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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/03/31の日記 室山城 日野城(熊倉城) 根岸城 天神山城
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態6 探し易さ4 交通利便4 体力消耗5 歴史経緯2 印象4 総合29
所在地
埼玉県秩父市久那1959
歴史と沿革

敏桑館、嫩桑館、高根城...
 「秩父志」の浦山村の個所には、「高根城は字落合にあり、西南に高巌丈餘の巌聳立ち、その根下に平地方廿間の迹にて四方に石塁を遺し、通路より南行十丁にして至る、居住の人未知れず...」と記されています。現在敏桑館が所在する字落合は久那村であり、浦山村には所在していませんのでこのあたりの関係が複雑なことと、高根城の西南の地形の説明および付図を見る限り疑問が深まります。
 「新編武蔵風土記稿」の浦山村および久那村の項では、この館跡に関する記述は見られません。なお、敏桑館のすぐ北東の地域と思われるあたりを指しているものと思われますが、「土人いう往古岩田伊勢《現長瀞町の岩田の出身か》なる者、この辺に住居せしよし、實詳ならねど、上田野村小名殿間に住せし頃、故ありて北條家より所を払われ当村に来たりしとも云えば、その年代は推して知べし、村民龍五郎が家伊勢が末なりとて、今に此地を持てり、村中岩田氏を氏とするもの多し」と記されています。武蔵七党丹党の岩田氏とその後勢力を伸ばした猪俣党系の藤田氏は天神山城周辺における新旧勢力として、その支配地域が重なっていたことから興味深い記述ではあります。なお、当所の新井治兵衛氏の「嫩桑館」関連の著作によると館の主は藤田氏であるとされています。
 遺構の名称については「埼玉の中世城館跡」などでは「敏桑館(高根城)」とし、「中世の秩父」では「嫩桑館(高根城)」と記載しています。周辺の西側の地域には小規模な城砦に相応しい地形が点在しているので、このようなことを含めてこの敏桑館とされる館跡の歴史も未解明な部分が多く残されているように思われます。( 資料読込不足に付暫定版 )

確認できる遺構
石塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■館跡は荒川の流れが複雑に大きな蛇行を繰り返す河岸段丘上に所在し、周辺の地形は西側には山が迫り残りの三方には荒川が蛇行するという自然の要害を形成しています。、民家の北西の畑の境部分には高さ約1.2mから2m、総延長にして100mほどの長大かつ見事な石塁が、北東から南西方向にかけてほぼ直線状に残されていますが、純然とした石塁の遺構は40mほどの長さで残りの部分は石塁を含む土塁状の地形を呈しています。また、ほぼ直線にして3kmの真南の方角には標高705mにおよぶ室山城が浦山ダムの巨大な堰堤と共に聳え立っています。

文化財指定
訪城年月日
2006/03/31
訪城の記録

( 2006/03/31 )
シシ垣と石塁の違いは
 付近の公民館に車を停めさせてもらい徒歩にて探索。さて、凡その所在地は判明していたものの、なかなか直ぐにはそれらしい石塁が見当たらず。多分この民家の周辺のはずと当たりをつけて、北側から観察すべく集落の中の細い道路を左折。すると、確かに石塁らしき存在を確認。しかし、秩父地方は同様のシシ垣が結構あちこちに所在しているので、とりあえず一度通り過ぎてから北側の畑の方から拝見。するとやはり明らかにシシ垣とは異なる印象の高さ約1.2mから2m、延長にして100mほどの長大かつ見事な石塁を確認。
 「秩父志」のよれば、背後に山が迫り大きな岩塊が付近に所在するという絵図が付されています。しかし、現状の石塁はどう見ても荒川が大きく蛇行する段丘状の平坦な台地に所在し、さらに、この部分の記述との整合性が見られないことにやや違和感が。また。「新編武蔵風土記稿」では、直接具体的には何も触れられていないことも少しだけ気になりました。

記念撮影
敏桑館の石塁 画像クリックで少しだけ角度を変えた画像へリンク

 北東側から撮影した総延長にして100mほどの石塁ですが、民家の裏手のものと写真手前のものとでは、明らかに高さ、幅、構造など幾つかの点で異なっているように思われました。おそらくは近年まで補修整備されていたものと、余り補修されずに放置されたものとの違いがあるようです。
 高さは写真中央の北東側の隣家との境界付近が2m前後ともっとも高く、南西に進むほど石塁としての形態は整いますが幅も狭まり高さは1.2m程度となっていました。
      画像クリックで少し角度を変えた画像に

( 2006/03/31 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■桑畑と武甲山
 敏桑館は武甲山からみて北西に約4kmほどの地点に所在しますので、天気がよいとこのような光景が広がっています。敏桑館付近の風景を撮影したまでで特に意味はありませんが、その南側にはかつての秩父地方の主要産業であった養蚕と深い関わりを持つ「桑」の畑が広がっていました。
■2■南側の民家の裏側あたりから撮影したもの
 南西側の民家の裏手の長さ40mほどの個所は土で覆われて潅木が生育するようなこともなく、そのままの石塁として残されていました。
■3■石塁の上部の様子
 北東の墓地に近いあたりから撮影したもので、「記念撮影」の画像から分かるように途中までは土で覆われていました。しかし南側の先端の方はこのように土で覆われることはなく、石塁そのものとなっていました。手前の隣家との境界部分には90度の角度で短い土塁状の高まりが確認できますが形態から見て、より後世のものとなるのでしょうか。
■4■「3」の撮影地点と同様の位置から北東側の様子を撮影したもので、この時期にも拘らず冬枯れの藪が残り潅木も生い茂っているような状態です。このため石塁自体も大分崩れている個所が多いようなのですが、現状としてはあまり判然とはしない印象です。
■5■サクラには違いがなさそうですが...
 たぶんエドヒガンザクラかコヒガンザクラあたりかと思われるサクラが、敏桑館のすぐ近くの畑で咲き始めていました。サクラの代表格のソメイヨシノよりも幾分開花時期が早く花色もピンクに近いのが特徴のようです。
 しかし本来は開花期に緑色の葉も開くはずなのですが...ということで、もしかすると別の種類かも知れません。
交通案内

・県道72号線、秩父市役所久那出張所(久那公民館)および秩父市立久那小学校の東側
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「埼玉県史 通史編1古代」(1987/埼玉県)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)、
「埼玉県史 資料編5中世1古文書1」(1982/埼玉県)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編7中世3記録1」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本)
「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」および「秩父風土記」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)
「皆野町史 通史編」(1988/皆野町)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父の文化財」(1990/秩父郡市文化財保護協会) 

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