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アクセスお礼申し上げます。  素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。  お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。  
1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/04/22のブログ 猪俣城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合26
所在地
埼玉県児玉郡美里町猪俣1500付近
歴史、人物、伝承

猪俣氏代々の館址と推定
 「新編武蔵風土記稿」の猪俣村の古城跡(猪俣城)の記述の末尾には「城蹟のほか村の中ほどには、小平六屋敷蹟という処あり、今は陸田となれり」とのみ記されているに過ぎません。
 また「武蔵武士」(1913/渡辺世祐、八代国治共著)の記述によれば、「児玉郡大沢村大字猪俣の南細谷にその館址あり。東西1町28間、南北1町15間、猪俣氏世々之に居る。東北に細流ありて館址をめぐる。その下流は合して見馴川に注ぐ。西南に堀あり東端を倉屋敷と称す。今、ことごとく桑畑となる。」と、より具体的な記述がなされています。なお、昭和初期に刊行された「武蔵国児玉郡誌」では、猪俣氏館に関する内容については、概ね「新編武蔵風土記稿」の記述をそのまま引用しています。
 後に猪俣氏の一族は戦国期には北条氏邦に従い上野へと進出したことなどが史料として残され明らかにされています。その一方において、この居館と背後の猪俣城を拠点として、この地を治めていた可能性は十分に考えられますが、このことに関する具体的な史料は極めて不足している模様です。

確認可能な遺構
堀跡か?、館跡の石碑、五輪塔など
地理的特徴

天然の水堀に囲まれた館跡
 猪俣城の北東側の麓約600mの台地に所在し、猪俣川と正円寺川を天然の水堀とした北側にゆるく傾斜した地帯。館跡と推定される個所には館跡であることを示す石碑と小平六範綱の武勇の象徴である馬方石などが所在していますが、その現状から関連する遺構と推定されるような地形は僅かに南側の溝状の地形付近のみと思われます。
 「美里町史」によれば東西200メートル南北164メートルの長方形を形成し、かつては二重堀の形跡が残されていた旨などが記されています。

文化財指定
なし
訪城年月日
2007年4月22日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/04/22 )
石造物には事欠かず
 始めに猪俣小兵六範綱の霊を弔うと伝わる「猪俣の百八燈」の民俗行事が執り行われるという丘陵へ赴くことに。 高地から猪俣氏館と猪俣城相互の位置関係を確認しようと目論んだものの、この時点では肝心の猪俣城の所在地があやふやという情けなさ。 続いて高台院およびその近くに所在する猪俣氏関係の古い墓所へ。 高台院の丘陵の影に隠れていることもあり即座にはその所在地が分からずあたりをウロウロと。 またことのついでながら、かつてはゴルフ場が建設されるまで高台院の裏手から猪俣城へと登るルートが所在していたことも確認。然しゴルフ場の建設により尾根筋の地形が大きく変貌している模様なので余り当てにはならず。
  次に猪俣氏縁の正円寺と二柱神社へ赴き参拝。 ここでやっと館跡の内堀ともされている「正円寺川」の上流方向に所在する稜線が目当ての「猪俣城」であることを確認。また、猪俣城は甘粕城や場所により木部氏館の近くからさえ望むことができることも判明。 したがって上州への往還を監視する役割を担っていたであろうことも再確認。
  このあと、「愛馬の碑」(戦前の昭和期のもの)、「館跡の碑」(大正期のもの)、「馬方石」(年代不詳の力石)など関連する石造物との出会いだけは事欠かず。また、外堀の役目を果たしたとされる「猪俣川」、正円寺川などの周辺を徒歩にて散策し、あらためて遺構の面影を辿ることの難しさをしみじみと味わうことに。 帰りがけに切通し状地形の近くに「塚」を確認。 またその南側の民家の宅地際に高さ2m前後、長さ30mほどの土塁も確認。 恐らくは近世以降の風除けのためのものかと推察。 しかし、「塚」の所在地点と直線上につながっているようにも思える実に不思議な位置関係なのでありました。

猪俣氏館跡の石碑 画像クリックで拡大します
猪俣氏館跡の石碑と馬方石等
( 2007/04/22 撮影 )
訪城アルバム
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猪俣氏墓所が所在する高台院
凸1 猪俣の百八燈
 ⇒猪俣の百八燈の現地解説板へ
 猪俣小平六範綱とその一族の霊を弔うために17世紀の初頭からつづくと伝わる国指定重要無形文化財の民俗行事が執り行われる個所。
 左手が堂前山、手前がその尾根筋に据えられた108基を数える篝火の泥塚で、中央やや右側が後北条氏時代に物見台が置かれたともされる鐘撞堂山(標高329.9メートル)。なお、猪俣城はさらにその右手方向となりますが画像からははみ出しております。
凸2 猪俣氏墓所が所在する高台院
 猪俣氏の開基とされますが記録が失われているため詳細不明である旨が、「新編武蔵風土記稿」の猪俣村の項に記されています。
 なお、「同稿」によれば「猪俣氏古墳 (高台院)境内にあり、五輪の塔九つならびたてり、何れも剥摧して全体を存せるものなく、しかのみならず、文字磨滅して読むべからざれば法号卒年等、知るべからず」と記されていることから、下記の墓所はあくまでも伝承等によるものと考えるべきかもしれません。

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現地解説板の画像へ
凸3 伝猪俣小平六範綱墓所
 範綱の墓石とされているものは、たぶん左側の大きな五輪塔ではないかと思われます。この画像の五輪塔は左右ともにその風化や加工の程度から判断して空輪・風輪と地輪・水輪部分の年代観が異なるような印象があります。なお両者共に三段目に相当する笠型の火輪部分が亡失しているようです。
 「美里町史」「現地解説板」「武蔵国児玉郡誌」では「猪俣小平六範綱」、「新編武蔵風土記稿」「吾妻鏡」などでは「猪俣平六範(則)綱」、中央の後世に設置された石碑には「猪俣小六範綱」と刻まれ、猪俣氏系図では「小平太範綱」、このほか「平六範綱」「平六範綱」「小六範綱」とも記される場合があるので、ややこしいことこの上ありません。
 
凸4 墓所遠景
 「平家物語」によれば、元暦元年(1184)猪俣小平六範綱らの猪俣党は児玉党、横山党とともに源範頼に従い大手方面から一の谷の平家方を攻撃したとされ、越中前司平盛俊を討ち取ったくだりが克明に描写されていますが、勿論必ずしも史実としての裏付けを伴うものではないようです。
 「吾妻鏡」によれば、建久元年(1190)7月の源頼朝入洛に際して同族の岡部氏などとともに畠山重忠の先陣に加わり、また同月の石清水八幡宮参詣にも葛西清重、金子家忠、河匂政頼らとともに供奉していることなどが記されています。
 高台院が所在する台地南東の麓に位置するため、些か分かりにくいかもしれません。
いつもガイドの案内図

鰐口の解説板へ
二柱神社
凸5 真言宗猪俣山正円寺
 正円寺川の左岸に所在する新義真言宗寺院で、隣に所在する二柱神社の社務を兼帯しているとのことです。
 二柱神社に伝わる鰐口は「正円寺の鰐口」とも呼ばれる美里町の指定文化財で、、猪俣邦憲が信濃佐久郡の野沢郷から天正10年(1582)に持ち去った永禄期のものと、大旦那能登守(猪俣邦憲か)が天正16年(1588)に戦勝祈願のため奉納したものが所在しているとのことです。
凸6 二柱神社
 イザナギノ命・イザナミノミコトを主祭神とする正円寺西側の山腹寄りに所在する神社で、猪俣氏代々が尊崇したと伝わっています。
 神社自体の建築様式は日光東照宮に代表される権現造りに近い形態で、身近なところでは秩父神社社殿を一回り小さくしたような印象でした。

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凸7 猪俣城遠景
 正円寺川上流のちょうど正面に所在する恰好となっている猪俣城。砂防ダムやゴルフ場の建設によりこの現状から当時の景観を思い浮かべることは困難ですが、猪俣氏館跡とお互いが見通すことのできる絶妙な位置関係あることを感じとることができます。
 なお、偶然撮影された画像左上の怪しげなる飛行物体は大型の鳥であると推定されます。

凸8 猪俣川
 「美里町史」では、「館の北側には、猪俣川が南から北へ蛇行しながら東へ向かって流れており、この川を利用して外堀としていたと考えられる」と記されています。
 この画像の先で合流する正円寺川に比べると遥かにその川幅や深さ自体も大きく、平地とはいえある程度の要害性を有する地形を形成していたことが窺えます。
 

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凸9 正円寺川
 「美里町史」の記述によれば、「東側の外堀は猪俣川に落ち込む小川で、深さは3m弱で幅は3m長さは47m程であり、一部に堀跡と思われる所がある」と記されています。
 館跡の東側を南北方向に縦断し外堀の役割を果たしていた模様ですが、現在の地形は築堤工事を含む大幅な河川改修工事が実施されているため当時の状況を把握することは難しそうです。
凸10 南側の溝状地形
 館跡の推定値とされる南辺に所在し60mほどの長さを有しておりました。宅地と農地の境界に所在していることから後世の排水路、畑の根切り溝とも考えられます。
 ⇒堀跡らしき地形 20年以上前に刊行された「美里町史」によれば、「南側の外堀は、館跡の中央を南北に通る道路の東側に僅かに残り、幅は1.2mである」と記されています。上記の画像の手前部分に所在していますが、そう言われればそのようにも見えなくもない判断の難しい地形でありました。

画像クリックで拡大します
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凸11 古墳あるいは塚
 この古墳あるいは塚状の地形(⇒恐らくは「猪俣南古墳群」のひとつかと思われます)を含む細長い台地が右側の「12」の画像の部分へと続いているのでありますが、基本的には南側の猪俣城付近から派生している自然地形としての細長い微高地を形成しています。
 ⇒猪俣橋 上記の地点から西側100mほどの地点の正円寺川に架っている小さな橋です。むろん特に深い意味はなく、地名を記した適当なものが見当たらずに撮影してみたまでのことにございます。
凸12 東方の土塁状地形
 館跡推定地の南東約100mほどの地点に所在する土塁状地形。自然地形にしてはやや唐突な印象がありますが、民家の北側に位置することから冬季の風除けの屋敷林に関係した地形ではないかと思われます。長さにして約30m、高さ約1.5mから2mの規模を有しておりました。

交通案内

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 「新編武蔵風土記稿」の猪俣村の古城跡(猪俣城)の記述の末尾に「城蹟(猪俣城)のほか村の中ほどには、小平六屋敷蹟という処あり、今は陸田(畑)となれり」とのみ記されていますが、猪俣氏館跡に関するそれ以上の記述はありません。
■武蔵志
 猪俣村等に関する記述が全く欠落しています。
(=一部の表現を現代文風に変更=)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「美里町史 通史編」(1986/美里町)
「後北条氏領国の地域的展開」(浅倉直美 著/1997/岩田書院)」--戦国期の猪俣氏の動向について詳述。
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)
「歴史ロマン 埼玉の城址30選」(2006/西野博道編著/埼玉新聞社)
「武蔵武士」(1971/有峰新社−1913/渡辺世祐、八代国治共著/博文館刊の復刻本)

・2007/10/02 HPアップ
・2007/10/03 記述一部追加訂正

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