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アクセスありがとうございます。 学術的な城館遺構ではなく主に「素人の思い込みと勘違い」によるものです。
関連ページへのリンク  2006/12/01のブログ 水房館 羽尾愛宕山 杉山城 谷津城
所在地
埼玉県比企郡嵐山町太郎丸、滑川町水房
遺構まがいの地形
平場?だったら嬉しい!
城館遺構の可能性
なし
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

市野川北岸の無名の独立丘陵
 市野川北岸に所在する無名の独立丘陵ですが、周囲との比高差は30mから40mという高さを有し、山頂部分の平場状の地形は自然地形との区別が難しいところですが意外に面積が広く要害地形の条件としては申し分ありません。 しかし、残念なことに中世城館としての砦、物見などの伝承などは全く残されてはいない模様です。
 なお、所在地を示す「太郎丸」(新田開発の名主か)という名称は当時における旧村名をそのまま転用しています。

奥州探題畠山氏との関わり(2008/09/30追記)
 なお「二本松市史 通史編(1巻)」(1999/福島県二本松市編纂)によりますと、関東公方足利持氏御教書から15世紀初めの応永22年(1415)に奥州探題である畠山修理大夫(満泰か)が太郎丸城において合戦を行った旨を紹介しています。同書では当該太郎丸城の所在地および合戦の状況は不明であるとしながらも、畠山修理大夫が鎌倉の居館に在住していたことなどから、あくまでも可能性の一つとしてこの武蔵太郎丸村の地を挙げています。
 しかし、当サイトで紹介しているこの城館まがいの地形は、どう見ても大軍で押し寄せるような広大なものではなく、独立丘陵の形態を成しているものの僅か幅100m、長さ200mの範囲に収まるという小規模なものに過ぎず、同地区内には他にこれに見合うような地形は確認できません。また仮に地形と地名の要素等から推定するとすれば、隣接する滑川町に所在する水房館、あるいは大立山(標高112.7m、おおむらさきゴルフコース内に所在する比高差約60mほどの比較的広大な丘陵)などの方がはるかに相応しいものと考えられます。

訪城年月日
2006/12/01
訪城の記録 記念撮影

( 2006/12/01 )
地形要件は抜群ですが
 滑川町と嵐山町の境界に位置し、直ぐ東側には「水房館」が所在。 「越畑城」と同様に丘陵地帯のど真ん中を関越自動車道が貫通し、結果として丘陵としての地形が南北に分断。 周囲を谷津に囲まれた典型的な舌状台地ではありますが、歴史を感じさせるものは登口の脇にひっそりと佇んでいた優しい表情の元禄期の庚申塔(推定)の石像のみでありました。
 また、放光寺の西側に所在する比高差40m近い独立丘陵は実に魅力的な地形を形成しています。 最も比高差の少ない北東側の道路からでも目測で30メートル以上。 登り道のようなものは全くないものの、杉木立の斜面を枝打ちなどが行われているため比較的見通しもよいことから、沼の道路脇に駐車してそのまま直登し山頂へ。
 北西側はまたしてもこの地域特有の篠竹の藪に侵入を阻まれて、地形の確認には至らず仕舞いに。 それにしても市野川の河川敷から見上げる「格好の地形」にはなかなか目を見張るものがありました。


「太郎丸」(仮称) クリックで拡大します
放光寺西側の丘陵
画像クリックで拡大
( 2006/12/01 撮影 )
訪城アルバム
■1■北東側の関越道の向こう側の丘陵
 見事に南北に分断されています。かの「越畑城」もこのようにしてものの見事に南北に分断されたのでありました。
 こうした形式の歩道橋をよく見かけますが、その建設に要した経費総額を述べの通行人員で割ると...ちなみに車両の通行は途中の岩場の急斜面と凹凸の所在により原則的に難しそうでした。また1日あたりの通行人数は限りなくゼロに近い印象です。
■2■「堀跡」でも「土塁跡」でもない里道
 四駆の軽トラでかなり無理すれば走れるかもしれませんが日常的な生活道路を確保することが用地買収の前提条件だったのかもしれません。
 しかし、近年は山仕事も行われなくなった模様で、ここ数ヶ月は人や車が行き来した形跡は残されておりませんでした。
画像クリックで拡大します
■3■山頂部分の平場 画像クリックで拡大
 自然地形か、人工的なものか判断に迷う意外にひらけた平坦地ですが、北側斜面にはこの地域独特の植生である篠竹の藪が叢生しています。このため30メートルほど北西へと平坦な尾根筋を進んでいったのですが、そこから先へ体が入り込めませんでした。
 広さは幅約20m、長さ40m以上の規模を有しています。
画像クリックで拡大します
■4■麓に所在する名称不詳の沼池
               画像クリックで拡大 
 堰堤の長さが15m、北西20mあたりが三角形の頂点となる小さな沼池ですが、画像のように吸い込まれそうになるぐらい深いエメラルドグリーンの湖水です。
 「3」の山頂部から方向を間違えて駆け下りてくるとかなりの確立でこの沼池の中へと落ちる可能性があるので要注意なのであります。
■5■市野川の堤防上からの光景
 市野川が麓のすぐ近くを東流し、その河川敷から見上げる比高差は40メートル以上の独立丘陵で、北東約600メートルには「水房館」が所在していますが、要害としての条件はこちらの方が遥かに有利であると思われます。
■6■阿和須(あわす)神社
 独立丘陵の東側の滑川町に所在する水房村の鎮守で村社とのこと。元は「小山の台」(水房館の北側)にあったという伝承が遺されています。祭神は「息長足日売命」(神功皇后?)「品陀和気命」(応神天皇)「武内宿禰命」とのこと。
 また境内社の内の天神社は、社伝等によれば現在の中尾の慶徳寺に陣屋を置いたとされる旗本岡部玄蕃頭が勧請したものと伝わります。
交通案内

・放光寺西側の独立丘陵
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 


凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)
「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「滑川村史 通史編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史 民俗編」(1984/滑川村編集発行)
「滑川村史調査資料 第4集 旧羽尾村・設楽家・小沢家・小林家・上野家」(1980/滑川村村史編纂室)
「滑川村の沼とその民俗」(1981/滑川村村史編纂室)
「二本松市史 通史編(1巻)」(1999/二本松市)
「二本松市史 資料編(3巻)」(1981/二本松市)
  

・2007/01/20 HPアップ
・2008/09/30 説明等の追記

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