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アクセスお礼申し上げます。  素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。  お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。  
1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/05/14のブログ 御所の内 新堀屋敷 猪俣城 猪俣氏館 広木大仏城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態1 探し易さ5 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯1 印象3 総合21
所在地
 埼玉県児玉郡美里町南十条字新倉234
歴史、人物、伝承

15世紀前半の館跡と推定
 近世地誌類にはその記述は見られず、館跡に関する伝承なども残されてはいないとのことです。四半世紀より以前に作成された発掘報告書「武蔵新倉館」(1980/美里町教育委員会)によると、出土した遺物等から館としての存在時期を15世紀前半と推定しています。これに対して「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)では、具体的な根拠を示してはいませんが15世紀前半から中葉頃と推定をしています。
 この当時の時代背景としては鎌倉公方足利持氏に対して叛乱を起こした上杉禅秀(氏憲?-1417)、あるいは時代はやや下って足利学校の設立で有名な関東管領上杉憲実(1411-1466)が活躍した時期が想定されます。以上のことから、概ね「上杉禅秀の乱」(1416-1417)、または永享の乱(1438)などの戦乱により敗退し、大きくその勢力を失った在地領主階層の館跡と見ることはできそうですが居館の主を具体的に特定することは難しいようです。
 また、鎌倉期の武蔵武士の館からの流れで捉えた場合には、地理的に見て猪俣党甘粕氏の庶流である古郡氏が比較的近いようにも思えます。また北西には桜沢氏館も所在することから、これらの一族との関係も想定されます。しかし、いずれにしてもその具体的な関係を示す史料は確認されておらず、あくまでも憶測の域を出るものではありません。

確認可能な遺構
 圃場整備のため消滅しているとのこと
地理的特徴

二重の濠に囲まれた方形館
 その地名に古代条里制の名残を留める身馴川右岸の平坦な扇状地に所在。上記発掘調査によれば、外郭部は東西120メートル、南北140メートルの規模を有し、南東の隅を欠いた形式の二重方形館であったことが判明しています。また内郭は東西61メートル、南北73メートルの規模を有し複数の掘立建物の存在が確認されています。

文化財指定
 なし
訪城年月日
 2007年5月14日
訪城の記録 記念撮影

( 2007/05/14 )
凸 あたり一面の麦畑にございますれば
 下記の画像は東側の民家寄りの北東の角から撮影したもので、圃場整備に伴う発掘調査により二重堀の館跡が確認されているとのことです。なお、たまたま農作業中の地元のご年配の方がおいでになりましたので往時の様子などを伺うことに。その結果、「十数年前までは明確な堀跡が現存していた旨」(実際には発掘調査の時期から推定して25年以上前かと思われますが)、および「この場所が新倉と呼ばれていること」などを確認することができたことは望外の幸せにございました。
 然し現状の地形からは微高地を形成しているという事実と、猪股城方面からお互いに眺望が優れるということ以外には得るべきものがありませんでした。なお手元の資料などと照合したところでは、下記の画像の左側の用水路(黄色い線の部分)は、おおむね館跡の外郭東側の堀跡の位置に匹敵しているように思われたのであります。

新倉館跡(北東方向より) 画像クリックで拡大します
新倉館跡(左側水路は概ね外堀のラインと一致か)
( 2007/05/14 撮影 )
訪城アルバム
新倉館(北西方向より) 画像クリックで拡大します
新倉館の麦畑 画像クリックで拡大します
凸1 新しい用水路
 この用水路は圃場基盤整備事業により新たに築造されたもののようです。内郭はおそらく中央の麦畑の辺りかなどとと憶測を逞しくしてもあくまでも麦畑は麦畑なのでありました。
凸2 麦秋
 館跡としての面影は僅かに東側の用水路付近のみかと思われました。このため、館跡の推定地に咲いていた初夏の草花の撮影にシフトチェンジいたしました。(この方が怪しくはなさそうかと)
ヤグルマギク
ゼニアオイ
アヤメ(大きめなので外来種かも知れませぬ)
交通案内

・美里町南十条、十条交差点南東の畑付近。

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 児玉郡十条村の項に「榛沢郡小前田村の民兵五郎が永禄年間の北条安房守氏邦より与えられた文書に十条村の地名が見えることからそれ以前に集落が存在したことが確認できる」との一文が記されています。しかしこの記述以外には、十条村そのものの歴史的経緯を伝えるものはなく、またこの館跡に関する記述も見当たりません。
■武蔵志
 児玉郡十条村の項には、この館跡に関する記述は一切ありません
(=一部の表現を現代文風に変更=)
凸参考・引用資料 (太字の資料は特に関連が深いもの、あるいは詳しい記述のあるもの)

「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「美里町史 通史編」(1986/美里町)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)
「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社)

・2007/12/16 HPアップ
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