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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/03/30の日記 若林館 浦山城 高松城 日野城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合24
所在地
埼玉県皆野町金沢浦山
歴史と沿革

単なる伝承地か長尾景春の城趾か
 「新編武蔵風土記稿」の秩父郡矢納村の項には、南西に所在する「王城山」とともに「金澤城山 村の南にあり、登ることおよそ一里 この2つの山は城趾なりといい伝う、何頃何人の居れりや、そのことは伝えず」と記されていることなどから、一般には「伝承地」としての城趾とされています。
 これに対して宝暦年間に上野国総社村釈迦尊寺住職の釈泰亮の記した「上野國傳説雑記」巻の6によると、「秩父郡金山の城主長尾将監景仲入道昌賢」「秩父金沢金山の城主長尾左近将監嫡子左衛門尉(長尾景信)」「秩父金沢長尾左衛門尉の子息四郎右衛門(長尾景春)」「意玄(長尾景春)は扇谷を逐電し、秩父の金山へ引籠」というように、白井長尾氏とりわけ長尾景春との関わりを強調する記述があります。こうしたことと長尾氏が秩父・児玉地方との関わりの強いことなどから、「皆野町史 通史編」では長尾景春との関連を示唆しています。
 しかし、富田永世が記した「北武蔵名跡志」では、「上野國傳説雑記」を引用し長尾景春を城主としているものの、「今金澤山には、城跡と思しき地なし。日野沢にあり、金沢は日野沢日野沢の違いなるべし」と付記したうえで、日野沢村の項では「小地名竜ヶ谷と云。山は古城跡ありてその麓を根古屋という。長尾氏の住しはここにて、文明12年6月24日長尾景春入道意玄がまもるところの秩父日野要害没落とあるも、日野は日野沢にてこの所なるべし」との推定をしています。この点については「皆野町史 通史編」においても指摘しているようにかなり強引な見解で、金沢と日野沢の地名としての関連を全く欠いているものと考えられます。

確認できる遺構
土塁?、空堀?、郭?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■南北の尾根沿いに土塁を配しその東西に郭を置くという縄張りで、人工的な地形操作の跡をしめすような印象があるものの、南北の尾根筋そのものが「土塁」であり、尾根筋を直角に交差すべき堀切などが見当たらないことなどなどから城趾と確認できる材料には欠けているようです。「埼玉の中世城館跡」などの調査では伝承地として遺構そのものの存在については否定的です。これに対して「皆野町史 通史編」は城跡として遺構の存在を明言しています。
 東北東約1kmには浦山城、西方約2kmには両谷城、西南西約3kmには城峰山周辺の城郭伝承地などが所在し、これらの城郭と共に上州方面に備えた配置を形成していると考えられます。ただしそれが、長尾景春の時代のものか、約100年後の後北条氏が上杉・武田氏などに備えた永禄期頃のものかどうかは必ずしも明確ではないようです。

文化財指定
訪城年月日
2006/03/30
訪城の記録

( 2006/03/30 )
訪城するまでの長い前置き
 昨年の2005年12月に近くの浦山城を訪れたときは、この周辺の林道の状況を含む尾根筋などの地形・地理について全く把握できていませんでした。このためかなり近くまでは来てはいたものの、吹き付ける風速十数メートルの寒風、路面凍結する林道、久しく目にしていなかった山の深さにややたじろぐこととなりました。従って、この時点では本格的な山城が未経験であったことや、その遺構の存在が微妙なものであるとの情報などから訪城を先延ばしにしていたという経緯が。その後、ルートが明確でないものも含む十数か所ほどの秩父地方の山城めぐりを経験し、次第になんとか若いときの山歩きの感覚を取り戻すことに成功。また同時にせいぜい往復3時間、比高差250mくらいまでという自己の体力の限界なども確認。そして今回周辺の林道の道路事情などを十分に収集し、「風早峠」までは降雪時でない限り自動車の通行が可能なことなどを確認した上で今回訪城と運びとなった次第。

予想外に気楽なルートで
 さて、愛車のミニ四駆にて若林館から浦山城へと向かった林道を見馴川沿いに西上し、途中で浦山城への道を左手へ分岐。そのあとは「皆野町」と「かみかわ町」の界に所在する標高600m程度の尾根筋に向かい林道をぐんぐんと登っていきます。林道の途中からは西側から浦山城の様子を眺望。そして正面にはやがて標高715mほどの金沢城山の姿がが大きく聳えたちます。一応理論的には浦山城の訪城後に南西の尾根伝いに1km、比高差220mの道なき道を進めば到達できる可能性があります。しかし徒に体力を消耗し、尾根筋の眺望がなくかつ道に迷うなどのリスクを考慮すれば、明らかに林道を標高680mの風早峠まで車で登ってから、徒歩にて尾根筋を北上するのが遥かに安全な近道なのでありました。
 さて、多分ここが風早峠と思われる峠のような個所の脇に車を停めて、そこそこの眺望のある予想外に明瞭な尾根筋の道を400mほど北進。比高差は計算上では僅か40m前後で山頂方向の見通しもよく、やや不安のあった途中の尾根筋の分岐も問題なく判別できました。肝心の遺構は土塁といえば土塁のような、郭跡といえばそのようにも見えるというような光景が3000uほどの比較的平坦な山頂付近に広がっていました。研究者によって見解は分かれているようで遺構は存在しないと指摘する向きもあるようですが、人工的な区画形質の変更が全く見られないと云う訳でもなく本当に判断に苦しむ所です。

記念撮影

 北側の林道方向から眺めた金沢城山(画像の右側のピーク)で、このまま林道は左側のピークを迂回して風早峠まで進みます。昨年の2005年12月に浦山城を訪れたときは、どう間違ってもあの鬱蒼とした杉木立に囲まれた見通しの悪い尾根筋を這い上がっていくことは無謀なように思われました。もちろん今回も安全かつ楽なルートを選択。
 なお、左側(東側)の山は浅間山で、「皆野町史 通史編」ではこの間の谷(現在の蛯の平別荘地のあたり)を大手口としています。

( 2006/03/30 撮影 曇り )
訪城アルバム
■1■木立の合間から
 途中の林道からは浦山城(左側)の背後に大きな壁のようにして金沢城山が聳え立ちます。林道下の谷の深さは比高差で200mほどありますので、その標高の割には山自体がとても深く感じられます。
■2■金沢城山を迂回する林道
 一応理論的には浦山城(写真左端)の訪城後に南西の尾根伝いに1km、比高差にして220mの道なき道を進めば到達できた可能性があります。しかしどう考えても、徒に体力を消耗し、尾根筋の眺望がなくかつ道に迷うなどのリスクを考慮すれば、明らかに林道を標高680mの風早峠まで車で登ってから、徒歩にて尾根筋を北上するのが遥かに安全な近道なのでありました。 
■3■風早峠
 周辺の地形や林道のカーブの状況などから判断してこの場所が金沢城山への尾根筋を分ける風早峠であると確信。しかし、なにもそんな難しい判断をしなくとも、帰り際に幾つか設置されている案内板を良く良く見れば、この現在地が風早峠である旨が案内図の中に「小さく」記されていました。視力のせいか近年こういう事例が増えてきました。
■4■予想外に眺望のある尾根筋
 金沢城山までは風早峠から北へ僅か400mほどのミニハイキングです。北東側の浦山城方向から眺めた限りでは、ほとんど眺望のない難路を想定していたためにやや拍子抜けが。途中西側の集落への里道を分岐したあとに、この稜線との分岐がありますのでここは左側(西側)のピークへのルートを進みます。
 なお、右側の道を進むと20年ほど以前に開発されたと思われる20戸ほどの「蛯の平別荘地」の南側のピークへ到達するはずです。
■5■土塁跡?
 東側下方の三の郭辺りから西側の土塁付近を眺めた画像ですが、確かに見方によっては土塁のように見えなくもありませんがいまひとつ城跡らしさを感じることができません。
■6■土塁跡?
 二ヶ所存在するとされる櫓台の内、北側の櫓台とされるあたりから稜線上を南側に30mほど続いている写真「5」の「土塁」を撮影したものですが、確かによく注意して歩かないと一見自然地形のようにも見えてしまいます。なお、「皆野町史 通史編」では、両側の部分を削り取り土居としたと記されています。
■7■一の郭
 「6」の画像の東側に所在する「一の郭」とされる平坦地ですが、こちらのほうも何とも判断のしようがありませんでした。
■8■二の郭、三の郭
 「皆野町史 通史編」によれば、どうやら手前が「二の郭」で、奥の方が「三の郭」ということですが、両脇に所在するという空堀の有無も含めて極めて分かりにくく遺構かどうかの判断に苦しむ所です。仮に小屋掛けするとしたならば「三の郭」付近の平坦地が適当な場所であると考えられますが、さほど広い場所ではないので数十名が起居できるかどうかという印象です。なお、水の手はこの東側の谷部分が想定されます。
■9■南側から眺めた金沢城山の山頂付近
 行きに上っているときは、一体何処に「遺構」があるのか全く見当がつきませんでした。なお、「皆野町史 通史編」に掲載されている「金沢城山略図」の方位は、なぜか本来の「東」を「北」と表示しているらしく現地にて更に混乱するに至りました。
■10■風早峠近くから眺めた金沢城山
 風早峠から眺めるとやや遠くに見えるのですが、歩き始めると意外と近い距離に所在しているので少し急げば僅か15分ほどで到達してしまう距離です。
 直ぐ南方に所在する城峰山には、下久保ダム建設中の40年ほど以前に南側の旧吉田町の阿熊地区から登った経験が。その当時はもちろん現在のように林道などは存在せず、阿熊のバス停から徒歩で延々4時間近くかけて城峰山頂へと到達。当時のこのあたりの山は果てしなく深く、麓の集落までは徒歩で半日という行程。その当時の印象がやたらに強く残っているので、全く別の地域に来たような印象でした。
交通案内

・風早峠からの比高差約40m、標高712.6m、往復所要時間は30分でルートは比較的明確。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会) 

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