緒正しい用水路であることは間違いがなさそうです。
凸2 推定屋敷跡は一面の畑
 角度を変えて撮影しても、ただひたすら一面の畑が広がっておりました。
 正面に見える山は秩父地方との境界として壁のように聳える外秩父山系の陣見山(標高631m)方面。また、しいて言えば「円良田城」(別名を「虎ヶ岡城」とも)は画像の左端あたりかと思われます。

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 吉橋大膳について駒衣村の項には、次のような戦国期の中世文書文書が収録されています。
1.永禄12年(1569)長浜の内10貫文、大塚の内10貫文が恩賞として加増
2.元亀2年(1571)武田勢との榛沢合戦の功績に対する感状(吉橋大膳亮宛の北条氏邦印判状−「武州文書」−)
3.天正5年(1577)吉橋和泉守(吉橋大膳亮)、弟とされる高柳因幡守に対する村岡河内守分(欠所か)の所領宛行状(北条氏邦印判状−「同上」−)
 このほか、著名な天正10年(1582)秩父孫二郎等の秩父衆139人に対する着到状中に吉橋大膳亮の名が記され、「弓一丁、馬上一騎」の軍役を化されていることが確認されています。(−「彦久保文書」−)また、天正一四年(1586)の鉢形城秩父曲輪の維持管理分担として2間分の役割を命じられています。こうしたことからいわゆる一騎駆けの武士に近い極めて小規模な在地領主であったことが推定されます。なお、その墓石は美里町内に所在し、同稿によれば元和4年(1618)に没したことも記されています。
 またその弟とされる高柳因幡守については、男衾郡木部村の屋敷一円不入に関する文書(元亀2年北条氏邦印判状)、松村帯刀の欠所8貫500文、岡部弥七郎分(欠所か)の内7貫文の土地を宛行う旨の文書が残されています(−「木部文書」−)

■武蔵志
 駒衣村の項には屋敷跡に関連するような記述は確認できません。
■武蔵国郡村誌
 駒衣村の項に「字地」として、「新堀」(にいほり)村の北方にあり、東西3町4間南北3町との記述があるのみです。
(=一部の表現を現代文風に変更=)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「美里町史 通史編」(1986/美里町)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)
「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社)・「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)

・2007/12/13 HPアップ

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