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 道祖土氏館
 伊奈備前守陣屋 太田道灌陣屋 美尾谷十郎廣徳館 小美野氏館
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ3 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合22
所在地
埼玉県比企郡川島町上伊草堀ノ内
歴史と沿革

井草郷の土豪・名主である牛村氏の屋敷
 「武州文書」などによれば戦国時代の天正年間には上伊草を含む井草郷は岩付太田氏の奉行であった細谷資満の所領であったことが窺がえます。細谷氏は「姓氏家系大辞典」によれば、代々三河守を称して春日氏・川合氏と共に岩付城城主太田氏房の三家老とも称されたようです。
 「川島町史 資料編 古代・中世」の武州文書の解説によれば、天正8年(1580)の「細谷資満判物写」、天正10年(1582)閏12月の「恒岡資宗(岩付太田氏の庶流)・佐枝信宗連署状写」などに登場する井草郷の土豪・名主と推定される牛村助十郎の屋敷が上伊草に所在する「通称堀ノ内」に相当するものと考えられています。また同書によれば、牛村氏は井草郷の小代官的存在であったと推定され、現在の牛村家当主はその助十郎から数えて21代目とされているようです。
 なおこれらの「武州文書」から、天正15年(1587)6月以降は細谷氏から伊達与兵衛房実(岩付城の城代斯格として秀吉軍と戦い、後に徳川家の旗本として取り立てられる)の所領に変わっていることも判明しています。
 また牛村氏についての領主的な性格は、直接岩付太田氏から所領を安堵されていたり軍役に関する記録が残る道祖土氏などの土豪階層よりも、更に在地性の強い有力農民階層に近い存在であったのかもしれません。

細谷氏の在地支配の居館の可能性も
 なお、天正10年(1582)3月と推定される「恒岡資宗・佐枝信宗連署状写」(「武州文書」)によれば、岩付城主太田氏房の家臣である恒岡・佐枝の両氏は連盟で井草郷の牛村助十郎に、細谷三河守知行屋敷を井草郷名主屋敷として井藤半左衛門と折半して所持することを認め益々耕作に励むように命じています。
 こうしかことから考えると以前においては、岩付太田氏の重臣であった細谷氏(或いはその代官)の居館であった可能性も考えられます。

確認できる遺構
堀跡?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

堀ノ内の範囲が不明
 越辺側の左岸地域で県道76号線の両側は元々規模の大きな用水路が存在する地域。現在でも大きく蛇行を繰り返す越辺川は、近代に入り治水対策が完備する以前には、大雨が降ると少なからず洪水が発生するといわれた水量の多い暴れ川であったという経緯があります。その後の治水対策や耕地整理により農業用水、排水路などが整備されていった模様で、東西南北方向に規模の大きな用水路が現存する一角に所在しています。東西方向で約200m、南北方向で約100mから150mほどの規模を有するようですが、北限が手前の細い用水路までなのか、或いはその北側約50mに所在する公道までなのか判断に迷いました。
 なお、「川島町史 資料編 古代・中世」の586頁に掲載されている公図の写しでは、一辺が約80mの四角形で東側は水路、他の三方は細長い分筆された土地で堀跡であることが推定されています。

文化財指定
訪城年月日
2006/09/04、10/13
訪城の記録 記念撮影

( 2006/09/04)
てっきり、この辺りかと...
 越辺側の左岸地域で県道76号線の両側は元々規模の大きな用水路が存在する地域。
目当ての埼玉県信用金庫側の東側に所在する住宅の道路沿いにも用水路があちこちに。
このために目移りのしっぱなしで、「堀ノ内」の地名の語源となったと推定される堀跡の末裔となる用水路は、はてさて何処の辺りにおいでになるのやら全く見当もつかず。ほとんどの地域が水田上の低地に宅地造成されているらしく館跡としての痕跡を辿ること自体がきわめて難しい状況。
 その中で自然堤防上の微高地と推定される、現在は無住の西福寺の墓地周辺が、唯一最もそれらしい雰囲気が残されているような印象が。辺りの墓石を拝見すると「F氏」という姓がかなり目立ちましたので、この一帯の有力者階層に繋がる一族であったのかも知れません。もっとも「堀ノ内」という地名が残るというだけで、その伝承・由来などについては全く不明なあくまでも多分に希望的城館跡推定地なのでありました。

( 2006/09/04)
例によって、また間違えました
 前回は事前調査不足のため、上記のようにその推定所在地を本来の堀ノ内から南側約150m地点付近あたりであると完全に誤解。「川島町の地名」(1999/川島町)の井草地区の小字名の掲載された地図によれば前記の場所を示しているとしか判断できない...などと無意味な責任転嫁を。その後、川島町関係の資料のページを捲っていると、その明らかな誤りに気づき再訪することになったという次第なのでありました。
 本来の「堀ノ内」には、確かに旧家の趣を伝える長方形の屋敷の地形がそのまま残された1画が現存。この場所は現在国道254バイパス沿いに建設途上の大型ショッピングセンターの丁度後ろ側となる位置に所在しているこも判明。東西方向で約200m、南北方向で約100mから150mほどの規模。東側の幅2間、深さ1mの用水路はその位置から堀跡の様相。南側の用水路はコンクリートの蓋で暗渠となっているものの、こちらも同様に堀跡の可能性が。
 北側と西側には堀跡の形跡を辿ることのできるような要素があまり見られず、わずかに西側の南端部分の低地にその名残が。また、北側の道路から50mほど南側に幅1mほどのコンクリート製の用水路が現存するも堀跡との関係は不明。
 前回訪れたときに水流のきれいな個所には鯉が放流され元気に遊泳。しかし館跡の東側の堀跡は透明度50センチほどのかなり濁った水質であるにも拘わらず、体調40センチから50センチの鯉が数匹ほど悠々と遊泳中。そういえば牛舎からの排水とその臭気が気になる深谷市の某城館跡の澱んだ水路でも更に大型の鯉が多数で大層元気に跳ね回っていたことが脳裏に浮上したのでありました。

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「堀ノ内」の西側に隣接した部分
松の木の下には小祠が造立されている模様です。
( 2006/10/13 撮影 )
訪城アルバム
■1■南東の角
 堀ノ内の南東角部分に相当する個所です。手前のコスモスの生育する用水路は堀ノ内とは直接の関係はなさそうですが、無味乾燥な情景そのものよりは、彩りを添えたほうが味わいもあるなどと考えております。南側にも用水路が流れていますがコンクリートの蓋に覆われた暗渠となっていました。
■2北側の堀跡?に相当するかもしれない公道
 写真左側の平屋建ての地元の集会所に不動明王(推定)を祀る堂宇が併設。この堀ノ内の位置から見るとまさに北東方向の鬼門に当たりますので、本来は何らかの関連が存在していたのではないかなどと思いたくなるのであります。
 しかも阿弥陀如来像(推定)も併置されている模様で、何故か鰐口ではなく鈴が懸吊。神仏混淆のなせる業とは思いつつもも、浄財を投じたのちに「拍手か瞑目合掌か」という参拝の作法に戸惑いが...(笑)
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■3■東側の堀跡? 画像クリックで拡大
 右側の水を湛えた用水路部分と、その少し左側の溝状の窪地の関係がいまひとつ判断に苦しむのでありました。二重堀などと考えるのは明らかに早計であることだけは間違いなさそうなのですが..尤も形体だけ見れば確かに二重の水路なのでありました。しかし館跡東側のこの水路は、透明度50センチほどの濁った水質であるにも拘わらず、体調40センチから50センチの鯉が悠々と遊泳中。
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■4■北側の内堀か、或いは後世の用水路か 画像クリックで東側へ
 堀ノ内の北限がこの用水路までだとすれば南北の長さは約100mほどということになりますが、資料不足のためなんとも判断が付きかねました。「川島町史 資料編 古代・中世」に従えば、この水路付近が北側の堀跡に相当することとなるのでしょうか。
 なお、反対側の東側画像の盛り土は水田からの転作、或いは畑の水損を防ぐために嵩上げされたものと思われます。
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■5■テッポウユリ 画像クリックで拡大
 この時期にありふれたものですが細長い漏斗状の花弁の形体からこの名が付いたようです。こまめに手入れをされているというよりも、どちらかといえば水路沿いの僅かな地面に半ば頑健に自生しているといった按配でした。強烈な香りがするとのことですが嗅覚細胞が麻痺している自分には全く分かりませんでした。
 ユリ科リリウム属の多年草の球根植物で、花期は8月から10月上旬。
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■6■コスモス 画像クリックで拡大
 用水路沿いに咲いていた普通のコスモスですが、個人的にはこうした淡い紫のグラデュエーションのかかった品種が好みではあります。
キク科コスモス属のメキシコ原産の一年草ですが、性質は頑健でこぼれた種子から群生することもしばしば。
 可憐さと見かけによらぬ頑健さを併せ持つその性質は見習うべき存在です。
■7■西福寺墓地
 六地蔵と小さな堂宇のほかには墓地のみが所在している無住の寺院。、微高地を形成していることから、当初においてはてっきりこの場所が堀ノ内の中心部分に相当するものと誤解していました。
 実際にはこの場所から150mほど北側の旧家の辺りが本来の「堀ノ内」ということなのでありました。( 2006/09/04 撮影 )
■8■整備された用水路
 綺麗に整備された用水路にはたくさんの大きな鯉が悠々と泳いでいましたが、この場所は本来の「堀ノ内」の堀跡と直接の関連はありませんでした。( 2006/09/04 撮影 )
交通案内

・国道254バイパス沿いに建設中の大型ショッピングセンターの西側に所在。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 比企郡上伊草村の項には合計23点もの井草郷に関する戦国時代後期の古文書(「武州文書」)が収録されていますが、この上井草の「堀ノ内」自体に関する記述を確認することはできません。
■武蔵志
 「新編武蔵風土記稿」と同様に、井草村についての略述と2点の古文書が収録されていますが、「堀ノ内」に関する記述はありませんが、ともに在地土豪・名主階層の屋敷ということで捉えて敢えて記述を省略した可能性も想定されます。

凸主な参考資料
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「川島町の地名」(1999/川島町)・「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)
「川島郷土史」(1956/川島郷土研究会)・「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)
「川島郷土誌 編集復刻版」(2001/川島町)・「川島町の板碑」(1999/川島町) 

・2006/10/24 HPアップ
・2006/10/25 歴史的経緯部分の記述を訂正追加

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