|
■1■石間峠
40年以上前に阿熊地区の方から3時間かけて登ってきたときには、たしか東西方向から尾根筋が迫っているような狭隘の地であったような記憶がありました。現在はその後の林道の完成により随分と景観が変わっているようで、ほんとうに全く別の場所に来てしまったかのようです。
この画像は環境庁・埼玉県が設置した「関東ふれあいの道」の案内板で、城峰山の付近には「鐘掛城、城山、城の沢、王城」などの伝承地名が存在することを記しています。
|
|
■2■王城山と両谷城
両谷城はともかくとして 王城(山)は全くの伝承地なので、鐘掛城の手前の中丸の山頂付近から遠望しただけで手抜きの訪城を終了した次第。鐘掛城の山頂から700mほど北へ延びる尾根筋を下ればよいのですが、車で近くを通過していることもあり、天候の事情や帰りのことを考えるととても...この画像のなにやら怪しげな雲行きはこのあとの天候が大崩れする前兆でありました。 「秩父志」の矢納村の項に「王城迹」と、また 「新編武蔵風土記稿」の矢納村の項には金澤城山と並んで「王城山 是も村の南にあり、登ること一里ばかり、この二つの山は城趾なりと云伝う、何頃の何人の居れりや、そのことは伝えず」と記されています。
|
|
■3■鐘掛城
途中の尾根筋の中丸の登り道から眺めたもの。時々雲が途切れて眺望はよいのですが、当然遺構などは見当たらず、ひたすら気温は低く足元の地面には3センチほどの霜柱が融けずにそのままの状態...もうこれは山歩きのブログのような事態に突入してしまった(^^;
|
|
■4■中丸の山頂付近
「中丸」という地名から一般的には城郭関連遺構の存在を連想しますが、ただ単に北側の群馬県(上野)方面の見通しがとてもよいなだらかな山頂が所在するだけです。もちろん後北条氏と武田氏の争った永禄年間には物見としての役割を担った可能性のある地形ではあると思われますが。
|
|
■5■鐘掛城の山頂の解説板 画像クリックで解説板へ
予想通り付近には遺構らしきものを見出すことはできなかったものの、山頂にはこの戦国時代の山城についての解説板が所在していたので少しだけ嬉しい気持ちに。 このあと念のために北側と北東側のの尾根筋を下り、更に20分以上も時間をかけて探索したものの無論成果などあるはずもありませんでした。このあと再び山頂に戻って直ぐ南側の雨乞城方面へと移動したものの、この20分がのちのち苦境に陥る原因になろうとは...。
|
|
■6■鐘掛城の北側の尾根筋の様子
左右の斜面が切れ落ちた痩せ尾根が続いているものの尾根筋に対する堀切などの形跡を見出すことはできませんでした。(北側の尾根筋分岐の辺りから鐘掛城を撮影したもの)
|
|
■7■雨乞城?
「皆野町史 通史編」によれば、この場所は「見張りの場所」「遠見」という物見跡であるとしています。しかし、「埼玉の中世城館跡」の城館の所在地ではこの場所にマーキングされているようです。「物見跡」とはいうものの、このときは雲が分厚く垂れ込め始めていたために眼下に所在する阿熊川沿いの集落の様子などを直接見ることはできませんでした。
なお「新編武蔵風土記稿」では、「雨乞城 登ること1里半、旱年には土人この山に登り雨を祈るという、土人雨乞城と書しは、按ずるに雨乞い場なるべし」と、城跡との関係を否定するような記述があります。
|
|
■8■「見張りの場所」「遠見」
「皆野町史 通史編」によれば、本来の雨乞城は更に100mほど下った直線にして500mほど南の頂を指している模様です。「皆野町史 通史編」では「旗塚」から「雨乞城」までの連絡ルートを想定しているような記述がありますが、狼煙の視認そのものを別にすれば小峰山・大前山付近でで尾根筋が途切れていることもありやや疑問があるかと思われます。
しかし、いずれにしてもその後の本格的降雪という悪天候を考えれば、更に尾根筋を南進するというような愚挙に出なかったことはそれなりに正しかったようです。(正面の山は鐘掛城の山頂)
|
|
■9■鐘掛城山頂
西側の尾根筋から眺めた鐘掛城ま山頂付近で、この時点では大分雪雲が分厚く垂れ込めてきました。気温も間違いなく0度近くに。このときの寒さが遠因のようで、2週間後に見事に花粉症と風邪を併発したのでありました。
|