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おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯3 印象3 総合27
所在地
埼玉県比企郡滑川町福田 成安寺境内一帯
歴史と沿革

旗本酒井氏の陣屋跡
 比企郡福田村の地が酒井重勝に知行されたのは徳川家康の関東入府後の、文禄元年(1593)と伝わっています。(「埼玉県史 通史編3近世」では天正20年(1992)と記されていますがその出典は不明)
 「埼玉県史 通史編3近世」「滑川村史 通史編」などによれば、少なくとも江戸の旗本屋敷が整備される寛永期頃までは重勝一族の本願地として何らかの形で存続していたものと推定されています。

酒井重勝(1549-1613)について
 徳川家旗本。通称は与九郎または作右衛門尉とされ、永禄6年(1653)三河一向一揆では徳川氏に敵対した。元亀3年(1572)三方原の合戦時には家康の浜松城への退却に活躍。天正12年(1584)長久手の合戦では鎗奉行として活躍。翌年の真田氏の上田城攻めにも功績あり。その後長柄奉行を務め、家康の関東入府に伴い武蔵比企郡福田、岡部、上総山部郡土気合わせて2千石を知行される。なお、上総山部郡土気(とけ)には千葉氏の一族原氏家臣である同姓の上総酒井氏の居城が所在していたことは興味深い符合である。
 慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際には三河寺部城を預かり5千石の知行を得たともいわれる。その後伏見城の御天守番を務め慶長18年5月伏見にて死去。享年65歳。法名は成真。「鎗」の長短の優劣を巡る有名な逸話もある。(「寛政重修諸家譜」「戦国人名辞典」などより) 

確認できる遺構
土塁?堀?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

三方が丘陵に囲まれた地形
 東松山と熊谷を結ぶ現在の県道385号線の西側に所在。 北側に突き出た形の丘陵部分の東側の麓に位置し、南側には寺沼を配し東側には用水路を兼ねた堀跡が存在していたものと推定しました。また東側の一部も細長い丘陵が南側から伸びているため北側を除く三方が丘陵地帯と沼池に囲まれた地形を構成していたものと考えました。
※この自説はあくまでも現存する周辺部の地形から想定したものであり、当地北方の水田地帯の一角を陣屋跡とする有力な説があります。

文化財指定
訪城年月日
2006/12/11
訪城の記録 記念撮影

( 2006/12/11 )
旗本酒井氏の戦国時代末期から近世初期にかけての陣屋跡
 「新編埼玉県史」「滑川町史」などによれば、この辺りの地域が近世初頭まで旗本酒井氏の陣屋跡と推定されています。 酒井氏の知行地で陣屋跡と推定される曹洞宗成安寺は酒井重勝が開基とされています。酒井氏歴代の墓所も裏山の墓地の北端の一角に所在し、この境内の裏山は北側に張り出した細長い尾根筋を形成し物見にも相応しい地形となっています。
 然し、遺構そのものはあるような無いような状況で、墓地・駐車場・ゲートボール場などの造成などによりかなり地形が改変されている様子が窺がえます。それでも丘陵を背後にした境内、段差のある観音堂の地形、堀跡の名残とも思われる水路など全体としての佇まいは歴史的雰囲気が濃厚に漂っているのでありました。また、この日訪れた場所の中では唯一歴史的経緯が明確な存在なのでありました。

 境内の周辺は墓地、駐車場とそれぞれ高低差が目立ちかつての陣屋跡としての地形的な特徴を伝えているようにも思えます。 然し何分にも地形の改変が相当に進行しているようで、当時の絵図でも残されていればもう少し詳細な事情が判明するかとは思うのですが..いずれにしましても確証はありませんのであくまでも推定です。

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単なる寺院の構えではないものを感じさせる
曹洞宗成安寺に所在する酒井氏陣屋跡(推定)
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( 2006/12/11 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで向拝の格天井の彩色画へ
■1■馬頭観音堂 
     画像クリックで向拝の彩色画へ
 路傍の馬頭観音の石碑は珍しくはありませんが、馬頭観音そのものを祀った大規模な堂宇はそれほど多くは無いように思います。
 近世中期以降の作品と思われる20枚の様々な馬の姿絵が向拝の格天井部分に描かれています。 ただし残念ながら長年の風雨に晒されて剥離変色が激しいようで、一目で馬であること分かるものは半分もありませんでした。
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■2■観音堂の裏手に所在する板碑
    画像クリックで現地解説板へ
 建長3年(1251)紀年銘が刻まれた阿弥陀三尊の板碑で滑川町指定有形文化財となっているそうです。 堀込みの薬研彫の溝ががかなり深くなっているためにその古さにも拘らず現在の所は一応良好な状態です。 然し、常に風雨に晒されていますので、もうひとつの大型の板碑と合わせて上屋などの設備が欲しい所であります。
■3■成安寺境内の裏手
 境内の裏側にあたる西側にはこの斜面に続く比高差15m前後の丘陵が南北方向にのびています。 更にこの丘陵の西側には鼻田沼と共にその深い谷津が所在しており地形の独立性を一層高めていました。
■4■その名の通りの寺沼
 成安寺の南側に所在し、「滑川村史民俗編」によれば知行地である寺田の潅漑池、生活用水として利用されたと記されています。 また、ことによると南側からの進入を難しくする役割もあったのかもしれません。
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■5■酒井氏墓所 画像クリックで拡大
 成安寺の墓地の一番北側にに所在し、現在でも施餓鬼供養が行われている模様でした。
 初代酒井重勝の開基と伝わり、重之、重頼、重春、重見までの5代にわたる墓石が所在するとのことですが、墓石を拝見した限りでは最も古いもので宝永年間(1704-1711)のものしか確認できませんでした..勿論能力の問題かと自認しております。
■6■成安寺山門と観音堂
 右手が山門で、左手の高台に所在しているのが画像「1」の解説に記されている馬頭観音堂の堂宇。 高低差がこの寺院の地形的な特徴で、馬頭観音堂の南側に別の丘陵が張り出し、寺の墓地は西側の丘陵地帯の東側斜面の中腹に所在しています。
■7■成安寺の参道
 幅約10mほどで東西方向にのびる長さ120m前後はあろうかという参道の規模は、知行5千石の旗本の菩提寺に相応しい寺院としての格式の高さや本来の境内地としての大きさを窺い知ることができます。
■8■庚申信仰の青面金剛像
 成安寺の参道の北側に10体近くの庚申塔が立ち並んでいました。 目下の所、別段やましいものはありませんが、その厳しい姿から何とはなしに現在の自分の有様を再確認してしまう威厳を備えています。
 文字だけのものよりも、やはり本尊の青面金剛像のあるものの方が印象深いのは当然のことですが、台座の敷石の関係で微妙に後ろへと傾く姿が実にシュールなインパクトを感じました。
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■9■参道の手前の堀跡状地形
 参道の一番手前には小さな石橋が設置され、幅1間にも満たないような小さな堀跡状の地形が遺されています。
 酒井氏の陣屋との関係は不明ですが、現存する地形の中では最も堀跡らしく見える風景ですが直ぐ南側で用水路へと繋がっていました。
交通案内

曹洞宗成安寺境内一帯と推定しています
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 成安寺と酒井氏に関する記述はありますが、陣屋跡については近世の初期に廃されたためか全く記されていません。
■武蔵志
 同上

凸主な参考資料
「埼玉県史 通史編3近世」(1988/埼玉県)・「埼玉県史「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)・「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室)
「戦国人名辞典」(2006/吉川弘文館) 

・2006/02/09 HPアップ
・2015/10/14 ご指摘により、所在地に関する記述を暫定的に訂正・追加いたしました。
 文献資料の再調査、現地再訪などの追加調査につきましては当分の間未定とさせていただきます。

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