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2007/04/22のブログ 猪俣氏館 猪俣城 白石城 古郡館 | ||
おすすめ評価 |
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凸埼玉県児玉郡美里町甘粕川久保127 | |
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水堀跡(甘糟氏との関連は不明) | |
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なし | |
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2007/04/22、2007/05/21 |
( 2007/04/22 撮影 ) |
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・美里町甘粕の県道13号線天神橋東側付近 |
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凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿 那賀郡甘粕村の項に「民戸80軒、東西12町、南北15町、南は中里村、西は木部村(猪俣党同族木部氏の本拠地に比定されています)、北は古郡村(土塁遺構を伴う古郡館が所在)、東は榛澤郡用土村(現在の大里郡寄居町で用土氏の本拠地とされ戦国期とされる用土城址が所在)なり・・・考えるに当所は昔甘粕野次廣忠等の居住した所とみられる」と記され、上記の「吾妻鏡」に記された記述を引用しています。 なお、近隣の男衾郡にも同名の甘粕村が所在していますが、正保期の検地(「武蔵田園簿」)にはこの記載がないことから後年(17世紀後半か)の新田開拓地であろうと推定しています。なお、この男衾郡甘粕村は明治22年(1889)の大合併に先立ち明治6年(1873)に当時の白岩村、関山村、内宿村、木持村とともに鉢形村として合併しその名を消滅させています(「寄居町史」より)。 ■武蔵志 那賀郡甘粕村の項に「甘粕弥治郎左ェ門親盛入道道頼 同太郎忠綱入道 ともに源空弟子なり 甘糟弥次広忠という人物もいた(朱書き)」と記載されていますが、その本拠地に関する特段の記述はありません。 |
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凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林) 「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣) 「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店) 「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など 「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県) 「美里町史 通史編」(1986/美里町) 「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本) 「武蔵武士」(1971/有峰新社−1913/渡辺世祐、八代国治共著/博文館刊の復刻本) 「武蔵の武士団」(1984/安田 元久 著/有隣堂)横山党以外の武蔵七党の存在について懐疑的な見解を明示 「日本石仏事典 第2版」(1975初版/雄山閣)・「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社) 「日本史広辞典」(1997/山川出版社) ・2007/10/06 HPアップ |
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