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関連ページへのリンク  2006/05/22のブログ 柏原城 中山氏館 加治屋敷
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ4 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合25
所在地
埼玉県日高市女影上ノ条
歴史と沿革

承久の乱に登場
 女影氏については「吾妻鏡」の承久3年(1221)6月の承久の乱の記述中、宇治川合戦における負傷者132人の一人として「女影太郎」、宇治川渡河の際の死亡者として「女影四郎 武蔵」と記されています。こうしたことから武蔵女影を本拠とする女影氏の存在が推定されているようです。しかし、これ以外には女影氏の足跡を辿る史料は現存していない模様で、後世の作であると推定されている武蔵七党系図などにもその名を見ることができません。その出自については丹党高麗氏あるいは加治氏という説や古代からの田堵の系譜という説もあるようですが余り明確ではないようで、また更に承久の乱以降の女影氏の足跡についても不明のようです。〔「日高市史 通史編」(2000/日高市)「日高市史 中世資料編」(1995/日高市)を参照〕
 それにしても不思議なことには、「埼玉史談」などに掲載された先学の研究成果、これらの遺構の残存、女影氏の記録の存在等という状況があるにも拘らず、何故1980年代に実施された「埼玉の中世城館調査」では伝承地も含めて収録されている事例も少なくないことから何故この対象とされていないのかについては些か理解に苦しむ所です。
 また、「小田原衆所領役帳」に「30貫文 高麗郡女影 境野越前守」と記されているように、後北条氏の支配した16世紀半ばの戦国時代には「他国衆」に属する境野越前守が30貫文を知行していたことが記されています。この境野越前守について「日高市史 通史編」では、天文15年(1546)の河越合戦後に武蔵国における後北条氏の優位性が確立されたのちに帰順した、かつては三田弾正少弼の影響下にあった在地土豪・小領主であるとしています。しかし境野氏とその在地支配の実態の詳細については不明のようです。

確認できる遺構
土塁、空堀、水堀
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■館跡周辺を取巻くような二重の用水路は水堀の役割を果たしていたことが窺がわれ、現状においても水田と深田の間に浮かぶ半島のような景観を呈していました。また小字名は「上ノ条」(うえんじょう)であり「上の城」にも繋がることから女影氏の館跡と比定されているようです。
 地形上唯一最大の弱点と考えられる南西側の尾根側には、堀切などの一定の防御施設が備えられたことが想定されますが、この季節ではその地形の確認が難しい状態です。また遺構の時代背景については、折のある形態から考えて一般的には戦国期のものと推定するのが無難であるに思われます。したがってあくまでも推測の域を出ませんが、鎌倉時代の初期には女影氏の本拠地として利用され、その後はこの地域を拠点とする在地領主の居館として戦国時代末期頃まで使用されていた可能性があるように思われたのですが。

文化財指定
訪城年月日
2006/05/22
訪城の記録

( 2006/05/22 )
「深田に浮かぶ半島」
 中先代の乱の戦いの舞台となったと推定されている「女影ヶ原の古戦場」から、南西方向に僅かに高度を上げつつ女影氏館跡とされている水田地帯に囲まれた微高地へと向かいました。残存している館跡の遺構規模はやや小規模なものの、「日高市史」に掲載されていたほぼ30年前の調査資料に近い土塁・空堀の遺構に対面できて感激を。 人家が近く且つ公道に面していることから、遺構については既に消滅したものと誤解していたこともあり嬉しさが倍増しました。
 館跡周辺を取巻くような二重の用水路は水堀の役割を果たしていたことが窺がわれ、現状においても水田と深田の間に浮かぶ半島のような景観を呈していました。 しかしその途中で北側の水田の一部に高さ約10mほどの巨大な産廃の山に遭遇し、のどかな田園風景とは対照的な現代社会の歪の象徴を目の当りにすることとなりました。

記念撮影


 館跡周辺を取巻く格好となっている二重の用水路は水堀の役割を果たしていたことが窺がわれ、現状においても水田と深田の間に浮かぶ半島のような景観を呈していました。内堀に沿ってぐるっと反時計回りに一周。
 あらためて攻めるに難く守るに易い防御地形としての優位性を再認識するに至りました。 しかしその途中で北側の水田の一部に高さ約10mほどの巨大な産廃の山に遭遇し、のどかな田園風景とは対照的な現代社会の歪の象徴を目の当りにしました。

( 2006/05/22 撮影 曇り )
訪城アルバム
■1■土塁状の高まり
 「日高市史」にも掲載されている土塁状の高まりは、現状では高さ1m前後、延長約20mほどの規模が確認できました。
 「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)によれば、この女影氏館とは別に「竹ノ内館」(女影竹之内所在)という館跡?も所在していることになっていますがそちらの方は更に具代的所在地なども含めて不詳のようです。
■2■公道南側の空堀
 公道とは直角に深さ1mから1.5m、長さにして15mほどの規模で、「1」の土塁の先端部分から続いています。また、庭木の影になっているためやや分かりにくいのですが、空堀跡の右側部分には土塁が遺されているようにも見受けられました。
■3■折のある堀跡
 やや「畑の根切り」と判別するのが難しそうな周辺の環境ですが、以前の調査資料や折のある形状から見てやはり堀跡と考えるほうが自然であるように思われます。
■4■堀跡の形状を髣髴させる細い道路@
 手前の道路を挟んで「5」の南側部分の道路と繋がっています。
■5■堀跡のようにも見える道路A
 手前の道路を挟んで「4」の北側部分の道路と繋がっています。1934年の「埼玉史談」に掲載された実測図によるとによると電柱のある茶畑の畝に沿う形で土塁が存在していたと記されているようです。
 〔「日高市史 通史編」(2000/日高市)
 「日高市史 中世資料編」(1995/日高市)を参照〕
■6■デート中のカルガモのカップル
 水嵩の少ない内堀に相当すると思われる用水路で仲良く泳ぎまわっていました。カメラをむけた途端にいかにも迷惑そうにして慌てて泳ぎ去っていってしまいました。加須市の花崎城の時には相手が一羽だけということもあり向こうから勝手に近寄ってきてくれたのですが...
■7■東側の内堀に相当すると思われる部分
 「8」はその上流に相当しています。開削や護岸工事を加えられていますので当時の規模に近いのは「8」の状態かと思われます。現状の幅は2間以上、深さは3mほどの規模で、写真の先のあたりで下小畔川となり関越自動車道の北側で小畔川に合流しています。
■8■北側の内堀ら相当すると思われる部分
 コンクリート板の橋以外には余り人の手が加えられたような様子がない模様で、現在は幅約2m、深さ約2mほどの規模ですが地形状の理由から東側の下流に向かって次第に拡大しています。
交通案内

・県道15号線南、埼玉女子短大の南方約600m付近
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類記述の状況
「新編武蔵風土記稿」
 高麗郡女影村の項には女影氏の事跡について吾妻鏡からの引用が記されているものの、その館跡についての記述は見られません。
「武蔵志」
 中先代の乱についての多少の記述が存在するのみで女影氏に関する記述はありません。
凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「日高市史 通史編」(2000/日高市)
「日高市史 中世資料編」(1995/日高市)
「小田原衆所領役帳」(佐脇 栄智 校注 1998/東京堂出版)
 

・2006/05/31 HPアップ
・2006/06/03 境野氏に関する記述追加

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