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城館跡の名称
関連ページのリンク  2005/12/19の日記 仲山城
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態8 探し易さ4 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯2 印象3 総合28
所在地
埼玉県秩父郡皆野町大字金沢字浦山
歴史と沿革

 後北条氏時代の物見台か
 「皆野町史」では児玉党の武士の在郷であるとし、天神山城(長瀞町)、金沢城山(皆野町)とのかかわりを前提に後北条氏の時代の補助的なつなぎの城と推定しています。また「同史」によれば、城跡に近い場所には児玉党の系譜を引くとされる四方田姓の民家が今も所在し、近くの墓地には板碑、五輪塔、宝篋印塔が複数所在しているとのことです。本郭の南側の腰郭部分に鐘を吊るした櫓が置かれていたという伝承があり、このことから鐘掛城とも呼ぶとされますが、地元の通称は「せんげん山」と呼んでいるようです。
 皆野町金沢には秩父衆のひとりである四方田雅楽之助が馬上1騎(通常は本人)、弓1人の軍役を負担する在地領主として居住していました。これらのことから四方田氏などの土豪が、後北条氏の家臣としてこの浦山城を使用していたという可能性があるものと考えられますが、もちろん推測の域を超えるものではなく詳細は全く不明です。
 なおこの城跡と関連すると推定される数少ないの史料のひとつとして、秩父郡内の町村地誌である「秩父志」(大野満穂/編著)が存在しますが、そこには「浦山砦 浦山村、朝見氏、武光氏」とだけ記されているに過ぎません。従って、その前後関係などからいろいろ推定しても表記の「浦山村」が郡南部荒川沿いの浦山村を指すのか、金沢村字浦山を指すのかという点についてはその記述からだけでは判断できないように思われます。 

確認できる遺構
本郭、堀切
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■標高540メートルほどの山頂からの東側の眺望は幾分開けていますが、それ以外の方向はより標高の高い城峰山からの尾根筋に阻まれているため殆ど眺望はありません。それでも、東側の谷沿いの道を監視する物見台としての役割は十分に果たせそうです。本郭部分は十数人も上がると手狭となるような規模ですので、いざというときの村の城としての可能性を含めた物見台としての役割が相応しそうです。なお、この城跡の字名は「上土」(あげつち)と呼ばれており、また北側の斜面部分は城日影と呼ばれているとのことで城郭との関連が地名として残されています。

参考資料

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会)
「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収 、
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)  

文化財指定
訪城年月日
2005/12/19
訪城の記録

( 2005/12/19 )
山城は一日あたり2か所まで
 この浦山城は標高500m付近まで車で上がることができるため、午前中に訪城した長瀞町仲山城に比べれば体力的には殆ど消耗せずかなり楽な山城。城跡への登口はここでもカタクリの自生地となっていて小さな峠となっている部分から林道の右側(北側)の小さな尾根に向って登っていきます。ところが、稜線に出た途端に南側の穏やかな陽気と比べて環境が一変し、風速10メートル以上の北風が城峰山の稜線越しに容赦なくこちらに向って吹き付けて来ました。折からの大寒波襲来により、何時もならば撮影メモ記入しながらの探索となるべき所が、指先が悴んで全くいうことを利かず、デジカメのシャッターを押すのが精一杯の状態に。
 主郭の東西の細長い尾根を夫々南北に掘りきっただけの実に小規模で簡単な山城ですが、高さにして3m以上は掘り下げられている堀切は割合しっかりと遺されていて、木の枝などの掴まるものも無いことから上り下りにやや苦労を。尤も車を停めた場所からの比高差はせいぜい40mもあるかどうか。探索時間含めても往復にして30分以内の道程ですので、仲山城の時に比べたら拍子抜けするほどに実に楽な訪城かと。
 なお、本日の防寒対策としてセーター・フリースのベスト・作業用の防寒着を含む5枚重ねといういでたちに加え、トレッキング用の靴の先には足ポカカイロ防寒着のポケットにもホッカイロという装備ではありましたが、顔面を突き刺すような寒風はあくまでも強烈。いずれにしても山城めぐりの季節の到来ですが、自分の体力と日没の速さを考慮すると1日あたり精々2か所ぐらいまでという結論に達した訪城でした。

記念撮影

 どちらかといえば無名に近い城跡の堀切は意外なほど明確に残されていて嬉しさと軽い驚きを覚えました。それにしても稜線に出た途端に肌を突き刺すように詰めたい北風がまともに吹きつけてくるのには一定の防寒準備をしているとはいうもののほとほと弱りました。
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( 2005/12/19 撮影 晴れ 大寒波襲来、風強し )
訪城アルバム
■1■登口となる峠部分
 浦山の集落を過ぎて林道を大きく西側にカーブするとこの場所に到達します。林道の左手から延びる尾根筋の小さな峠部分となっている地形です。写真には写っていない新しい公衆トイレが林道の左側にありますが、冬季は使用禁止となっているようです。なお、この場所には公衆トイレの脇に3台分ぐらいの駐車スペースがあり、この先は600mほど進むと行き止まりとなっています。
■2■この目立たない登口から比高差15mほどの尾根筋を目指します。また、比高差はおよそ40メートルほどしかないので高所にある割にはとても楽な訪城です。比高差がそれほどないので、集落の裏側から枝に掴まりながら南斜面を這い上がることも可能ですが、そんなことをしなくてもこちらから登るととても楽です。
■3■カタクリの自生地を示すトラロープを潜り抜けて、細長い痩せ尾根を慎重に東へと進んでいきます。左手の北側は切り立った斜面となっているので要注意ですが、潅木が多く生えているので比較的安心して歩けます。
 公衆トイレの場所から所要時間約10分、約300mほどで山頂の本郭部分に到着します。
■4■堀切にしては...
 始めはこれが東側の堀切部分かと思ったのですが、おそらく自然地形としての鞍部かも知れません。
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■5■西側の堀切部分画像クリックで拡大
 記念撮影の写真と同じ堀切を本郭寄りから撮影して見たものです。本郭側の高さは約3.5mほどで、西側の高さは1.5mほどでしたが細長い痩せ尾根なので防御施設としては十分役立ちそうでした。
■6■山頂の本郭
 北風を遮るものがなく本当に凍えるほどの寒さ。どら焼きを横から見たような細長い形をした場所で土塁などはなさそうでした。100u以上の広さはあるとは思いますが、仮に土塁を普請したとしてもこの立地条件では直ぐに風雨で流失する可能性が強く、第一南北方向は最大幅でも6mほどしかありませんので設置する余裕もありません。開山明寿、産泰大明神、御岳大権現などの石碑と天神社の祠が祀られているとのことですが、余りの寒さと強風のため5分と滞在できないような気象条件でした。
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■7■東側の堀切部分画像クリックで拡大
 西側のものと同様に本郭側は4m近い高さがあり、写真のとおり急勾配なので上り下りが少し面倒でした。
■8■東側の堀切部分
 東側の堀切の東側を本郭側から撮影したもので、尾根筋の踏み跡は先の方まで続いていました。
■9■本郭への登り道
 右手の奥の方に20平方メートル程度の細長い腰郭ヶ存在すると「皆野町史」には記されていましたが、はっきりとしたそれらしい地形を確認することができませんでした。ただし尾根筋の北側と比べて南側は斜面の傾斜が30度くらいと幾分緩くなっているので、そうした備えが必要とされると考えられますが。
■10■西側の林道から
 直線距離で300mほど離れた行き止まりの林道から浦山城を撮影。三角形のピークが本郭部分に相当するはずです。
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■11■南側の浦山集落から見た浦山城画像クリックで拡大
 ご覧のように尾根筋の南側は余り風も強くなくも師走とはいえ暖かな冬の日差しが照り注いでいました。道路はほんの一部ですが部分的に凍結している個所もあり、降雪の直後は集落の舗装された道路でも部分的にかなり勾配がきついので無理な走行は危険のようです。浦山の集落は出牛峠の西側の金沢の集落から西へ3キロ以上入った標高500mほどの山間の集落です。
交通案内

・出牛峠から西へ町道を進み途中山砂利の採掘場を過ぎ、城峰山へ向う林道を分岐して浦山の集落へ入り一番上に所在する人家の北側に見える尾根の肩が目指す浦山城。公衆WCの個所から最短コースで徒歩10分、比高差40m弱。
いつもガイド の案内図です 地図 

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