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関連ページへのリンク  2006/12/23のブログ 円良田城 鉢形城 猪俣城の山野草
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態7 探し易さ4 交通利便3 体力消耗4 歴史経緯2 印象4 総合27
所在地
埼玉県児玉郡美里町大字猪俣字城下2076
歴史と沿革

鉢形城の支城のひとつ
 「新編武蔵風土記稿」によれば、「古城蹟 村の坤(南東)の方にあり、小高き山上にて、から堀土居り跡残れり、相伝へて猪俣氏の城蹟と云...」と記されています。
 「美里町史」では児玉党の系譜を引く猪俣氏とのかかわりを持つ戦国期の鉢形城の支城の一つとしていますが、天正18年の本城である鉢形城の攻防の際にどのような役割を果たしたのかは史実としては皆目不明なようです。また地形・地理的に見て鐘撞堂山の方が標高も高く南側の眺望はそれほど優れないので、守りを固める城兵不在のまま放棄されそのまま廃城となったことが考えられます。
 なお、秀吉の関東侵攻の契機(口実)となった名胡桃城の攻略の当事者とされる沼田城主(城代とも)猪俣能登守邦憲(則直とも)との具体的な関わりは明確ではないものの猪俣一族の本願の地であったことは確かなようです。
 またそれ以前の越後上杉氏の越山(関東侵入)時には、児玉地域から上州方面の街道を監視する物見砦として一定の役割を果たしていたことが推定されます。

確認できる遺構
郭、堀切、狼煙台、竪堀、土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

自然の稜線の高低差を巧みに活用した縄張り
 南東側の鐘撞堂山から続く稜線の北側の南北方向に長さ200mにも満たない稜線に所在し、標高約310mの本郭を中心に南北に連郭式の縄張りが続いています。本郭を中心にして直線状に北側に三の郭、南側に二の郭を配し、二の郭は南側で比高差6m以上の急斜面を形成し、三の郭の北西側には小規模ながらも岩尾根を穿った二重堀切なども確認することができます。
 西側の円良田側と特に北側の児玉方面の眺望が優れていることから、南側の秩父往還側の備えではなく上野方面の往還を意識したものと考えられます。なお、 「美里町史 通史編」には40人ほどの城兵が守備するのにふさわしいと記されていますが、小屋掛けできるような平坦地は合計しても1000平方メートルにも足りません。従って40人はともかくとしても確かに合計で100人規模の城兵が籠ることは難しそうな広さです。

文化財指定
訪城年月日
2006/04/22、2006/12/23
訪城の記録 記念撮影

( 2005/04/22 )
小城でも見ごたえ、歩きがいが
 西側の円良田城から下山した段階で、時刻は既に午後二時近くに。時間の関係で別の方面に回ることもできず、多少藪が叢生していると予想され些かの躊躇もありましたが、至近距離の円良田の谷を挟んですぐ反対の東側にある猪俣城へ。
 途中の二ヶ所の分岐などは非常に迷うところで「余湖さんのHPの情報」がたいへん役立ちました。 左側が谷沿いの山道に入り緩やかに登っていくと左側の尾根が伐採されているところがあり、見晴らしがよさそうでしたので直登を敢行。 そのまま城跡へ突入してもよかったのですが藪が酷すぎることや、方向を見失う可能性があるので途中から本来の道にもどり稜線の峠部分に到着。
 ここから左側の稜線を登ると二の郭南西部の堀切に到達するはずですが、藪が酷そうなので山腹を迂回。その先の鐘撞堂山との分岐となる峠から、踏跡も寂しげな左の山道をたどっていきました。ゴルフと東側、北側で隣接しているため、妙な感じもしますが城跡自体は確実に残されていることが分かります。
 本郭の北側に残された「のろし台」と推定されている円形状の大きな窪み、蟻の戸渡り状の地形を形成する本郭と三の郭を繋ぐ通路、北側の二重堀切と見所は小さな山城ながら色々とあるようです。
 しかし、訪城の季節の季節としてはやはり冬季限定で、もうこの四月の中旬は木々の芽吹きもだいぶすすんでいるようで、もともと藪が叢生している状態を考えると訪城のギリギリの時期だったのでしょう。踏跡自体もあまり定かではなく、落ち葉も深く堆積し、稜線自体もかなりの急斜面で堀り切られていたりして、少なくともスニーカーでは危険なようです。二重堀切の先端から下山できるかな、などと考えたりしたこともあり、トレッキンクシューズなどで用意万端の状態でしたが、それでも二回ほど滑りました。一度は急斜面の堆積した落葉ごと、もう一回は何でこんなとこでこけるのだというような場所で、また思わず茨の枝を掴みそうになったことも..
 猪俣城の稜線を往復したりしていたために、下山が完了したのは既に午後四時に。遅くも五時半までに自宅に戻らねばならない用事があり、やや焦りながらも駐車させていただいた場所の脇にある自動販売機で水分補給を行ってから、往路と全く同じルートを辿り帰路へ。
 帰りがけに寄居にある田舎風の手作り饅頭の店が以前から気になっていたので、栗饅頭、味噌饅頭、いちご饅頭、ブルーベリー饅頭などを土産として購入。 帰りのラジオの放送では今日は「よい夫婦」の日...そんな寄り道をしながらも予想した時間よりも早く自宅に到着。寄居の先の山奥からから自宅まで一般道を正味一時間五十分で戻れたのは初めての経験なのでありました。
 しかし、このあと、猪股城で滑ったときに痛めたらしい右ひざがだんだんと痛みを増幅させ...この訪城覚書を編集している2005年5月1日現在でも未だに完治していないのでありました。

(追記)
 その後は右膝を庇うあまり左膝を痛めた上にさらにまた右膝を痛め..という繰り返しが継続することとなり、両膝の完治にはこのあと何と1年以上の月日を要したのであります。

( 2006/12/23 )
恨みは深し「猪俣城」
 約2年前の訪城時には迷いつつ、然も山野草などを愛でつつの訪城にて候。
このため、地図の確認など著しくおろそかになりこの時点では方位磁石も100円ショップ製というお粗末さ。 現在地と方角などを誤認し訳が分からなくなったことに加えて、2の郭南東側の落ち葉の斜面にて、右膝の半月板を損傷し2週間松葉杖状態に。 以後約半年間は左膝も痛めるなど、暫くの間はまともに歩行することができなくなった曰つきの城跡にて。しかし城跡自体に責任を擦り付けても致し方なく、すべて当人の不注意が原因なのであります。
 そうした事情もあり、今回は打撲・捻挫・切り傷等に対応できる当座の救急用品一式を携行し、地図読みもほぼ万全...のはず。 しかし、南東からのアプローチにてまず前回と同様に2の郭の位置を勘違い(汗) それ以外はほぼ間違いなく各種の郭、竪堀、堀切を逐次確認することに成功。 また前回ピンボケとなった直径6m、深さ1mほどの推定「狼煙跡の大穴」もしっかと画像に収め、2の郭西側のやや分かり辛い小口、北西、北東、南西方向伸びる尾根筋の堀切、竪堀などの遺構もすべて確認した次第にて。  山城の場合には、やはり最低2回くらいは訪れないと全容が掴みにくいということをこの時期になってやっと理解し始めて参りました。
 さて、昼食には些か早めの時間なれど、早朝からの山城探訪のため景色と日当たりのよい城跡南端の尾根筋にて昼食。 このとき珍しいことに独行の熟年ハイカーに遭遇。山城の山中にて人に出会ったのは事実上初めての経験かと。ハイキングコースでもなく、かつ事実上は行き止まりの道ゆえに、ことによると同好の士の可能性もありそうな気配が濃厚かと。なお、この日は「城郭図鑑」管理人さんと同行の訪城でありました。

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日没前の「猪俣城」遠景 画像クリックで拡大

 「円良田城」の登口のひとつである大槻峠への林道より日没直前の光景。 滑川町の二ノ宮山周辺を探訪した後、時間 が半端なこともあり美里町方面の林道等の偵察へ。          ( 2006/12/18 撮影 )

訪城アルバム
「1」から「6」までは2005/04/22撮影分、「7」以降は2006/12/23撮影分
■1■集会所の建物が目印
 円良田城の登口よりも100mぐらい南側の円良田湖よりの道路を西に入ります。
 写真の建物は円良田の「農村センター」という名称の地元の集会所のようなところで、そのすぐ北側の道を円良田湖の方から見て右折します。(南側120m付近には「円良田特産センター」の建物が所在します)
 車はこの集会所の前の自動販売機の置かれた場所に駐車しましたので、もちろん帰りがけに自動販売機で120円のジュースを購入した次第。
■2■分岐その1
 左の写真の先の方にも写っている二叉路で、左の道は「美里ロイヤルクラブ」というゴルフ場へとすすむ道なので、ここから右側のやや緩い坂になっている細い方の道を600mほど東の方向へすすんで行きます。
 写真「3」の手前の空き地に車を止められるような場所がありますが、どう見ても近所の民家の方の駐車場所のようですのでくれぐれもご注意を。
■3■分岐その2
 さて、舗装道路はここまでで、ここから道がまた二つに分かれていますが、右側のいかにも山道らしい道を登っていきます。
 冬場のもっと見通しのよい時期ならば、この道を左に進み砂防ダムのある辺りから尾根に取り付けば二重堀切のある場所に到達するはずですがもちろん途中の尾根筋から踏み跡さえ消滅してます。  猪股城側から下って砂防ダムが確認できる場所まで下りてみましたので多分間違いありません。なお、正面の看板は土石流に注意せよとの旨の標識にて。
■4■登谷山方面
 途中樹木が伐採された尾根筋があり、周辺の景色を確認するためその尾根筋を這い上がると思いのほかの佳景が眼前に展開。 正面の遠くに見える山が多分標高668mの登谷山で、その手前に荒川が右から左方向に流れています。花園城と花園御嶽城は右側の山陰のため直接確認することは叶わず。
 また、北条氏邦の命令により武田、上杉の軍勢が秩父往還や児玉町方面からの進入する際に、早鐘を撞いて危急を知らせる鐘撞衆が置かれたとされる標高330mの鐘撞堂山手前の左側に稜線の一部が見えます。
■5■南側の眺望が開けた峠への道筋
 そのまま猪俣城への踏跡でもないものかと探してみましたが、身動きの取れないぐらいに木々が叢生しているため断念。多少の藪こきをして素直に元の道にもどり、暫く進むと峠のような視界が開けた場所に出ます。
 この先の所から左側の稜線を登れば円良田城の南西側の尾根筋からの入城となりますが、踏み跡も不明瞭であることに加えてヤマツツジの枝を折り山野草を踏み潰して進むようになりそうなの気配のため断念。
■6■鐘撞堂山への分岐
分岐といっても猪俣城への道は何も標識がなく、ご覧の通り踏み跡も些か心許ない状態ですが、道に迷ったとしても北側はすぐゴルフ場ですのでそれほどの心配は要らないと思います。
 しかし、4月中旬でこの状態ですから、間違っても5月から10月の間の訪城は止めておいたほうが良さそうです。
(追記)
 当時、美里町の教育委員会に事前に城跡の状態を確認したところ、「全く未整備である」ことを強調されたことを思い出しました。
■7■谷筋から見上げた本郭付近
 標高220m付近の谷筋の左岸に刻まれた山道から眺めたものですが、樹木の繁り具合の関係で2年前にも全く同じ角度で撮影をしておりました。
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■8■二の郭の小口 画像クリックで拡大
 郭内から見た西側の二の郭の小口部分ですが、恥ずかしながら2年前にはその存在自体にさえも全く気付くことなく行き過ぎておりました。
 今にして思えばこの頃は未だ「堀切」「竪堀」「小口」の区別さえ、皆目判然として居りませぬ状態であったことを懐かしく思う次第。
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■9■二の郭と本郭の間の東側の竪堀
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画像の右側が二の郭部分に相当しますが、狭い稜線と比較してその規模が大きいために広角レンズでも入りきらないのでありました。
             
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■10■二の郭と本郭を繋ぐ土橋
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 幅1m長さ6mほどの土橋状の地形ですが、東西には規模の大きな幅の広い深い竪堀が存在し、事実上斜面側を迂回して移動することは困難で攻め手の行動を大きく制約することが予見できます。
 なお、画像の手前が本郭で向こう側が二の郭側となります。
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■11■本郭北側の「狼煙穴」?画像クリックで拡大
 直径約6メートル深さ約1mほどの楕円形の穴で、狼煙のための施設という見解もある、本郭の約三分の一ほどの面積占める巨大な「遺構」ではあります。
 今回はピンボケはなかったものの立体感がまるで感じられない画像となった次第であります。
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■12■本郭北側の小口部分 画像クリックで拡大
 半円形の小口郭から見上げたもので、北側に進むほど標高が低くなるという自然の尾根筋の標高差を巧みに利用したした縄張りが施されていることを改めて強く印象付けられました。
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■13■画像クリックで拡大
 三の郭の南端から本郭方向を見上げたもので、本郭との比高差は20m近くにおよぶとともに本来は直線的な稜線の道筋を曲線を描くように巧みな改変をしています。この間には小規模な半円形を示す二段の腰郭(小口郭)が所在し本郭の防御を固めています。
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■14■三の郭と西側の腰郭 画像クリックで拡大
 南北方向に細長い三の郭には稜線の東西に小規模な腰郭を配していますが、西側の腰郭はそのまま竪堀へと繋がっているためそれほど明確ではありません。
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■15■北西の二重堀切 画像クリックで拡大
 二重堀切の手前の部分を北側から撮影したもので、画像右側が三の郭方向となります。左側の尾根の先端部分は次第に急斜面を形成し掴まるものが無いと這い上がるのもかなり骨が折れます。
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■16■三の郭北東部の竪堀 画像クリックで拡大
 西側の片側部分のみに所在し三の郭側の深さは5m以上の規模を有し、画像手前の北東部の土塁との比高差も2m以上あります。
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■17■三の郭北東部の遺構 画像クリックで拡大
 北東部の城跡の先端部に位置する細長い郭と三の郭の間には「18」の竪堀が所在し、かつ高さ1mほどの土塁も所在しています。北東側の稜線は急傾斜ではないことを考えると土塁の位置が北東の先端部ではなく、何故三の郭の竪堀側に所在しているのかという疑問が残りました。
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■18■二の郭南西部の堀切 画像クリックで拡大
 画像の右側が二の郭で郭側では深さは5m以上の規模となります。直線的な堀切ではなく弧を描いたような形態を示す大規模なもので、南西側の尾根筋からの重要な防御施設を構成しておりました。
 ただし、山道の整備状態などの事情により南東側の通常のルートで入山すると見落としがちな遺構です。
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■19■二の郭南西の竪堀 画像クリックで拡大
 尾根筋から南東方向に向けて普請されたもので城跡の南西の先端部分に当たります。
峠状の地形まで比較的なだらかな稜線が続いていることから、片側だけの竪堀というのは二の郭直下の大規模な堀切を有するとはいえやや物足りない印象があります(画像「18」参照)
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■20■円良田城側からの猪俣城の夕景
 日没直前の光景ですが、南側。・西側に比べて北側と東側の眺望が著しく開けていることが分かります。上州方面から進入してくる越後上杉氏の軍勢を監視する物見砦としてはまさに格好の立地時要件でありました。
    画像クリックで拡大 (2006/12/18 撮影)
交通案内

・標高310m(比高差約160m)
・円良田湖北側の農村センターの先を東側へ徒歩で40分から50分。
・鐘撞堂山の北で美里ロイヤルゴルフクラブの南側の山ですが、標識などが殆どないので地形図・方位磁石は必要アイテムかと。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 猪俣村の項に「古城蹟 村の坤(南東)の方にあり、小高き山上にて、から堀土居り跡残れり、相伝へて猪俣氏の城蹟と云...」と記されています。
■武蔵志
 猪俣村の記述、猪俣城の記述とも見当たりません。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)・「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など、「美里町史 通史編」(1986/美里町)
「後北条氏領国の地域的展開」(浅倉直美 著/1997/岩田書院)」--戦国期の猪俣氏についての動向詳しい。 

・2005/05/01 HPアップ 
・2007/03/11 画像・説明の追加訂正

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