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関連ページへのリンク  2006/08/28のブログ 太田道灌陣屋 美尾屋十郎廣徳館 道祖土氏館 伊奈備前守陣屋
おすすめ評価
訪城季節3 遺構状態3 探し易さ5 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象3 総合25
所在地
埼玉県比企郡川島町小見野158付近
歴史と沿革

三尾谷十郎らとともに頼朝の上洛に随行した児玉党浅羽氏の庶流
 小見野氏についての記録は、「吾妻鏡」の建久元年(1190)の源頼朝の上洛に際して、近在の三尾谷十郎や同族の浅羽氏などの武蔵武士と共に付き従い、三列縦隊の後陣31番の随兵として小見野四郎盛行の名が見える程度であり、その事跡についてはあまり明確ではないようです。
 「新編武蔵風土記稿」では上小見野村の項において、武蔵七党児玉党浅羽氏の庶流ではないかと推定しています。この点について、「児玉党系図」では浅羽氏、粟生田氏と共に入西資行の孫の一人として小見野四郎盛行の名が記され、その三代後までの系譜が記されています。この系図をそのまま信頼するとすれば、少なくとも13世紀の末頃までは存続していたことと推定されますが、事跡などの記述も記されていないことからあまり明確な存在であるとは言い難いものがあります。
 なお、下小見野村の項では、特段の記述はありませんが、館跡に所在する法鈴寺は寛政4年(1792)に開山である曇秀が死去しているとされていることから、寺院としての歴史は少なくとも近世中期以降のものということになります。従って寺の普請に際して、ある程度地形が変わっている可能性も少なくないものと想定されます。( ⇒「曇秀はあくまでも中興開山であり、開山は15世紀初めと伝わる」とのご教示をいただきました )

確認できる遺構
土塁?、堀跡?
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

周囲は用水路だらけで
 周囲を用水路で囲まれた市野川が大きく蛇行する右岸の自然堤防の微高地が館跡と推定されており、現在では真言宗の明光山法鈴寺が所在しています。周辺にはさらに後世のものと思われる用水路が張り巡らされているために、館跡の範囲を想定するのに難渋します。

文化財指定
訪城年月日
2006/08/28
訪城の記録 記念撮影

( 2006/08/28 )
たぶんこの場所で間違いないとは思うのですが
 現在館跡と推定される場所には真言宗の明光山法鈴寺が所在しています。「埼玉の中世城館跡」や「「中世北武蔵の城」」では、その所在地について「小見野1285 法錦寺」と記されていますが実際には「小見野158」付近で「法鈴寺」が正しい模様です。(「新編武蔵風土記稿」「川島郷土誌」等より)現在寺院は無住の様子で東側の竹林もすっかり伐採されておりました。
 遺構らしい存在は強いていえば周辺の用水路と北側の竹林あたりかと思われます。 かつての竹林との間の溝は多分張出してくる竹の根切りと境内の雨水排水のためのもののようにも思われます。北側には造成の盛り土が施されているために、地形が大分改変されている印象でした。
 さて、水のが枯れかかった池の底をじっと観察していると、保護色で見分けがつきにくいものの数匹のトノサマガエルが棲息しているのを発見。 ここでも暫し蛙たちの様子を観察しつつデジカメ撮影を敢行。
 この日の訪城は心ゆくまで晩夏の草花を撮影し、久しぶりに蛙たちの生態をじっくりと観察し、果たして一体何をしにいったのか分からないような城跡めぐりなのでありました。
※現在同寺の本堂は新しく建て替えられた旨のご教示をいただきました。

伐採と整地が進行中の法鈴寺境内
( 2006/08/28 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで更に手前の用水路の画像へ
■1■南側の用水路 画像クリックで更に南側の用水路の画像へ
 この用水路が中世当時からのものだとすると館跡のかたちが不整形の多角形となることから、どの辺りまでが館跡の範囲であったのか疑問が深まるのでありました。リンクしている画像の部分までが館跡だとすれば、とりあえずは長方形に近い形状にはなるのですが。
■2■南側からの館跡遠景
 境内の北側の樹木などが伐採されているため余り寺院らしい光景ではなくなりつつありますが、このクスノキ?のような大木の存在が歴史の古さを物語っているという印象があります。
■3■境内の板碑
 歴史の古い寺院であることを示す板碑と墓石。形態などの特徴からみて、おそらく14世紀頃のものと推定されますが、「川島町の板碑」の報告書でも紀年銘の個所が判読されてはいません。またこの板碑自体もこの場所から出土したものか、他の場所から移動したものかについても必ずしも明確ではないようです。( ⇒古い墓石と板碑につきましては、「平成5年の墓地改修時に一か所にまとめられた」とのご教示をいただきました )
画像クリック池周辺の画像へ
■4■本堂と池 画像クリックで築山状の地形の拡大画像へ
 干上がりかけて僅かに水が残る庭園の池の一部にトノサマガエルが元気に棲息中でありました。
 この池の手前の築山風の盛り土が、かつての土塁跡と関係してるかどうかどちらとも判断しがたい微妙な光景でしたが、冷静に判断すれば寺院の庭園に伴うものと見るのが妥当と思われます。
■5■北東側の用水路
 以前は水田であったと考えられる境内の東側を流れている用水路ですが、あちこちに同様の用水路が張り巡らされているので、堀跡とも後世に開削された用水路とも判断が難しいところです。
■6■ 北西側の用水路
 現状では悪水路に近い排水路ですが、何処となく水路の曲折の形状が堀跡を名残を偲ばせる趣がありました。また、正面の竹林の中に堀跡のような溝が確認できますが確証は持てませんでした。
画像クリックで北側からの画像に拡大します
■7■土塁のような形跡も 画像クリックで反対側の画像に
 伐採や整地がたいぶ進行していたので、元の地形が把握しづらくなっているのが実情です。土塁跡のように見える地形もあるような無いような印象でした。「6」の竹林を南東側から撮影したものです。
■8■ガマ
 館跡の南側の用水路の端に生育していた「ガマ」の果穂。上の細い部分が雄で下の太い褐色の部分が雌とのこと。同種の「ヒメガマ」「コガマ」に比べると果穂の部分が太くかつ長いのが特徴。
 「因幡の白兎」で登場する傷薬はこの穂黄と呼ばれる花粉だそうで、「鰻の蒲焼」の名称も昔は裂かずに串刺しにしたことからそのように呼ばれたとのこと。ガマ科ガマ属の池沼に生育する多年草。
交通案内

真言宗の明光山法鈴寺境内を中心とする周辺一帯。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述状況
■新編武蔵風土記稿
 館跡と推定される「下小見野村」の記述では館跡に所在する法鈴寺に関する記述以外に関連するものは見当たりません。しかし、「上小見野村」の項では「正保の頃は小見野村は上下の別が無く、谷中・梅ノ木・虫塚などの10ヶ村で小見野郷と呼ばれていた」と記されています。しかし、小見野氏の勢力がそのままこの小見野郷一帯に及んでいたかどうかについては確かめる由も無いようです。
■武蔵志
 「小美濃村」(小見野村)についての概略が記されているだけです。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)・「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)・「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)・「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)・「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)・「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)・「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「川島町の地名」(1999/川島町)・「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)
「川島郷土史」(1956/川島郷土研究会)・「伊奈町史 通史編T原始・古代・中世・近世」(2003/伊奈町)
「川島郷土誌 編集復刻版」(2001/川島町)・「川島町の板碑」(1999/川島町) 

・2006/10/16 HPアップ
・2008/08/15 ご教示いただいた情報を基に記述を一部訂正

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