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■1■木立の合間から
途中の林道からは浦山城(左側)の背後に大きな壁のようにして金沢城山が聳え立ちます。林道下の谷の深さは比高差で200mほどありますので、その標高の割には山自体がとても深く感じられます。
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■2■金沢城山を迂回する林道
一応理論的には浦山城(写真左端)の訪城後に南西の尾根伝いに1km、比高差にして220mの道なき道を進めば到達できた可能性があります。しかしどう考えても、徒に体力を消耗し、尾根筋の眺望がなくかつ道に迷うなどのリスクを考慮すれば、明らかに林道を標高680mの風早峠まで車で登ってから、徒歩にて尾根筋を北上するのが遥かに安全な近道なのでありました。
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■3■風早峠
周辺の地形や林道のカーブの状況などから判断してこの場所が金沢城山への尾根筋を分ける風早峠であると確信。しかし、なにもそんな難しい判断をしなくとも、帰り際に幾つか設置されている案内板を良く良く見れば、この現在地が風早峠である旨が案内図の中に「小さく」記されていました。視力のせいか近年こういう事例が増えてきました。
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■4■予想外に眺望のある尾根筋
金沢城山までは風早峠から北へ僅か400mほどのミニハイキングです。北東側の浦山城方向から眺めた限りでは、ほとんど眺望のない難路を想定していたためにやや拍子抜けが。途中西側の集落への里道を分岐したあとに、この稜線との分岐がありますのでここは左側(西側)のピークへのルートを進みます。
なお、右側の道を進むと20年ほど以前に開発されたと思われる20戸ほどの「蛯の平別荘地」の南側のピークへ到達するはずです。
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■5■土塁跡?
東側下方の三の郭辺りから西側の土塁付近を眺めた画像ですが、確かに見方によっては土塁のように見えなくもありませんがいまひとつ城跡らしさを感じることができません。
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■6■土塁跡?
二ヶ所存在するとされる櫓台の内、北側の櫓台とされるあたりから稜線上を南側に30mほど続いている写真「5」の「土塁」を撮影したものですが、確かによく注意して歩かないと一見自然地形のようにも見えてしまいます。なお、「皆野町史 通史編」では、両側の部分を削り取り土居としたと記されています。
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■7■一の郭
「6」の画像の東側に所在する「一の郭」とされる平坦地ですが、こちらのほうも何とも判断のしようがありませんでした。
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■8■二の郭、三の郭
「皆野町史 通史編」によれば、どうやら手前が「二の郭」で、奥の方が「三の郭」ということですが、両脇に所在するという空堀の有無も含めて極めて分かりにくく遺構かどうかの判断に苦しむ所です。仮に小屋掛けするとしたならば「三の郭」付近の平坦地が適当な場所であると考えられますが、さほど広い場所ではないので数十名が起居できるかどうかという印象です。なお、水の手はこの東側の谷部分が想定されます。
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■9■南側から眺めた金沢城山の山頂付近
行きに上っているときは、一体何処に「遺構」があるのか全く見当がつきませんでした。なお、「皆野町史 通史編」に掲載されている「金沢城山略図」の方位は、なぜか本来の「東」を「北」と表示しているらしく現地にて更に混乱するに至りました。
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■10■風早峠近くから眺めた金沢城山
風早峠から眺めるとやや遠くに見えるのですが、歩き始めると意外と近い距離に所在しているので少し急げば僅か15分ほどで到達してしまう距離です。
直ぐ南方に所在する城峰山には、下久保ダム建設中の40年ほど以前に南側の旧吉田町の阿熊地区から登った経験が。その当時はもちろん現在のように林道などは存在せず、阿熊のバス停から徒歩で延々4時間近くかけて城峰山頂へと到達。当時のこのあたりの山は果てしなく深く、麓の集落までは徒歩で半日という行程。その当時の印象がやたらに強く残っているので、全く別の地域に来たような印象でした。
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