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2007/05/14のブログ 猪俣城 円良田城 猪俣氏館 | ||
おすすめ評価 |
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凸埼玉県児玉郡美里町広木(あくまでも推定地) | |
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なし(丘陵上に溝状地形、丘陵麓に用水路は所在) | |
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なし | |
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2007/05/14 |
( 2007/05/14 撮影 ) |
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・広木吉原城の所在地については「美里町史通史編」の記述をもとに臨済宗妙心寺派大興寺付近を想定。 ・広木大仏城について具体的な所在地は不明。 ・いつもガイド の案内図です |
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凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿 □那賀郡広木村 「足立郡岸村(さいたま市岸町:埼玉県庁の南東)調神社(つきのみやじんじゃ:現在は公園部分を含めると2haを超える広大な境内を有している)の社伝に延元2年(1337)2月5日広木吉原城主一色大興寺入道源範行が若干の神田を寄付したことが見られる。現在村内小字名に吉原という所がある。これらによれば当時一色氏居城の地ということになるが、現在その城跡さえ定かではないので、その他のことは不詳である」との旨が記されています。また、同村内の小名として「屋敷 大興寺門前の畑地をいう。字吉原と号す、大興寺の開基、小倉左中将元英の居跡なりという」との記述も見ることができます。 なお、足立郡岸村の項には調神社の縁起に地元の伝承として「..延元2年2月5日、那賀郡広木村吉原の城主、一色大興寺入道範行という人物が再興して神田として5ヶ村を寄付したと記されているが、この一色範行という人物はほかに史料がなく不確かである」とも述べられています。 さらに広木村の項ではさらに続けて、「甲陽軍鑑」「廃城考」等を引用し「天正7年(1579)武田勝頼と北条氏正が争い北条方が講和を破棄したという意を込めて北武蔵と西上野の境である広木大仏の地に砦を築き城兵を配置した」ことを記していますが、「現在の神川・上里などの児玉郡の地が介在することから国境とは言い難いが、恐らく地理的にはおおまかなことを記したのであろう」と解釈するとともに、「現在この砦の跡(広木大仏城)の所在地は不明である」と記しています。 □那賀郡大仏村 「昔はおさらぎと読まれ鎌倉北条氏の一族である大仏陸奥守(大仏氏は鎌倉北条氏の一族で大仏陸奥守宗宣は14世紀初頭の第11代執権)がこの地に居住して地名を姓としたと伝わる。しかし、これはあやふやな説である(中略)甲陽軍鑑等によれば、天正7年後北条氏が広木大仏に城を築き兵を置いて守らせ、鉢形秩父の衆(北条氏邦の支配下)を配置したとされている。その城跡は明確ではないが村内に小高い塚のようなものが所在しているのでその跡かもしれない(後略)」と記され、広木村の項に記された内容とは明らかな相違が確認されます。 なお、旧大仏村には大仏古墳群が所在していることから当該塚状の地形が直接城跡に関連するものであるかどうかについては今のところ不明です。 ■武蔵志 広木村については城館に関係する記述はありませんが、大仏村の項には「古館あり 大仏陸奥守が居住したと伝わる」との口碑が略述されています。この部分については「新編武蔵風土記稿」大仏村の記述に相応の影響を与えているものと考えられます。 ■北武蔵名跡志 「北条五代記」「甲陽軍鑑」「武田三代記」等を抜粋引用して、広木大仏の合戦の概要を要領よくまとめています。その内容は概ね次のとおりです。 「北条五代記」(後北条氏の旧臣三浦五郎左衛門茂正(浄心)が江戸初期に原著である「慶長見聞集」を著す。後北条氏各代の人物・治世の挿話をまとめた軍記物で、編年体の形式を採ってはいないため些か読みにくい。その後抄出・加筆されて寛永18年(1641)に刊本となった。「絵本北条五代記」とも) 天正7年(1579)の早春に北条氏政が武蔵と上野の境にあたる広木という所に城を築いたが、武田方の城攻めに際して未だに築城の最中なので秩父衆奉行頭人雑兵合わせて7百人で防いだ。 (注)通説によると前年の謙信死去に伴う越後での御館の乱に関連して、武田勝頼が事実上は上杉景勝側に立ったために上杉景虎を支援する後北条氏との関係が悪化したとされてる。 「甲陽軍鑑」(高坂弾正・小幡景憲・春日惣次郎らにより編纂されたと考えられる軍学書で、一般に歴史的な史料としての評価は高くはない) 北条家が広木大仏に城を取り立て、鉢形秩父新太郎殿(鉢形城主北条氏邦)が城兵を配置した。この時武田勝頼は上野の厩橋城に在城し、広木大仏方面には典厩(「関東古戦録」によれば武田左臣介勝豊)を大将分として、後閑、長根(「関東古戦録」では「長柄」と記されている)、白倉、小幡などの軍勢を差し向け、北条方である広木の宿より3町ほど手前に布陣した。 「武田三代記」(江戸中期の享保5年に片島深淵によって記された軍記物で、その性格から史実を脚色した傾向が散見されるといわれている) 北条家の老臣松田尾張守が広木大仏方面の領地境を巡回するため雑兵1千余りとともに在城しており、この武田方の城攻めに対して足軽に鉄砲を撃たせて反撃した。武田方の五甘(「後閑」か)長根の両将はこの様子を見て同じように鉄砲で反撃した。この二人の軍勢はそのまま北条方に向かうかと思われたが、そうではなく右手の山麓に押し寄せて集落に放火し、北条方を右側に見ながらなお敵地の奥へと侵攻した。これに小幡豊後守、同上野介、同左衛門、初鹿野伝右衛門、小山田八左衛門などが続いて村落の略奪を行い手柄を立て、その中でも小幡豊後は一番の手柄であった。 |
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林) 「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣) 「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 「美里町史 通史編」(1986/美里町)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本) 「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社)・「日本史広辞典」(1997/山川出版社) 「戦国軍記事典」(1997/古典遺産の会/和泉書院)・「国史大辞典」(1986/吉川弘文館) 「幸手一色氏−系図から伝承まで」(2000/幸手市教育委員会)・「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県) 「関東古戦録 下」(填島昭武原著・久保田純一現代語訳/2002/あかぎ出版) −武田勝頼関東に現る− の項に史実としての検証は別として、広木大仏の合戦とその背景が詳述されています。 「北武蔵名跡志(埼玉叢書第一巻)」(富田永世原著) 「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)・「北条五代記」(矢代和夫ほか/1999/勉誠出版) ・2007/11/12 HPアップ |
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