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1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/05/14のブログ 広木大仏城 猪俣城 猪俣氏館
おすすめ評価
訪城季節 遺構状態 探し易さ 交通利便 体力消耗 歴史経緯 印象 総合
所在地
埼玉県児玉郡美里町大字広木字御所内1301
歴史、人物、伝承

舎人・防人を務めた古代豪族の館跡との伝承
 弘紀郷の豪族である「防人檜前舎人石前之館跡」(さきもりひのくまのとねりいわさき)の居館と伝わり、現在この御所の内と呼ばれる居館跡に居住したものであろうとされています。石前は賀美郡桧前舎人真由加麻呂と同族とされ、武蔵国造の庶流伴造家の一族であるといわれているようです。伝館跡には万葉集にも収録されている防人として出征する石前の身を案ずる妻真足女(またりめ)の歌碑などが所在しています。(「美里町史」より)
 しかし、こうした経緯は具体的な文献史料に基づくものではないことから、今のところそうした伝承の真偽を確かめる手だては見当たらない模様です。地方豪族出身の舎人であった石前が防人として九州方面へと赴くような事例は特に珍しいものではなく、東国からは多くの人々が防人として出征したことが一般的に通説となっています。
 また律令制における諸国の軍団体制は、その過重な軍役負担により著しい村落の疲弊をもたらしたことから、余り長続きせずに739年(天平11年)には陸奥、出羽、越後、長門、九州諸国などを除いて廃止されたとされ、その後新羅との緊張関係などで一時的に復活した時期があったものの9世紀の前半には軍事的緊張状態が続く奥羽方面を除いて次第に消滅していったものと考えられています(「日本軍事史」より)

確認可能な遺構
溝状の堀跡および微高地を形成する内郭
地理的特徴

およそ一町四方の方形館
 通称「トネ山」と呼ばれる丘陵の南麓、枌木川の北岸に所在し約50間(約90m)四方のの堀状の溝に囲まれた微高地で、水利の掌握と周辺の水田を支配するには妥当な立地条件を有しています。しかしこの遺構の経緯については伝承等に頼る以外にはなさそうです。

文化財指定
「万葉遺跡伝大伴部真足女(おおとものべのまたりめ)」として埼玉県旧跡に指定
訪城年月日
2007年5月14日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/05/14 )
 古代豪族居館と伝わるがその経緯は不明
 中世の城館跡というよりは防人を務めたとされる支配階層の古代住居跡と伝わっているようです。遺構とされる区域は幅1間、深さ数十センチに満たない堀跡に囲まれた微高地を形成し、下記の史跡に関する石碑が設置された奥の方の部分がその遺構であるとされています。
 なお当然のことながら、時代はずっと下って鎌倉期には武蔵武士の館、さらに戦国期には地侍などの在地領主階層の居館となっていたというような可能性も考えられます。また古代豪族居館遺構が、そのままの形態で存続しているような状況は些か想定しにくいものがあり、ことによると近世初期をも視野に入れた後世の居館・屋敷跡であるようにさえも思えます。何れにしましてもその経緯について明確な史料を欠いていることから憶測の域を出るものではありません。なお、 周囲の草叢の中には小さな水路も所在するので、夏草の時期には誤って落ちないように足元の注意が必要です。(⇒けっして、落ちたという訳ではありませぬが)

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御所の内(防人檜前舎人石前之館跡)
( 2007/05/14 撮影 )
訪城アルバム
 館跡全景 画像クリックで拡大します
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凸1 館跡の全景
 館跡は背丈を超える雑草が一面に生茂り、少なくとも東側とこちらの南側については、浅い用水路状の堀で囲まれ独立した区画を形成していることが窺えます。 しかし初夏の季節ということもあり、内郭部分の地面の状況を確認することは叶いませんでした。
 また、館跡の後方に見える小高い丘陵が通称「トネ山」と呼ばれる辺りかと思われます。

現地の史跡説明板(⇒館跡と万葉遺跡の解説)
「枕太刀腰に取り佩きまがなしき背ろがまき来む月のしらなく」(那珂郡桧前舎人石前妻大伴部真足女「万葉集巻20」より)
凸2 通称「篝山」(かがりやま)
 改めてこうして眺めますと、あくまでも現状の地形から要害に相応しい地形を探した場合に限定すれば、この通称「篝山」(⇒古代律令制当時の軍団が所在したことによるとの説もあるようです)の付近が地名と合わせてどうしても広木大仏城の比定地のひとつとして有力であるように思えててならないのでありました。
 御所の内館の北側に所在する通称「トネ山」(「舎人山」が転訛したとの説)と呼ばれる丘陵の中腹から撮影したもので、この間には那珂川(中川とも)および枌木川沿いに万場(馬場の転訛とも)地区の集落が所在しています。

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万葉遺跡「曝井」 画像クリックで現地解説板へ
凸3 猪俣城方面
 通称「トネ山」の山頂付近からは、このように「猪俣城」「猪俣氏館」方面をよく見通すことができます。こうした地理的条件からから、戦国時代の後北条氏支配期においてはこの「トネ山」付近の丘陵地帯、広木大仏城、猪俣城、白石城等の城郭は一定の関係を有していたという可能性があるようにも思われてなりません。
 しかし残念ながらこのことを裏付ける史料は見当たらないようで、あくまでも憶測の域を出るものではありません。
凸4 万葉遺跡の「曝井」
 こちらも埼玉県の旧跡に指定されている井戸で、万葉集第9巻に「三栗の那賀にむかえる曝井の絶えず通はむそこに妻もが」とうたわれた織布を洗いさらす作業場であったとのこと。
 今でいえばさながら恰好の「井戸端会議場」ということになるのでしょうが、この言葉も次第に死語になりつつあるのかも知れません。

交通案内

・真言宗常福寺の南西約120メートルの丘陵麓

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 広木村の項に小名として「篝」「番場」の地名が記されている以外には、直接この館跡に関する記述はありません。
■武蔵志
 この館跡に関する記述は一切確認できません。
(=一部の表現を現代文風に変更=)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「美里町史 通史編」(1986/美里町)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)
「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社)・「美里町役場公式HP」より・「日本軍事史」(2006/吉川弘文館)

・2007/12/08 HPアップ

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