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関連ページへのリンク  2006/05/22のブログ 女影氏館 中山氏館 加治屋敷 柏原城 小室陣屋
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合22
所在地
埼玉県日高市女影上旅屋
歴史と沿革

旗本三枝氏の屋敷跡か
 「新編武蔵風土記稿」 の高麗郡女影村の屋敷跡の記述によれば、三枝氏の屋敷が寛永年間において江戸の旗本屋敷が整備されるまでの間存在していたことを推定させる記述があります。なお「日高町の歴史散歩」(1989)では、墓所に存する宝篋印塔の年代から三枝氏が武田家滅亡から徳川家に仕えるまでの数年間において既にこの地に居住していたとの推定をしています。いずれにしても16世紀の終わりごろから17世紀の初頭頃まで旗本三枝氏のものと推定される屋敷が存在していたことは概ね確かなようです。
 「寛政重修諸家譜」などによれば、三枝氏は甲斐武田の旧臣で武田氏滅亡後は父守吉の代から家康に仕えたとされ、三枝土佐守守重(のちに守恵(もりしげ) 1595-1651 通称名は宗四郎)は大阪夏の陣に従軍し2代将軍秀忠の信頼厚く、三代家光にも仕えて嘉永3年(1626)には従五位土佐守に叙任されました。その後の相次ぐ加増の結果最終的には御書院番頭として6千石の知行を得るに至りますが、慶安4年(1651)家光の死去際してに切腹して殉じたとされています。

確認できる遺構
おそらく無し
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■日高市立高根中学校建設などの造成工事のため周辺の地形が相当に改変されている模様ですが、周辺の山林や鬼門に当たるといわれている祠のある個所には当時の面影が偲ばれます。女影氏館の西南西約700m付近の丘陵地帯に所在していたと考えられます。「記念撮影」の項参照

文化財指定
訪城年月日
2006/05/22
訪城の記録

( 2006/05/22 )
空気が重たいのは気のせいか...
 最初に三枝氏菩提寺の長松寺にて三枝氏一族の墓を墓参してとりあえずご挨拶を。
そのあと、目星をつけておいた三枝氏屋敷へ。 場所は「こま川団地近」くの日高市立高根中学校のすぐ裏側で校庭の一部も含まれているような台地の辺りのようです。
とはいえ天候の影響もあり、浄財と墓参の効用はあったような無かったような...いずれにしても歴史を感じさせる小祠の周囲の空気がやけに重たく感じられたのでありました。
 肝心の屋敷跡自体はかなりの部分が中学校のグランドの一部となっているように思われ、関連した造成工事などにより本来の地形がかなり変わってしまっているという印象でした。

記念撮影
三枝氏屋敷の遠景

 屋敷跡は丘陵地帯の台地部分に所在していたと思われ、その南方には深田や低湿地が谷沿いに広がり東西方向の見通しは格別ですで、写真の左奥の方には千丈ヶ谷の字地名とともに「6」の「千丈ヶ池」が所在しています。
 女影村の初期の領主であった三枝氏にとって、菩提寺となる長松寺の向側に所在する低山を背後に置いたこの地は、その領地支配にとって格好の地理的条件であったのかもしれません。

( 2006/05/22 撮影 曇り )
訪城アルバム
■1■三枝氏の墓所
 正面の大きな墓石がこの墓所の所在する三枝山長松寺の開基である三枝土佐守守重の開基塔。右端の宝篋印塔は守重室の墓石で、その弟である内田正信(1613-1651)は下鹿沼藩1万5千石(のち下総小見川藩)の譜代大名藩祖となりますが守重と同様に家光の死去に殉じました。
 なお、三枝氏歴代の墓は1990年3月10日に当時の日高町の史跡に指定されていますが、本来の守重の墓は日光に所在しているとのことです。
■2■三枝守吉の墓石
 「寛政重修諸家譜」によれば守重の父である三枝彦兵衛源守吉は天正10年(1582)織田信長の甲斐侵攻による武田氏滅亡後、祖父虎吉に従い家康に拝謁し父守友の旧領を知行され、同心56騎を任され叔父である土佐守昌吉に属し、その後陸奥の九戸政実の平定、朝鮮の役に関わり駿河大納言忠長の家臣となったとされています。(「日高市史 文化財編」より)
画像クリックで拡大します
■3■本堂までの長い参道
 代々数千石の知行を領する上級旗本として守吉の代から数えて8代守義(もりのり 1755-1808)までの墓所が、本堂に向かって左側の斜面に所在しています。
■4■屋敷跡の鬼門の方角に所在する祠
 今にも雨が降り出しそうなどんよりとした天候の影響もあり、浄財と墓参の効用はあったような無かったような...歴史を感じさせる小祠の周囲の空気はやけに重たく感じられたのでありました。
■5■屋敷跡の東側あたりかと
 造成された台地部分の盛り土を撮影しても仕方がないので、祠の所在する場所に至る農道と山林を撮影してみました。
■6■千丈ヶ池
 仙女ヶ池ともいわれ、「新編武蔵風土記稿」の女影村の地名の謂れとして「昔、せんという名の女性がこの池に身を投げたが、その後その女性の人影(女影)が時々池の中に現れようになった」という伝承を記しています。しかし、「同稿」ではあくまでもこれは俗説であるとした上で、その一方で古戦場(女影ヶ原)があったことにより「戦場ヶ池」と呼ばれていたのが、後世に「千丈ヶ池」と記されるに至ったものと推測しています。 そのような訳でやや怪談めいた人気のない古池を予想して赴いたところ、現実にはへラ鮒釣と思われる釣り人の集団が池の周囲のあちこちに腰掛けて釣り糸を垂れていました。
交通案内


いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類記述の状況
「新編武蔵風土記稿」には高麗郡女影村の屋敷跡として、
 「長松寺の後の方にあり、これは三枝某、当村を采邑(さいゆう)に賜り、この地に土着せしが、寛永の頃とかや、江戸の屋敷へ移りしと云、近き辺りに馬場の跡も残れり、今は雑木たち茂れり」
と三枝氏の屋敷が寛永年間において江戸の旗本屋敷が整備されるまでの間存在していたと伝える記述があります。

「武蔵志」三枝氏屋敷に関する記述はありません

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「日高町の歴史散歩(1985・1989・1991/日高町教育委員会)」
「日高市史 通史編」(2000/日高市)
「日高市史 中世資料編」(1995/日高市)
「日高市史 文化財編」(1990/日高市) 

・2006/06/04 HPアップ

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