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アクセスお礼申し上げます。  素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。  お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。  
1歴史・伝承 2残存遺構 3地理的条件 4訪城記録 5アルバム 6交通案内 7文献の記述 8参考資料 9更新記録
関連ページへのリンク  2007/04/22のブログ 猪俣氏館 猪俣城 白石城 古郡館 
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合23
所在地
凸埼玉県児玉郡美里町甘粕川久保127
歴史、人物、伝承

甘糟氏の館址か
 「美里町史」によると、「甘粕城は美里町甘粕にある。国鉄(現在JR東日本)八高線松久駅を下車し、南に約15分程本庄・寄居間の県道(県道31号線)を歩くと天神川の橋にかかる。その東に「堀の内」という地名がある。半円形の水堀の一部が残存しているが、土塁や空堀等は不明である。築城者については、猪俣党に所属する甘糟野次広忠であろうといわれている。したがって、平安末期の築城であろうが、文献・絵図等は全くない」と記されています。また「埼玉の中世城館跡」などにおいても「甘粕城」と記されていますが、この「城」という名称の根拠についてはあまり明確ではないものと考えられます。
 一般に「城と館の区分」を一概に区分することは難しいものと考えますが、少なくとも12世紀後半の時代においては、後の15世紀後半以降の戦国時代における中世城郭のイメージとは一線を引くべき、古代末期から鎌倉時代初期にかけての開発領主階層のより居館的な性格のものと思われます。
 またこの地を甘糟氏の本拠地とする見解については、「新編武蔵風土記稿」、「武蔵武士」(1913/渡辺世祐、八代国治共著)、「武蔵国児玉郡誌」などにも記されてはいますがその本拠地に相当する居館の具体的な比定地を提示してはいません。

甘糟氏について
 遥か後世に記されたと考えられている「武蔵七党系図」などでは、武蔵七党横山党から分かれた猪俣党の一族とされ、その系図上から近しい同族には川匂氏、古郡氏、荏原氏などが記されています。そのなかで甘糟氏は猪俣時範の孫忠基の子である七郎家基を祖とし、野二郎広高(広忠とも)−太郎忠常(忠綱とも、治承2年の山門衆合戦で討死)−小太郎光忠(承久3年(1221)の宇治川合戦で負傷)−二郎能忠−又四朗経までの14世紀末頃までと見られる系譜が記されていますが、その後の消息を含めてその真偽のほどはあまり定かとはいえないようです。
 またその成立年代tが13世紀中頃の文永年間から14世紀初頭に遡るとされている「吾妻鏡」よれば、「元暦元年(1184)武蔵国住人甘糟野次広忠は、西海に赴いて平家を追討する旨を願い出たので、源頼朝は感激してその知行の萬雑公事を免じた」旨が記されています。また、承久の乱宇治川合戦ではその一族と思われる甘粕小次郎が勲功の交名に名を連ねています。
 更に時代は下って天正18年(1590)の鉢形城攻めに上杉景勝の家臣として甘糟備後守清長の名が登場します。然しこの甘糟氏は全く別系統の一族であると考えられ、越後坂戸城長尾氏譜代の家臣である登坂氏の出自とされています(「関八州古戦録」および「戦国人名辞典」)。

確認可能な遺構
水堀跡(甘糟氏との関連は不明)
地理的特徴

猪俣党の勢力範囲
 「美里町史」では天神川東岸の「堀の内」と呼ばれる自然堤防の微高地付近を比定していますが、一方「埼玉の中世城館跡」ではJR八高線松久駅を中心とした宅地化された一帯を記載しています。また天神川の流路そのものも、近世以降にある程度は河川改修されていることが窺われますので、現在の地形から甘糟氏の本拠地を絞り込むことは難しいものと考えられます。
 なお、周辺には猪俣城、猪俣氏館、白石城、古郡館(猪俣党の同族とされる)、木部氏館(同)など数多くの中世城館跡(伝承地、比定地を含む)が所在しています。

文化財指定
なし
訪城年月日
2007/04/22、2007/05/21
訪城の記録 記念撮影

( 2007/04/22 )
 甘糟氏の拠点は何処に
 「埼玉の中世城館跡」によるとJR八高線の松久駅を中心とした辺りがマーキング。しかし、同時期に刊行された「美里町史」では天神川に東側の辺りに所在する「堀の内」と呼ばれる地域を比定地としているようです。また、この地点から見て南南西方向に「猪俣城」の山陵がはっきりと見て取ることを確認できたことは意外な成果のひとつ。現地では道路の形状と河川改修などのため、町史に記された水田のなかの三日月型の堀跡らしき地形を探すのに幾分手間取るものの、ほどなくして細い用水路脇に意外なほど明瞭に残された窪地を確認。下記画像の個所がその堀跡ですが、その時代背景などの詳細については一切不明な模様です。このためそのまま鎌倉時代初期の甘糟氏に関係するとは考えにくいのでありますが、とりあえずは水堀の痕跡であると心に念じて次の目的地へと移動開始。
 なおこの時、その東側に所在する比高差30mほどの独立丘陵の存在がとても気にかかったのであります。然し4月の半ばを過ぎたこの時点では最早地表面を観察するには相応しくなく、加えて竹林でもあればそれこそ時節柄筍泥棒と間違われても困るのであります。もっとも後日当該丘陵地帯を再訪してみたものの、具体的な成果といえば青天の遠景を撮影しただけのことにございました。

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天神川右岸の堀跡と推定されている地形
( 2007/04/22 撮影 )
訪城アルバム
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凸1 魅力的な麓の勾配
 余りに魅力的な勾配の丘陵地形で、少なくとも後年の戦国期には何らかの中世城館との関わりを想定したくなる地形。このため、本来の堀跡遺構探しそっちのけでこの斜面を這いあがることに決定を。この地点に関してはとりわけ麓の傾斜が際立っていますが、全体としてこうした地形を形成しているというわけではないところが却って興味深いのであります。
 なお、履いてきた作業用の安全靴が斜面との相性が芳しくなく、どうも爪先部分の接触具合がいまひとつなのでありました。
凸2 丘陵上からの眺め
 墓地脇からの眺めは予想通り素晴らしく、地形上だけの要素から判断する限りは、常に天神川の洪水の可能性を孕んだ低地の堀ノ内付近よりも遥かに安全と思われます。然し耕地および水利支配の要素で考えると丘陵上が相応しいかどうか迷うところです。
 さて4月の半ばを過ぎたこの時点では、最早丘陵の地表を観察するには相応しくなく、もしも竹林でも散在しているとそれこそ筍泥棒と間違われるおそれも。

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甘粕の交差点
凸3 「堀の内」付近から眺めた猪俣城方面
 「堀の内」から猪俣党の惣領と思われる猪俣氏館の推定地までは南に直線にして約1.2km、画像の猪俣城までは南南西に約2kmの距離を有しますが、視界を遮るものがほとんどなく予想外に近いという事情が確認できました。
 地理的な条件としては、猪俣党庶流一族の本拠地として相応しそうにも思えますが具体的な確証を欠いています。
凸4 甘粕の交差点
 これといって格別地名を明示するものがなく、仕方なく信号機などを撮影してしまったのであります。なお強いて申しますと「埼玉の中世城館跡」に記されている地点の南辺に相当するはずなのですが、たまに記載されている位置がずれていたりすることもあり何とも判断しかねます。
 果たしてどちらがより相応しいかということになれば、むしろ下記の「6」の「堀ノ内」と呼ばれる地域の東側の丘陵地帯の方が魅力的に見えてしまうのであります。

庚申塔
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凸5 庚申塔
 少しでも歴史的な存在を求めつつ県道を北上すると、「4」の甘粕交差点付近にて民間信仰の庚申塔の石碑を見かけたのでこれ幸いと撮影させていただくことに。
 勿論庚申塔そのものはそれほど古いものではなく、甘糟氏が存在したとされる時代とは600年ほどの年代差があり近世末期から明治9年(画像右側)のもの。
 左側のいちばん風化が激しい舟形の石像はその姿からどことなく馬頭観音のようにも思えますが、何分にも肝心の頭と胴の欠損が目立ち判断しかねたのであります。
凸6 「堀の内」東側の丘陵地帯
 堀の内東側に所在する丘陵は比高差にして約30mほどのですが、東西を天神川とその支流に挟まれた地形で画像「1」のように麓の一部には魅力的な斜面も形成されています。猪俣城などとの位置関係から、戦国期の物見や小規模な砦などの役割を担いうる立地条件を備えているようにも見えます。
 このため、後日この場所を通過した際に再度立ち寄ってしまったのでありました。しかし尾根筋上は麓の部分と異なり至って平坦な地形が連続し、もちろん堀切状の地形などがそう簡単に見つかるはずもなく。 
       ( この画像のみ、2007/05/21 撮影 )
交通案内

・美里町甘粕の県道13号線天神橋東側付近

いつもガイド の案内図です いつもガイドの案内図

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 那賀郡甘粕村の項に「民戸80軒、東西12町、南北15町、南は中里村、西は木部村(猪俣党同族木部氏の本拠地に比定されています)、北は古郡村(土塁遺構を伴う古郡館が所在)、東は榛澤郡用土村(現在の大里郡寄居町で用土氏の本拠地とされ戦国期とされる用土城址が所在)なり・・・考えるに当所は昔甘粕野次廣忠等の居住した所とみられる」と記され、上記の「吾妻鏡」に記された記述を引用しています。
 なお、近隣の男衾郡にも同名の甘粕村が所在していますが、正保期の検地(「武蔵田園簿」)にはこの記載がないことから後年(17世紀後半か)の新田開拓地であろうと推定しています。なお、この男衾郡甘粕村は明治22年(1889)の大合併に先立ち明治6年(1873)に当時の白岩村、関山村、内宿村、木持村とともに鉢形村として合併しその名を消滅させています(「寄居町史」より)。
■武蔵志
 那賀郡甘粕村の項に「甘粕弥治郎左ェ門親盛入道道頼 同太郎忠綱入道 ともに源空弟子なり 甘糟弥次広忠という人物もいた(朱書き)」と記載されていますが、その本拠地に関する特段の記述はありません。

(=一部の表現を現代文風に変更=)

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「美里町史 通史編」(1986/美里町)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)・「武蔵国児玉郡誌」(1992/春秋社−1927刊行の復刻本)
「武蔵武士」(1971/有峰新社−1913/渡辺世祐、八代国治共著/博文館刊の復刻本)
「武蔵の武士団」(1984/安田 元久 著/有隣堂)横山党以外の武蔵七党の存在について懐疑的な見解を明示
「日本石仏事典 第2版」(1975初版/雄山閣)・「埼玉郷土辞典」(1966/埼玉新聞社)
「日本史広辞典」(1997/山川出版社)

・2007/10/06 HPアップ
・2007/10/07 地誌の補足説明記述の訂正、甘糟氏の記述追加

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