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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/03/30の日記 両谷城 金沢城山 浦山城 高松城 旗塚
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態2 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯1 印象3 総合23
所在地
埼玉県皆野町上日野沢、神川町矢納
歴史と沿革

将門の伝説、後北条氏の物見砦
 城峰山付近の平将門を始めとした伝承の方がどちらかというと有名で、文献にも記されず歴史的な経緯も不明ですが、永禄年間における武田氏の秩父地方に対する一方的な攻勢の行われた時期に後北条氏勢力のある程度の物見としての役割を担ったものと考えられています。

確認できる遺構
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■城峰山の東も石間峠を挟んで東側にのびる尾根筋に所在し、上州方面の眺望は頗る良好な地理的環境です。遺構自体は見出せないものの「皆野町史」などでは物見砦などとして機能したことが推定されています。石間城、金沢城山、浦山城、両谷城などと共に後北条氏の上州方面の武田氏の動向に対する監視機能を果たしていたとされているようです。なお、「皆野町史 通史編」では「旗塚」から「雨乞城」方面までの連絡ルートを想定していますが、狼煙による情報伝達そのものを別にすれば小峰山・大前山付近でで尾根筋が途切れているようなこともあり、人の移動と物流についてはやや困難が伴います。

文化財指定
訪城年月日
2006/03/30
訪城の記録

( 2006/03/30 )
鐘掛城(埼玉県皆野町) 午後1時30分から午後2時20分まで
 両谷城から再び城峰山方面への林道をミニ四駆で駆け上がり尾根筋の県有林道へ復帰。このときほど四駆が役に立ったことはなく、未舗装のやや泥濘かけはじめた凹凸の激しい悪路をさほどの苦労もなくスイスイと登攀することに成功。
 途中で両谷山の西側の様子も見えたこともあり相互の位置関係を明確にするためデジカメ撮影を継続。そのあとは石間峠に駐車して鐘掛城山へ20分ほどのハイキング。遺構は全く存在しない「伝承地」とはいうものの、せっかくここまできたらやはり自分の目で確かめないことには収まりがよくないということで、昨日までの陽気のせいで霜解けでややぬかるんでいたと思われる、現在は寒さのため霜柱が融けずに残る稜線をトボトボとすすんでいきました。あとでよくよく考えてみれば「霜柱が融けていない」ということは、この時点の気温は既に摂氏2、3度であったようです。
 やがて「中丸」と呼ばれるちょっとしたピークを超えて、比高45mほどの丸太の階段が続く鐘掛城の登り道をハアハアと息を弾ませてよたよたしながら登攀。さて、予想通り付近には遺構らしきものを見出すことはできなかったものの、山頂には戦国時代の山城についての解説板が所在していたので少しだけ嬉しい気持ちに。このあと念のため北側と北東側のの尾根筋を下り、更に20分ほど時間をかけて探索したものの無論成果などあるはずもありませんでした。このあと再び山頂に戻って直ぐ南側の雨乞城方面へと移動。この20分がのちのち苦境に陥る原因になろうとは...。

雨乞城(埼玉県皆野町) 午後2時20分から午後2時30分まで
 鐘掛城から5分ほどで南側の小さな峠道に到着。左側の山腹の巻き道をすすめば1時間ほどで西門平へ到達するハイキングコースで、雨乞城へはそのまま正面の尾根筋を枝を掻き分けて僅か2分ほどのルート。山頂には猫の額ほどの平坦地が所在するものの勿論遺構は確認できません。「新編武蔵風土記稿」などに記されているように、それこそ雨乞いなどの祈祷が行われた場所なのかもしれませんが、阿熊川や日野沢方面を睥睨する物見台としても絶好の位置に所在しているように見受けられました。
 ただし、「埼玉の中世城館跡」に記されたおよその位置とは符合しているものの、後日「皆野町史 通史編」をよく見てみると、この場所は「見張りの場所」「遠見」という物見跡と推定しており、本来の雨乞城は更に100mほど下った直線にして500mほど南の頂を指している模様であることに気付きました。しかし、いずれにしてもその後の本格的降雪という悪天候を考えれば、更に尾根筋を南進するというような愚挙に出なかったことはそれなりに正しかったようです。(本当はくやしいけれど(^^;)

王城(埼玉県神川町-旧神泉村) 
 鐘掛城の山頂付近を皆野方面では「鐘掛城」と呼び、旧神泉村の矢納方面では「王城山」と呼んでいると「皆野町史 通史編」には記載されています。しかし、「埼玉の中世城館跡」などでは鐘掛城の北側にのびる尾根筋を「王城」と記していました。遺構はいかにもなさそうに見えますし、残された体力と時々粉雪が舞う悪天候、不明なルート、残り時間などを勘案して尾根筋をデジカメ撮影するだけにとどめるという本当に全くしょうもない手抜きの訪城となりました。
 というような事情で3ヶ所を纏めてHP掲載の運びとなった次第であります。

記念撮影




 ハイキングの季節にはまだ早すぎるせいか、人気の全くない標高1003メートルの鐘掛城の山頂は、時々北西の風にのって季節はずれの粉雪が舞っていました。。やや平坦な山頂は強引に考えれば郭跡といえなくもありませんでしたが、城跡の痕跡を求めてこのあと北側と北東側の尾根筋の探索に向かうことに。
               

画像クリックで解説板へ( 2006/03/30 撮影 曇時々粉雪 )
訪城アルバム
■1■石間峠
 40年以上前に阿熊地区の方から3時間かけて登ってきたときには、たしか東西方向から尾根筋が迫っているような狭隘の地であったような記憶がありました。現在はその後の林道の完成により随分と景観が変わっているようで、ほんとうに全く別の場所に来てしまったかのようです。
 この画像は環境庁・埼玉県が設置した「関東ふれあいの道」の案内板で、城峰山の付近には「鐘掛城、城山、城の沢、王城」などの伝承地名が存在することを記しています。
■2■王城山と両谷城
 両谷城はともかくとして王城(山)は全くの伝承地なので、鐘掛城の手前の中丸の山頂付近から遠望しただけで手抜きの訪城を終了した次第。鐘掛城の山頂から700mほど北へ延びる尾根筋を下ればよいのですが、車で近くを通過していることもあり、天候の事情や帰りのことを考えるととても...この画像のなにやら怪しげな雲行きはこのあとの天候が大崩れする前兆でありました。「秩父志」の矢納村の項に「王城迹」と、また「新編武蔵風土記稿」の矢納村の項には金澤城山と並んで「王城山 是も村の南にあり、登ること一里ばかり、この二つの山は城趾なりと云伝う、何頃の何人の居れりや、そのことは伝えず」と記されています。
■3■鐘掛城
 途中の尾根筋の中丸の登り道から眺めたもの。時々雲が途切れて眺望はよいのですが、当然遺構などは見当たらず、ひたすら気温は低く足元の地面には3センチほどの霜柱が融けずにそのままの状態...もうこれは山歩きのブログのような事態に突入してしまった(^^;
■4■中丸の山頂付近
 「中丸」という地名から一般的には城郭関連遺構の存在を連想しますが、ただ単に北側の群馬県(上野)方面の見通しがとてもよいなだらかな山頂が所在するだけです。もちろん後北条氏と武田氏の争った永禄年間には物見としての役割を担った可能性のある地形ではあると思われますが。
■5■鐘掛城の山頂の解説板 画像クリックで解説板へ
 予想通り付近には遺構らしきものを見出すことはできなかったものの、山頂にはこの戦国時代の山城についての解説板が所在していたので少しだけ嬉しい気持ちに。 このあと念のために北側と北東側のの尾根筋を下り、更に20分以上も時間をかけて探索したものの無論成果などあるはずもありませんでした。このあと再び山頂に戻って直ぐ南側の雨乞城方面へと移動したものの、この20分がのちのち苦境に陥る原因になろうとは...。
■6■鐘掛城の北側の尾根筋の様子
 左右の斜面が切れ落ちた痩せ尾根が続いているものの尾根筋に対する堀切などの形跡を見出すことはできませんでした。(北側の尾根筋分岐の辺りから鐘掛城を撮影したもの)
■7■雨乞城?
 「皆野町史 通史編」によれば、この場所は「見張りの場所」「遠見」という物見跡であるとしています。しかし、「埼玉の中世城館跡」の城館の所在地ではこの場所にマーキングされているようです。「物見跡」とはいうものの、このときは雲が分厚く垂れ込め始めていたために眼下に所在する阿熊川沿いの集落の様子などを直接見ることはできませんでした。
 なお「新編武蔵風土記稿」では、「雨乞城 登ること1里半、旱年には土人この山に登り雨を祈るという、土人雨乞城と書しは、按ずるに雨乞い場なるべし」と、城跡との関係を否定するような記述があります。
■8■「見張りの場所」「遠見」
 「皆野町史 通史編」によれば、本来の雨乞城は更に100mほど下った直線にして500mほど南の頂を指している模様です。「皆野町史 通史編」では「旗塚」から「雨乞城」までの連絡ルートを想定しているような記述がありますが、狼煙の視認そのものを別にすれば小峰山・大前山付近でで尾根筋が途切れていることもありやや疑問があるかと思われます。
 しかし、いずれにしてもその後の本格的降雪という悪天候を考えれば、更に尾根筋を南進するというような愚挙に出なかったことはそれなりに正しかったようです。(正面の山は鐘掛城の山頂)
■9■鐘掛城山頂
 西側の尾根筋から眺めた鐘掛城ま山頂付近で、この時点では大分雪雲が分厚く垂れ込めてきました。気温も間違いなく0度近くに。このときの寒さが遠因のようで、2週間後に見事に花粉症と風邪を併発したのでありました。
交通案内

・石間峠から東へ徒歩20分から25分(帰路は南側の巻き道を戻るととても早くて楽でした)、比高差50m弱
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会) 

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