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武田信俊館
関連ページのリンク  2005/03/07の日記  奈良梨館  奈良梨陣屋  越畑城
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態3 探し易さ4 交通利便3 体力消耗5 歴史経緯3 総合22
所在地
埼玉県比企郡小川町上横田1215(輪禅寺の境内)
歴史と沿革

■「新編武蔵風土記稿」の記述によれば、上横田村は東は越畑村、西は高谷村、北は奈良梨村に接しとあるが、さほど広い地域でもないこの全ての村に中世城館跡が存在している。天正18年の後北条氏滅亡後、甲斐武田氏滅亡後に徳川家の家臣となっていた川窪(武田)新十郎信俊が翌年の天正19年に知行されたという。また、この地に所在する輪禅寺は、信俊が安養寺を長篠の合戦で討死した武田信玄の異母弟父武田兵庫頭信實の菩提を弔うために改修しその法諡にちなんで号したと伝えている。なお、信玄の甥に当たる信俊は始め武田姓を名乗っていたが、天正10年から甲斐国の所領地である川窪の姓を名乗ったという。
 「小川町の歴史 通史編上巻」によれば、信俊は18歳の時、家康に仕え小牧長久手の合戦、岩付城攻略、九戸政実の乱、関が原・大阪の陣と参戦し12名が任じられる大番頭の一人となり旗本軍団の頂点に上り詰めた。大番頭は、その配下に組頭4名、大番50名、与力10騎、同心20名を統括し、役高は5000石とされていた。(「岩波日本史辞典」より)なお寛文4年(1664年)、信俊の孫に当たる信貞の時将軍家光の命により武田姓に復したが、元禄10年(1697年)武蔵の所領が収公され丹波の所領に移され上横田との地縁は途切れるが、輪禅寺は菩提寺として幕末まで続いたという。 なお、「小田原衆所領役帳」には小川町周辺の所領についての記述が全く見られないが、これは後北条氏の支配が未だ浸透してない事情によるものらしい。

確認できる遺構
土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■旧鎌倉街道上道が市野川の右岸を走り、館跡はその1km西側に所在する。北側は市野川の支流新川が東流し南側は谷沿いに水田地帯が延びている東西に細長い丘陵地帯に位置している。低い丘陵であるにもかかわらず平地に突出しているため、北側の高見城方面や東側の越畑城方面の眺望は良い。
 輪禅寺境内に土塁跡らしきものが散見されるが、館・陣屋がおかれたことに関する明確な記録はなくそれらが当時の遺構かどうかは不明な模様であるが、後北条氏の支城のネットワークを考えると16世紀後半にすでにこの辺りに何らかの拠点が置かれていても不思議は無い場所ではある。

参考資料、古文書、
記録

・「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
・「新編埼玉県史 通史編2」(埼玉県/1988編集発行) 
・「小川町の歴史 通史編上巻」(小川町/2003編集発行)
・「小川町の歴史 資料編2古代・中世1」(小川町/1999編集発行) 読下し文・解説付で非常に親切
・「小川町の歴史 資料編1考古」(小川町/1999編集発行)
 中世考古学の視点からまとめられた中世遺跡の資料を多数掲載し、埼玉の郷土史の中で小川町に限るとはいえ、中世城館関係をこれだけ詳細に纏めてあるものは他に例を見ないといってよさそう。
・「小川町の文化財」(小川町教育委員会/2001年編集発行)

文化財指定
訪城年月日
2005/03/07
訪城の記録

( 2005/03/07 )
甲斐武田氏一族の館
 小川カントリクラブの北側の上横田の輪禅寺が館跡。甲斐の武田氏の庶流で武田氏滅亡後に徳川家に仕えた一族で武田一族の墓も50基以上と非常に多く、「新編武蔵風土記稿」などで、その開基も武田氏とされています。遺構としては寺の西隣の墓地周辺に二、三か所の土塁跡が部分的に残されている程度でした。北側の道路から見ると寺周辺が比高8mほどの一塊の丘陵地帯になっていることが分かり、地続きの西側の竹林の中に何かありそうにも見えたのですが、外側から観察した限りは何も確認できませんでした。
 館の北側は市野川の支流の新川が東流し、南側は深田となっており、東隣に建設されていた上横田会館の集会所付近も以前は館の領域に含まれていたのかもしれません。この場所は越畑城からも近く、越畑城の西側で市野川に合流する新川を遡及すると館の近くに到達します。越畑城方面からこちら側は視認しづらいのですが、逆にこちら側からは丘陵地帯がはっきりと確認できます。

Best Shot?



 曹洞宗輪禅寺の山門で、左側の松の木の枝ぶりもよく、石碑、石仏は殆ど近世のもののようですが絶好のロケーションです。皆さんもこの角度で撮影していますので、自分も右へ習い撮影してみました(^^;
 ( 2005/03/07 撮影 晴 )
交通アクセス

・東武東上線小川町駅下車徒歩30分、または東武バス上横田バス停留所より徒歩10分MapFan Web の案内図です


( 2005/03/07 撮影 )

■小川町指定の史跡となっている武田一族の墓などに関する説明版。
■輪禅寺本堂。浄財の箱は本堂の中に設置されていますが、参詣者のために30cmほどあいていました。
 浄財を投じお参りを済ませ、土塁と武田一族の墓の見学に。
■その上は墓地となっている本堂西側にある土塁状の遺構。高さは最大で2mぐらい。
■本堂の北側からは高見城(四津山城)もよく見えます。直線距離にして2.3kmほどの距離しかありませんが、かなり遠くにあるように感じます。
 北西1.5kmには近世大名となった諏訪頼水の奈良梨陣屋跡もあります。
■本堂北側の未だ少し雪が残る土塁跡。
■左の土塁を東側の側方から撮影。
■本堂北側の土塁はこのように二段構えになっているように見えますが。高さは内側で最大2.5メートル程度。
■武田氏10代にわたる墓石が長年の風雨により傾いたりしていたものを地元の方の篤志などにより昭和60年(1985年)に整備し直したという説明文が刻まれた石碑。武田氏は、この上横田の地にかかる新田開発を積極的に進めたという。
■武田氏10代とその縁者の墓。
■左に同じ。後ろに写っている丘陵の地形が気になります。
■輪禅寺の南側には、城館を築きたくなるような舌状台地がこのように広がっていました。遺構や伝承もないようですが、あまりにもふさわしい地形で...南側は国道のパイパスでその先は小川カントリークラブのゴルフ場となっていますが。
■館跡のある輪禅寺北側の道路から丘陵地帯を見上げる。南側の山門の方角からでは分かりにくいが、この方角からだと独立した丘陵となっていることがはっきりとする。
 
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