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1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/05/14のブログ 猪俣城 円良田城 猪俣氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合22
所在地
凸埼玉県児玉郡美里町広木(あくまでも推定地)
歴史、人物、伝承

南北朝期の広木吉原城
 「新編武蔵風土記稿」の広木村の項には、一色大興寺入道源範行という人物が南北朝初期に広木吉原城主であった旨の記述がみられますが、「同稿」の足立郡岸村の項においてもこの人物の実在に疑問を呈しているとおり、史実としての裏付けが乏しいものと考えられます。なお「幸手一色氏−系図から伝承まで」によると、関東一色氏は足利氏の庶流であり幸手の地を本拠地とし戦国時代には古河公方の家臣として活躍したとされています。
 そうしたなか「美里町史通史編」では、「一色大興寺入道源範行 大字広木大興寺の西、吉原に今でも処々に堀や土塁の跡が残っている。これは南北朝時代の武将一色大興寺入道源範行の居城跡である。今地元には古文書、口碑等一切伝わっていないので、右城主の事跡を明らかにすることはできないが」と記した上で、「調宮縁起」の記述を引用し「足利方でもかなり有力な武将として、北朝のために活躍したものと考えられる」としています。(285頁から286頁)
 またさらに、「埼玉県指定旧跡実態報告書」に基づき「大興寺の名称は城主大興寺入道草創の地であることからその法号を寺号としたものと思われる」との記述を引用していますが、これは「新編武蔵風土記稿」の大興寺の縁起に記されている内容と概ね同一のものと考えられます。
 しかしこの一色大興寺入道源範行という人物については関東一色氏の系図等にもその存在が確認できないとともに、一色氏一族の本拠地とは地理的にあまりに隔絶されていることからも部分的な誤伝を含む可能性も否定できないのではないかと考えられます。なお「美里町史通史編」では「新編武蔵風土記稿」に記された大興寺の縁起を引用し、貞和年間(1345-1350)広木吉原の門前に隠棲していた小倉左中将元英朝臣が中興開基となり戦乱で荒廃した寺を再興したと記しています。無論あくまでも推測の域を出ない憶測ですが、この2人の人物はその年代も近いために異によると人物・事跡の混同が発生したものと考えられる余地があるのかも知れません。

戦国期の広木大仏城
 天正8年1月8日付の武田家の制札(禁制)および天正9年3月11日の所領安堵状が大興寺に対して発給されていることから、その当時において武田勝頼と後北条氏との軍事的な緊張関係が存在していたことを傍証していることは間違いないものと考えられます。
 ただしそのことが直ちに「甲陽軍鑑」「武田三代記」(江戸中期の享保5年に片島深淵によって記された軍記物で、その性格から史実を脚色した傾向が散見されるといわれている)「関東古戦録」「諸国廃城考」等の軍記物などに記されている天正7年(1579)とされる「広木大仏の合戦」及びその舞台となった「広木大仏城」の所在を具体的に確定する性格のものではないとも考えられ、当該比定地の具体的所在を含めてその実態はほとんど謎に包まれた状態といえるようです。この点について「美里町史通史編」(378頁)は広木大仏城の実在を含めて疑問を提示しているようにも思われます。
 なお「新編武蔵風土記稿」によれば、大仏村は戦国時代末期には猪俣能登守の所領とされるとともに、後北条氏滅亡後に広木村に土着したとされる北条氏邦家臣である金井源衛門は天正8年(1580)3月6日に那賀郡広木御領分として4貫文の知行が宛がわれています。

確認可能な遺構
なし(丘陵上に溝状地形、丘陵麓に用水路は所在)
地理的特徴

遺構は有るのか無いのか
 「美里町史通史編」によれば「新編武蔵風土記稿」の記述を引用し、臨済宗大興寺の北側に吉原(川沿いの土地なので「葦原」を意味するものとも考えられます)という地名が残され、この付近に一色氏の住居(広木吉原城)が所在したものと推定していますがその真相は傍証する史料の存在を含めて余り定かであるとはいえない模様です。またその現状から堀や土塁の存在については殆んど確認することが困難な状況となっています。
 一方、戦国期の広木大仏城についても史実としての検証を含めて、その明確な所在地を特定するには信頼に足るべき史料の不足が否めないものと考えられています。

文化財指定
なし
訪城年月日
2007/05/14
訪城の記録 記念撮影

( 2007/05/14 )
 それらしい丘陵はあるものの
 南北朝期の一色氏の時代のものと戦国時代末期のものとがあるとの情報で、一色氏の居館は大興寺の北側付近の台地を含む一帯が城館跡と比定されている由。 このため南側の円良田湖方面(猪俣城方面)より北上して、大仏地区側から周辺の地形を確認を行いながら接近することに。
 当地は円良田城、猪股城の山城を南に配し、殆んど消滅した印象のかつての白石城も指呼の間に所在し、 南北に伸びる細長い台地の先端部分は現在でも比高差20mを有する要害を形成。しかし、その西側は畑や用水路などが複雑に入り組んでいるため当時の地形を確かめることは難しい状況。 それでも、一目見て地形的に特徴のある台地と用水路に当時の面影が伝わってくるのは気のせいなのでありましょうか。
  なお、台地上の民家脇に総延長で40mほどの鍵の手状の溝が所在しているものの、 無論遺構というよりもかつての排水路、畦堀のようなものである可能性も濃厚。 ただ排水のための溝にしては民家の宅地よりも高い位置に所在すること。 鍵の手状であることなどに些かの違和感が。 また同様に台地上の人工的削平を思わせる平坦地に加えて、切岸状の斜面も所在するなど興味深い城館跡風の地形であります。 然し何分元々篠竹の藪が密生している個所が多いことと合わせて、この季節では如何ともしがたいのでありました。
 全体としての印象は、あくまでも推定地とはいえ武田・北条の両軍合わせて少なくとも2千人からの兵力による攻防戦が繰り広げられたとは俄かに信じがたい実にのどかな県北の丘陵と田園風景が広がっているのでありました。

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広木大仏城(広木吉原城)周辺の特徴のある丘陵地帯
( 2007/05/14 撮影 )
訪城アルバム
広木大仏城方面へと続く丘陵地帯
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凸1 広木大仏城方面へと続く丘陵地帯
 この辺りが旧大仏村の北部であると思われます。しかし付近には殆んど人家などがなく、僅かに右手の南北に細長い丘陵地帯が気になる地形というだけの理由で撮影。
 然るに遥か後世の軍記である「武田三代記」によれば、武田方は谷沿いから右手に後北条方を見てその先の郷邑に放火したしたと記されているように読みとることができます。もし仮にその記述をそのまま信じるとすれば、陣見山に近い丘陵地帯に広木大仏城が所在していたとも推測することは可能かもしれません。
 しかし史料としての信頼性もさることながら、何れにせよその正確な所在地を判断することは困難であるようです。

猪俣城方面
陣見山方面
凸2 城跡に近い大興寺
 「新編武蔵風土記稿」の広木村、大仏村の項によれば、南北朝期の広木吉原城(一色氏り居館)はこの寺の北西側(写真の手前)付近に所在していたとされ、「美里町史通史編」285頁には、在郷武士の一色大興寺入道範行の居城跡であるとして「大字広木大興寺の西、吉原に今でも処々に堀や土塁の跡が残っている..」と記述されています。
 しかし一方では、同じ「美里町史通史編」の377頁の中世城館跡の解説では、執筆者が異なるという事情によるものかと思われますが、「たぶんこの付近に一色氏の住居があったものだろう」と些かニュアンスの食い違いを見せています。

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凸3 溝状の地形など
 中腹に大興寺が所在する丘陵の北約200mほどの地点に所在する堀跡のようにも見えてしまうL字型の溝状地形。総延長約40m、深さ約1m、幅約1間ほどの規模ですが、かつての農耕などによる地形変更のようにも思えます。
凸4 丘陵の辺縁部
 丘陵の北西部は最大比高差約20mほどの急斜面を形成しているような個所も所在していますが、歴史的な人工地形か以前からの自然地形かの区別が付きにくいのであります。

画像クリックで拡大します
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凸5 大興寺東側の丘陵上部
 幾分人工的な印象のある平坦な地形は、かつてこの地において養蚕が盛んなころの桑畑などの耕作によるものかも知れません。なお、上記「記念撮影」画像の丘陵右側の樹木の無い特徴的な平坦部分がこの場所に相当するものと思われ。
凸6 丘陵麓の用水路
 丘陵の斜面を勢いをつけて下ったりすると生命に別条はないものの確実にこの用水路のなかに嵌りこみます。少しばかり上流に近世以降に築造されたと思われる用水池が所在し、主要な水源はそこから流入してくるものと思われます。従って誠に残念ではありますが、どうやら戦国期から存在していた用水路(堀跡)であるという可能性は少ないように思われます。

画像クリックで常福寺
中世後期のようにも思われる五輪塔
凸7 真言宗常福寺
 真言宗智山派広木山龍華院池ノ坊常福寺は、奈良時代の天平年間に「御所内館」の主とされる檜前舎人石前が建立したと伝わり、天正7年の広木大仏の合戦の際に武田方の兵火により焼失し、その後北条氏邦により再建されたとされています。
凸8 常福寺墓地
 常福寺境内の歴代住職墓所と思われる辺りには中世後期に遡ると思われるような五輪塔が所在しておりましたが、幸か不幸か何分にも判読できかねる磨滅した状態にこざいました。
交通案内

・広木吉原城の所在地については「美里町史通史編」の記述をもとに臨済宗妙心寺派大興寺付近を想定。
・広木大仏城について具体的な所在地は不明。
いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図
凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
□那賀郡広木村
 「足立郡岸村(さいたま市岸町:埼玉県庁の南東)調神社(つきのみやじんじゃ:現在は公園部分を含めると2haを超える広大な境内を有している)の社伝に延元2年(1337)2月5日広木吉原城主一色大興寺入道源範行が若干の神田を寄付したことが見られる。現在村内小字名に吉原という所がある。これらによれば当時一色氏居城の地ということになるが、現在その城跡さえ定かではないので、その他のことは不詳である」との旨が記されています。また、同村内の小名として「屋敷 大興寺門前の畑地をいう。字吉原と号す、大興寺の開基、小倉左中将元英の居跡なりという」との記述も見ることができます。
 なお、足立郡岸村の項には調神社の縁起に地元の伝承として「..延元2年2月5日、那賀郡広木村吉原の城主、一色大興寺入道範行という人物が再興して神田として5ヶ村を寄付したと記されているが、この一色範行という人物はほかに史料がなく不確かである」とも述べられています。
 さらに広木村の項ではさらに続けて、「甲陽軍鑑」「廃城考」等を引用し「天正7年(1579)武田勝頼と北条氏正が争い北条方が講和を破棄したという意を込めて北武蔵と西上野の境である広木大仏の地に砦を築き城兵を配置した」ことを記していますが、「現在の神川・上里などの児玉郡の地が介在することから国境とは言い難いが、恐らく地理的にはおおまかなことを記したのであろう」と解釈するとともに、「現在この砦の跡(広木大仏城)の所在地は不明である」と記しています。

□那賀郡大仏村
 「昔はおさらぎと読まれ鎌倉北条氏の一族である大仏陸奥守(大仏氏は鎌倉北条氏の一族で大仏陸奥守宗宣は14世紀初頭の第11代執権)がこの地に居住して地名を姓としたと伝わる。しかし、これはあやふやな説である(中略)甲陽軍鑑等によれば、天正7年後北条氏が広木大仏に城を築き兵を置いて守らせ、鉢形秩父の衆(北条氏邦の支配下)を配置したとされている。その城跡は明確ではないが村内に小高い塚のようなものが所在しているのでその跡かもしれない(後略)」と記され、広木村の項に記された内容とは明らかな相違が確認されます。
 なお、旧大仏村には大仏古墳群が所在していることから当該塚状の地形が直接城跡に関連するものであるかどうかについては今のところ不明です。

■武蔵志
 広木村については城館に関係する記述はありませんが、大仏村の項には「古館あり 大仏陸奥守が居住したと伝わる」との口碑が略述されています。この部分については「新編武蔵風土記稿」大仏村の記述に相応の影響を与えているものと考えられます。

■北武蔵名跡志
 「北条五代記」「甲陽軍鑑」「武田三代記」等を抜粋引用して、広木大仏の合戦の概要を要領よくまとめています。その内容は概ね次のとおりです。

「北条五代記」(後北条氏の旧臣三浦五郎左衛門茂正(浄心)が江戸初期に原著である「慶長見聞集」を著す。後北条氏各代の人物・治世の挿話をまとめた軍記物で、編年体の形式を採ってはいないため些か読みにくい。その後抄出・加筆されて寛永18年(1641)に刊本となった。「絵本北条五代記」とも)
 天正7年(1579)の早春に北条氏政が武蔵と上野の境にあたる広木という所に城を築いたが、武田方の城攻めに際して未だに築城の最中なので秩父衆奉行頭人雑兵合わせて7百人で防いだ。
(注)通説によると前年の謙信死去に伴う越後での御館の乱に関連して、武田勝頼が事実上は上杉景勝側に立ったために上杉景虎を支援する後北条氏との関係が悪化したとされてる。

「甲陽軍鑑」(高坂弾正・小幡景憲・春日惣次郎らにより編纂されたと考えられる軍学書で、一般に歴史的な史料としての評価は高くはない)
 北条家が広木大仏に城を取り立て、鉢形秩父新太郎殿(鉢形城主北条氏邦)が城兵を配置した。この時武田勝頼は上野の厩橋城に在城し、広木大仏方面には典厩(「関東古戦録」によれば武田左臣介勝豊)を大将分として、後閑、長根(「関東古戦録」では「長柄」と記されている)、白倉、小幡などの軍勢を差し向け、北条方である広木の宿より3町ほど手前に布陣した。

「武田三代記」(江戸中期の享保5年に片島深淵によって記された軍記物で、その性格から史実を脚色した傾向が散見されるといわれている)
 北条家の老臣松田尾張守が広木大仏方面の領地境を巡回するため雑兵1千余りとともに在城しており、この武田方の城攻めに対して足軽に鉄砲を撃たせて反撃した。武田方の五甘(「後閑」か)長根の両将はこの様子を見て同じように鉄砲で反撃した。この二人の軍勢はそのまま北条方に向かうかと思われたが、そうではなく右手の山麓に押し寄せて集落に放火し、北条方を右側に見ながらなお敵地の奥へと侵攻した。これに小幡豊後守、同上野介、同左衛門、初鹿野伝右衛門、小山田八左衛門などが続いて村落の略奪を行い手柄を立て、その中でも小幡豊後は一番の手柄であった。

(=一部の表現を現代文風に変更=)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「美里町史 通史編」(1986/美里町)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)
「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社)・「日本史広辞典」(1997/山川出版社)
「戦国軍記事典」(1997/古典遺産の会/和泉書院)・「国史大辞典」(1986/吉川弘文館)
「幸手一色氏−系図から伝承まで」(2000/幸手市教育委員会)・「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「関東古戦録 下」(填島昭武原著・久保田純一現代語訳/2002/あかぎ出版) −武田勝頼関東に現る− の項に史実としての検証は別として、広木大仏の合戦とその背景が詳述されています。
「北武蔵名跡志(埼玉叢書第一巻)」(富田永世原著)
「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)・「北条五代記」(矢代和夫ほか/1999/勉誠出版)

・2007/11/12 HPアップ
・2007/11/29 画像・説明の追加

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