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金尾城(要害山城)
関連ページのリンク  2005/04/14の日記  花園城  花園御嶽城  鉢形城   
おすすめ評価
訪城季節5 遺構状態6 探し易さ5 交通利便5 体力消耗3 歴史経緯2 印象2 総合28
所在地
埼玉県大里郡寄居町大字金尾字要害山1203番地1ほか
歴史と沿革

■「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、金尾村の条に「要害山 金尾弥兵衛と云者居れりとぞ、今愛宕社を勧請す、因て愛宕山とも云ふ、小山なり」 とあるのみである。「町史」によれば、金尾弥兵衛は北条氏邦の家臣団の名簿である「鉢形北条家臣分限録」に記載されているとのことであるが、「分限録」は江戸時代になってから成立したものであり、長久寺本、正龍寺本などの写本が遺されているが、古文書との照合するとかなりの誤記があるとのことである。
 下記の「要害山城跡」によれば、金尾弥兵衛は猪股党の末裔で北条氏邦の家臣として最期の要害山城主であった可能性が強いとしている。また築城の時期については金尾氏の古い在地領主としての性格や山城としての簡易性・小規模性などから推定すれば16世紀の前半が想定され、また北条氏邦の命によるものとすれば甲斐の武田、越後の上杉に対する備えとして1560年代頃を推定している。

確認できる遺構
郭、竪堀、腰郭、このほかに土塁・馬出なども確認されているとのことですが良くは分かりませんでした。
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■西、北、東の三方を荒川が蛇行することにより進入は殆ど困難である。唯一のルートが現在県道82号線が通過する金尾峠からの道である。城郭は南西から北東に伸びる金尾山の稜線に沿って南西側から三の郭、二の郭と続き、二の郭と並列してその北側に物見台と思われる部分を含む本郭が配置されている。
 なお、外秩父山地の最北端に所在する金尾山山頂の標高は229mで、荒川の水面との比高差は129mとなる。

参考資料、古文書、
記録

「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「要害山城跡」(1998/財団法人 埼玉県埋蔵文化財調査事業団)
「寄居町史」(1986/寄居町)   

文化財指定
訪城年月日
2005/04/14
訪城の記録

( 2005/04/14 )
前回は悪天候で断念しましたが
 先月の3月28日、花園御嶽城のあとに天候不良のため訪城をあきらめた場所です。長瀞ゴルフクラブの隣の荒川を見下ろす尾根の先端に位置しています。
 結果的に順延してよかったのかもしれません。というのも、訪城した時はミツバツツジやレンゲツヅジなどの開花の時期に当たり、今度の大型連休あたりはかなりの見ごろになりそうで、またソメイヨシノやヤマザクラはちょうど見ごろとなっていて、ここでは完全に花見になってしまいました。これが前回の訪城の時ならば、城跡自体の見通しは良かったかもしれませんが、一輪の花もなくひたすら霧雨に濡れて、より風邪をこじらせた可能性もありますので...(^^;。
 本郭と二の郭付近は公園として整備されたいへん歩きやすいのですが、南側の三の曲輪のあたりは足元も見通しも悪く途中で探索を断念しました。やはり藪の状態から考慮すると厳冬期しかないようです。
 また、今回はデジカメの試し撮りも兼ねているために、植物の接写などをしてだんだん訪城の目的から遠くなってきたような状況になっています。
 しかし、元々趣味で始めた訳ですから、より広範囲で多面的な要素があった方が将来的に長続きしそうな感じもしますので、これも一つのやり方だと思っています。

Best Shot?


 それほど広くない主郭部分は樹木が伐採されていて展望台もあり眺めはよいのですが、斜面の土砂の流失が懸念されるようにも思います。
 石碑の素材も含めて緑泥片岩(結晶片岩)が主郭のあちこちに点在していましたが、金尾山自体が結晶片岩の岩盤で構成されているので、石積み跡と思われる部分もありますが、かなり崩れているので判断がつきません。
 ( 2005/04/14 撮影 晴 )
交通アクセス

・秩父鉄道波久礼駅から徒歩20分ぐらい。 MapFan Web の案内図です


( 2005/04/14 撮影 )

■金尾城への入口、というよりも金尾山つつじ公園への入口といったほうが分かりやすいかもしれません。
 臨時の立て看板には4月16日より5月17日まで「つつじまつり」と記されています。確かに、今度の大型連休の時は公称5000株にも及ぶつつじによって、全山極彩色に染まるのではないかと思われます。
 しかし、駐車場はこの県道の反対側に6台分ぐらいしかありませんので、連休中は路上駐車となってしまうのでしょうか。この道路のあたりに三の郭の堀切があったということですが、切通となった斜面はコンクリートで固められており、当時を偲ぶことはできません。
■野生のツツジの保護育成は、地元の方々を始め多くの人々の努力により維持されているということです。
■ヤマツヅジとヤマザクラの向こうに花園御嶽城が、ほんのちらりと見えるのですが。
■春の訪れを告げる「タチツボスミレ」の群落もあちこちに点在していますので、足の踏み場に気をつける必要があります。
 直径2センチにも満たない小さな花で、葉がハート型をしているのが特徴ということですが、その種類も多く詳しいことはわかりません。
■「タチツボスミレ」とほぼ同じような場所に自生する植物ですが、現在の所不勉強のため名称が分かりません。「キジムシロ」に似ていますが自信がありません。四月から五月に山野の明るい日向に生える多年草で、キジの座るムシロに喩えて呼称されているとのことですが。( 「花歳時記大百科」北隆館 )
■多分山ツツジかと。レンゲツツジだともう少し色が淡いはずなのですが。
■これらの5000株のツツジが満開となると確かに目を見張るものがあります。
■玉淀と鉢形城方面なのですが、春霞かスギ花粉の飛散の影響かわかりませんが景色がかすんでよく見えません。
 けっして、歳のせいではありません(^^;
■全山のツツジが開花するのはたぶん4月の下旬頃だと思われますが、すでに早咲きの品種は一部ですが満開となっていました。
 この写真はたぶん「ミツバツツジ」かと。
 主郭のある山頂の西側部分に展望台と並んで咲いていました。
■左のものを接写してみたものですが、それにしても見事な自然の色彩表現です。
 もうこのあたりになると完全に城跡そっちのけで、花見モードというかデジカメ接写モードに突入していました。
説明版の拡大へ
■主郭の平坦部分は東西10m、南北15メートルぐらいしかないので、主郭というよりも物見台のような機能を果たしていたのではないかと勝手に思っています。
 そういう意味では、この展望台は時代考証を無視して復元された櫓台といえなくもありません。
 尺木塀も設置されたりして....もしかすると鉢形城の工事のおまけかもしれませんが(^^)
■さほど広くない主郭には木製の結構頑丈そうな展望台が設置されていました。
 その是非は別として、展望台からは秩父往還を眼下に捉えて鉢形城、円良田城、花園城方面を見通すことができ、眺めだけはすこぶる一級品です。
■北側から見上げた主郭ですが、二の郭との境界がかなり分かりづらくなっています。
■金尾山の由来。二の郭には火除けの神である愛宕神社が祀られています。天文元年(1532年)に藤田左衛門佐重利が築城したとかかれてありますが、詳細は不明のようです。
■南側から見た二の郭と愛宕神社の社殿。
■東屋のある部分が主郭の南側にある東西20メートル、南北10mほどの腰郭状の部分。
 二の郭との区別がつきにくいのですが、よく見ると浅い堀切のようなもので分けられているようにも見えます。なお、「要害山城跡」では、元来一体のものであったとしています。
■北側から見た二の郭と愛宕神社。
■二の郭の北側にある竪堀ですが、大分埋まってしまっているようで、深さは約80cmというところです。
 先ほどの腰郭の西側にも縦堀があるのですが、藪や樹木が叢生してで非常に見にくい状態でした。
■先ほどの主郭南側にある腰郭の場所の更に南側にある腰郭風の平坦地ですが、自然の地形に遊歩道が設置されてたためにそう見えるだけのようです。
■石積みなどの跡が確認されている三の郭の北側部分ですが、踏跡も途中で消滅し足元もかなり悪そうなので、普通のスニーカーしか履いていなかったこともあり、それより先の探索は断念しました。
 
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