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古郡(古凍)館
関連ページのリンク  2005/05/07の日記                 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3(6) 探し易さ3 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象0(2) 総合20(25)
所在地
埼玉県児玉郡美里町古郡上耕地577
歴史と沿革

■「美里町史 通史編」によれば武蔵七党の丹党に属するこの地の古郡を本拠地とした古郡入道時員の流れを汲む古郡左近入道がこの地に居を構えていたとの伝承があるとのことであり、平安末期から鎌倉期の館跡と推定しているが、古郡氏の館跡であるかどうかの確証はないとしている。

確認できる遺構
土塁、堀跡か
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■約20年ほど前に編纂された「美里町史 通史編」のによると東西150m南北110メートルの規模で部分的に土塁や堀が残されていたことが記されているが、現状では遺構の規模や範囲が縮小されているようで非常に分かりにくくなっている。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「美里町史 通史編」(1986/美里町)   

文化財指定
訪城年月日
2005/05/07
訪城の記録

( 2005/05/07 )
ここにも、消滅していく城館跡が
 帰路に時間があれば立ち寄ってもいいかなという程度の場所でしたので、そろそろ時間もなくなり夕方の混雑を考えると直接帰宅するほうに傾いていたのですが、たまたま信号待ちで停止した交差点が、そこへの近道の場所だったのでついでによっていくことに。
 場所は美里町役場の北側200mぐらいのところで、「美里町史」の二十年以上も前の情報を基にしていたので、場所を確認する程度のつもりで遺構の状態については全く期待はしていませんでした。そして、現地に行ってみると当然の結果としてわざわざ行かなくてもよかったのではないかという状況でした。民家の北側の境界に土塁らしき草木が叢生した茂みと、堀跡と思われるU字溝の下水設備があっただけで、どう工夫しても写真の撮影の仕様もない状態でありました。平安末期から鎌倉初期にかけての丹党の一族の館跡らしいのですが、時の流れにより次第にこのようにして消滅していくのでしょうか。
 そうした中、しいて訪城したメリットをあげるとすけば、国道254線の渋滞を迂回できたということぐらいで(^^;

( 2005/05/25 )
予感が当たった(^^;
 前回の訪城であれほど低い評価を与えた遺構の状態が、実は下記の写真のように西側部分については土塁が100mにもわたってきちんと現存していることが分かりました。関係者方には深くお詫びいたします。
 前回は足の具合も良くなく疲れていたこともありぐるっと周囲を一周することができず、相当にいい加減な評価をしてしまいました。従って、評価の訂正を行いましたが、( )の中が今回のものです。なお、冬季に訪れると土塁全体がもう少し見やすくなると思いますので念のため。

Best Shot?



 肉眼では左側の生垣の中に手前から奥の方に向かって、高さ1mほどの土塁のような連続した土の高まりがなんとか確認できます。
 また、現在下水路のようになっている部分は堀跡のようですが、民家の庭先と敷地の境界の部分に所在することもあり、この現状からでは当時の様子を窺い知ることはできませんでした。
 ( 2005/05/07 撮影 晴 )
交通アクセス

・JR八高線松久駅より北へ徒歩約8分 MapFan Web の案内図です  


( 2005/05/07 撮影 )

■ほかに撮影するものなど特になく、古郡館の南側の県道31号本庄−寄居線に面した最近では見かけなくなったトイレを目印代わりに撮影。
 置いてある物品から推定すると近所の酒類販売店の付属施設のようですがそれらしい店舗が見当たりません。しかし、よほど切羽詰らない限り用を足すのが憚られるこの開放性。排泄行為を取巻く慣習や文化性にそれほど違いはないとは思うのですが...なお、バス停留所の名称は「古郡」で、古郡館はここから北へ徒歩100m。
■館跡の南側の消防署脇に植えられていたヒナゲシ(別名虞美人草、もしかするとアイスランドポピーかも)に初夏の夕日が当たり、鮮やかなオレンジ色が更にいっそう鮮やかになっているシーンをデジカメに収めて帰途に着きました。

( 2005/05/25 撮影 )

■館の西側にはこの通り延長約100m、外側の高さ2m、内側の高さ推定1mの規模の土塁がしっかりと確認できます。堀跡は現在U字溝が設置されていますが、全体的にやや窪みが遺されています。当時においては道路の部分が堀そのものだったのではないでしょうか。
■心のどこかに何か引っかかるものがあったので、本庄城に向う途中に立ち寄り念のため西側の様子を確認した所、とんでもない勘違いをしていたということが分かりました。
 至極当たり前のことですが、方形の館は四方から確認しなくてはいけないということを再確認した次第です。西側の土塁は2軒の民家の敷地にかかっているようです。
■大きく窪みが残っている館の北側の堀跡。現在はご覧のようにコンクリートの蓋が置かれて、かなり幅も狭くなっているようですが地形的に以前は多分水堀が存在していたことを示唆しているようです。
■武蔵七党の武士の館の面影さえも伝わってくるような館跡の西側からの遠景。
 
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