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1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/04/22のブログ 甘粕城 猪俣氏館 猪俣城 白石城 古郡館 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態5 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合28
所在地
埼玉県児玉郡美里町木部東402
歴史、人物、伝承

2つの比定地と謎の木部氏
 木部氏は猪俣時範の孫行兼を祖とし、この木部の地に居住したことから木部次朗と称したことに始まるとされています。(「埼玉郷土辞典」「美里町史 通史編」「角川地名大辞典 埼玉県」「埼玉大百科」などより) また「武蔵七党系図」(「内閣文庫本」)では猪俣党の一族であることが記されるとともに、その系図上から同族には近隣の川匂氏、古郡氏、甘糟氏などの多くの一族が輩出されたことが記されています。 しかし、木部氏自体の消息は系図上でも僅かな記載のみで大きな地位を占めていたとは考えにくいものと思われます。
 「美里町史」では美里町役場西側の小字名「古館」(残存遺構は無し)という地について木部氏館址の説のひとつとして紹介していますが、あくまでもその比定地については明確に特定できないとしています。 このため上記所在地に土塁と堀の一部が存在しているという状況から、一般的には木部氏館であった可能性が強いとの説を掲載しているに過ぎません。 またこの2ヶ所の比定地は直線距離では僅か300m程しか離れていないことから、「戦国期において広範囲に館が拡張されひとつの館であったと」の可能性も示唆しています。
 なお「角川地名大辞典」では「木部の地内に館を構え木部氏館址がある」と記していますがその具体的な史料については明示していません。 また同書によれば元亀元年と推定される北条氏邦印判状により、「木部村の内における高柳源左衛門の屋敷地を安堵した」とされています。 この点について「美里町史」では印判状の原文を掲載するとともに、高柳源左衛門が那賀郡駒衣村出身の吉橋大膳亮の弟で因幡守と称ていたこと、並びにこの木部村の屋敷地については寄居との地名が付されていることから、男衾郡木部村(現比企郡小川町竹沢)であるとのことを明らかにしています。 なお、土塁などの遺構が残されているこの比定地内には「鉢形北条氏の家臣であったと伝わるお宅が存在している」とも記しています。

確認可能な遺構
土塁の一部、水堀跡(用水路)?など
地理的特徴

原型は方形館か
 周囲を水田地帯に囲まれた微高地に所在し、主要な遺構としては東側の天然の河川を利用したと推定される堀跡(用水路)と途中で分断された2ヶ所の高さ1m前後の西側土塁が存在しています。館跡の規模そのものは古代の条里制の規模に沿った丁度一町四方余りの方形館ですが、そのままの形態で後世に伝えられたとも思えず、一般的には近世の有力農民階層の屋敷構えの遺構であるという可能性も否定できないような印象もあります。なお南側と西側の用水路および堀跡地形については、近年の道路建設などに伴う埋め立てにより消滅しています。

文化財指定
なし
訪城年月日
2007/04/22
訪城の記録 記念撮影

( 2007/04/22 )
住宅地西側の土塁跡
 美里町に遺されている平地の城館跡のなかでは僅かに遺構の存在を期待できる個所。
昭和61年に刊行された「美里町史」によれば、明確な土塁と堀跡の存在が記されているのであります。然しもうすでに20年以上前の刊行物であることから、編纂作業の年数を考慮すれば四半世紀以前の情報に過ぎないということも厳粛な事実。
 事前に集めた資料を参考にして、JR八高線の小さな松久駅の駅舎を右手に見てそのまま西側へと車を走らせると水田地帯の中に目当ての住宅地が出現。住宅地手前の道路左側になにやら文化財の説明版が所在していたので一瞬期待を。残念ながら木部氏および城館跡に関するものではなく、地元に縁のある和算学者の方の顕彰碑なのでありました。あの見事な堀切や郭が遺されている猪俣城でさえも、格別の説明板などがないことから至極当然のことなのかも。
 さて肝心の遺構については「美里町史」の記述どおりに、東側の堀跡と途中で分断された西側土塁の一部を確認に成功。ともかくもこの日ようやく始めて目にした土塁状地形に率直に感激。館跡の規模自体は古代の条里制の規模に沿った丁度一町四方余りの方形館の大きさ。尤もその後の戦国期における館としての役割の変化にともなうもの、あるいは後北条氏の滅亡後に帰農したと考えられる近世有力農民階層の屋敷構に伴う遺構というような印象も拭い去れなくもないような。しかしそうした時代背景は別にして、現実に宅地化が進行している平地の城館跡において土塁状の遺構を拝見できるとは殆んど期待していなかったということもあり全く予想外の収穫ではありました。なお南側と西側の用水路および堀跡地形については、近年の道路建設などに伴う埋め立てにより最早その存在を確認することは叶わず仕舞いに。

西側の土塁 画像クリックで拡大します
館址の西側に一部残されている高さ1m、長さ20mほどの土塁跡
( 2007/04/22 撮影 )
訪城アルバム
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凸1 木部氏館址−東側からの遠望
 この道路に続く南側の舗装された道路にも以前には用水路が流れるなど、かつての堀跡の名残としての景観が残されていた模様なのであります。 しかし現存する遺構は上記の西側に存在する2か所ほどの土塁状地形と画像「3」の用水路へと転じた堀跡のみのようです。
 なお、「古館」との小字名が残されている地域は、この画像の八高線の踏切を超えた右側に所在しているようです。
凸2 館址とは無関係の文化財説明板
 生憎館址とは直接関係の無い地元出身の幕末期の関流和算学者・指導者であった小林喜左衛門良匡とその顕彰碑などに関する説明板。
 尤もこうした地方における学術の振興、基礎学力の普及という背景が、明治以降の我が国の急速な近代化を成し遂げるべき人材を輩出する原動力となっていったのでありましょう。

画像クリックで拡大します
西側の堀跡と思われる道路
凸3 東側の堀跡らしき用水路
 正面に見える美里町の遺跡の森公園の所在する比高差25mほどの通称木部山と呼ばれている丘陵地帯を水源とする小河川。この小川がそのまま館址東側の堀跡・用水路の役割を兼ねていたものと思われます。
凸4 西側の堀跡と思しき道路
 「美里町史 通史編」の記述ではこの西側の北部にも堀跡とみられる地形が残されていたと記されています。しかし何分にも20年以上も前の事ゆえ、現在はコンクリートの蓋が設置されたU字溝の存在がその証と見る以外には手だてがありませんでした。なお上記の土塁状の遺構はこの道路の先の右側に所在しています。
交通案内

・JR八高線松久駅から北西に直線で約250mに所在する住宅地

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 那賀郡木部村の項には木部氏およびその館址に関する記述はありません。
■武蔵志
 同上
(=一部の表現を現代文風に変更=)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「美里町史 通史編」(1986/美里町)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)
「武蔵武士」(1971/有峰新社−1913/渡辺世祐、八代国治共著/博文館刊の復刻本)
「武蔵の武士団」(1984/安田 元久 著/有隣堂)横山党以外の武蔵七党の存在について懐疑的な見解を明示
「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社)・「日本史広辞典」(1997/山川出版社)

・2007/10/15 HPアップ

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