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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/11/26の日記 中山氏屋敷 中山家範の登場する小説
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態4 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯3 印象2 総合25
所在地
埼玉県飯能市中山496-2ほか
歴史と沿革

北条氏照家臣の勇将中山家範の館跡
 中山氏は武蔵七党の丹党加治氏を祖としているとされ現地の解説板によると鎌倉時代の加治家季の時に中山の地に居住して中山氏を名乗ったとされています。しかし「中山氏と飯能・高萩」(2003年/飯能市郷土館発行)によれば家季の子である助季の時に中山氏と称したという説や、はるかに後世の中山家範の父家勝の時に中山氏と称したという説などを紹介し、どの時点から中山氏となったのかは不明であるとしています。
 「吾妻鏡」には加治次郎家季が建久元年(1190年)源頼朝の上洛の随兵の一人として加わっていることが見え、元久2年(1205年)の二俣川の合戦で幕府方として討死を遂げたこと、嘉禎4年(1238年)にはその子助季が4代将軍九条頼経の上洛の随兵の中に加わっていることなどが記されています。
 中山氏の一族で最も有名な人物である助六郎勘解由家範(中山家範)は天正18年(1590年)の八王子城をめぐる攻防で寡兵にもかかわらず秀吉の大軍をよく凌ぎ自刃して果てたと伝えられており、「関八州古戦録」などの軍記物に登場します。

その子孫は大身の旗本、水戸家の付家老や久留里藩主に
 その子孫は家範の武名や乗馬術(高麗八条流)に優れていたことなどにより徳川家に仕官します。兄照守の系統は3500石から4000石の大身の旗本として、また照守の曾孫に当たる直邦は久留里藩3万石の大名黒田家 ( 中山氏と同系統の武蔵七党丹党の黒田氏で筑前の黒田藩とは直接の関係はない ) の当主として栄えました。一方弟である信吉の系統は25000石の水戸家の筆頭家老として事実上の大名格の家柄としてそれぞれ大いに栄えました。また信吉は水戸家の付家老として初代水戸藩主の後継者として光圀(後の水戸黄門とされる人物)を推挙したということも知られています。それらの家系は幕末まで続いたことは一般によく知られているようですが、後北条氏旧臣の中ではおそらく出世ナンバー1の一族かもしれません。
 なお、「新編武蔵風土記稿」り中山村の屋敷跡の項には「...天正の頃、中山勘解由左衛門家範が居住せし跡なり、二段ばかりの地にて、今なお土手構の形存せり...」と記されています。

確認できる遺構
土塁、空堀の一部
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■「飯能市史 資料編 文化財」(1976年/飯能市発行)などによれば館跡は北に勘解由山などの丘陵地帯を背負いその麓の南側の緩斜面に所在する南東部分の外郭を欠く変則の二重方形館であると推定されています。その堀幅は推定で4mから6m、深さ2mの空堀がめぐらされていたとされています。また、内郭は東西60m、南北90mほどで、外郭は東西110m・南北130m程度の規模を有し南側の中央部分に小口に相当する門口が存在したていたと推定されています。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「飯能の指定文化財」(1991年/飯能市教育委員会)
「飯能市史 通史編」(1988年/飯能市発行)
「中山氏と飯能・高萩」(2003年/飯能市郷土館発行)
「飯能市史 資料編 地名・姓氏」(1986年/飯能市発行)
「飯能市史 資料編 文化財」(1976年/飯能市発行)    

文化財指定
埼玉県旧跡 1963年8月27日指定
訪城年月日
2005/11/26
訪城の記録

( 2005/11/26 )
空堀跡に車庫が...
 今年の春先に朝霞市方面をまわっていた際に引き続いて飯能市方面に出かける予定が暫くの間中断したままとなっていました。これといって理由はなかったのですが、強いて言えばやはり山城方面はは晩秋から初春にというような季節的な理由です。館跡遺構としては空堀跡の一部のみが残されているということは以前から知ってはいたものの、本当に住宅地の中の路地沿いにほんの申し訳程度に遺されていました。おまけに東側には数年前に建替えられた思われる車庫が所在したりして、埼玉県指定の旧跡とは名ばかりの文化財が直面している現実がそこにありました。また空堀跡の南側は幾分盛り土がされているようなので土塁跡の一部のようにも見えますが、この僅かな遺構だけでは館跡全体の様子をイメージするのは余りにも難しいようです。

記念撮影

 平成3年に出版された「飯能市の文化財」(飯能市教育委員会 編)に掲載されている昭和40年代の初めと思われる写真ではもう少し手前の方まで鍵の手状の空堀が続いていたようです。また、右側の道路が少し広がった分だけ、心なしか堀幅も狭くなったようにも見えるのですが、現地の解説板の記載の案内図などによれば内堀の北辺西部に相当するようです。  

( 2005/11/26 撮影 晴れ )
訪城アルバム
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■1■
 初代の中山信吉の宝篋印塔などが存する智観寺の境内に所在する大規模な塚。境内にはこのほか中山氏歴代の墓所が残されています。午後4時を過ぎているので大分辺りが薄暗くなっています。
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■2■
 正面に見える低い山が高麗峠や宮沢湖などのある丘陵地帯につながる「勘解由山」と呼ばれている辺りかと思います。「飯能市史 通史編」(1988年/飯能市発行)に掲載されている中山氏系図によれば、勘解由の官途名は家範の父家勝に始まり照守の系統に継承されていますが、いつの時代から地名となったのかは定かではないようで、「飯能市史 資料編 地名・姓氏」(1986年/飯能市発行)によれば最も旧い記録でも明治4年とされています。
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■3■
 立派な石碑と解説板が設置されていますが、北側から進んでくると住宅の陰に隠れていて余り目立ちませんので危うく通り過ぎるところでした。
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■4■
 東側の車庫の脇の方から堀跡を撮影したもの。以前より大分縮小したような感がありますが現在でも一応2間半(4.5メートル)の広さ、18メートル(歩測)ほどの長さの遺構を見ることができます。
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 智観寺の墓地越しに見た勘解由山方面。
交通案内

・武蔵丘ゴルフコースの南側、真言宗智観寺の東側 MapFan Web の案内図です  

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