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城館跡の名称
関連ページのリンク  2006/02/13の日記 日野城(熊倉城) 諏訪城 宮崎城 寺尾城 永田城 金仙寺城
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態7 探し易さ5 交通利便4 体力消耗4 歴史経緯2 印象4 総合30
所在地
埼玉県秩父市下影森
歴史と沿革

滋野刑部の居城か
 「新編武蔵風土記稿」では、「...これは北条氏邦の臣、滋野刑部と云るものの居住せし屋敷なりと云う。天正十八年鉢形落城の時、このもの裏切りせしと云。その子帯刀遂に農民となり、大宮郷に居住せしが、今はその家退転すと云。土人この屋敷跡を長者屋敷と云伝う...」と記されています。同稿掲載の絵図には秩父札所26番岩井堂とその周辺の景観が描かれていますが、その中で「シロ山」と記されている平坦地が明記されているのがどうやらこの根岸城に相当するようです。
 また「増補秩父風土記」(高橋家文書-皆野町)では「根岸城 滋野刑部 これは大宮大平つづき」と記されています。
 しかし、「秩父志」では根岸の里についての由来などが記されているものの、この「根岸城」についての記述はありません。しかし、岩井堂の所在する場所が字大沼であることを記し、「秩父志巻之一目録 武光荘属村志表」の影森村の項において「大沼城」と記されている部分がありますので、ことによるとこの根岸城の別名とも考えられますが推定の域を出ません。
 別名を滋野氏屋敷滋野氏城長者屋敷などとも。

確認できる遺構
郭、腰郭、堀切、犬走、土塁
構造的特徴および
周辺の地理的特徴

■南北にのびる100mほどの細長い尾根筋を堀切り4か所ほどの郭を縦に並べた連郭式の山城。東側と南側は自然の峻険で深い谷に阻まれているため、北側と西側の尾根続きに対する防御を意識した構造となっています。
 「新編武蔵風土記稿」の下影森村の屋敷跡の記述によれば、「村の南あたり険しき山にあり。登ること十町余にして平地三反ばかりあり。段ごとに切堀などありて、一区は百坪ばかり、一区は三十坪ばかり。東南の方はもっとも険しくそばだち、西の方へも攅峯打つづき、ただ北の一方ひらけて表口と見えたり...」と堀切や主郭と二の郭に相当すると思われる内容が記されています。
 また郭の配置状況から北側の尾根筋が大手と考えられていますが、なお、主郭の広さは東西10m、南北30mほどの規模ですので、山上に籠城できる人員は多くとも100人を超えることは無さそうな印象です。また、秩父盆地の眺望は武甲山の山懐となるために北側と西側方向に限られています。

文化財指定
訪城年月日
2006/02/13
訪城の記録

( 2006/02/13 )
会社の敷地の中を抜けて
 秩父34ヶ所の札所めぐりの番外となる岩井堂がルートの途中に所在し、城跡自体への道もハイキングコースとして至れり尽くせりの状態で整備されています。所要時間にして上り40分、下り30分程度ですが、谷筋の300段以上もある石段、様々な石仏、岩井堂のから続く痩せ尾根状に所在する観音像、謂れのある岩塊、修験堂、揺れ動く鉄製の階段といろいろ城跡以外の見所も多く退屈をしません。また、眺望も優れ存在感と威圧感のある武甲山は進行方向に位置し、後ろを振り返ると秩父盆地が一望できます。このため40分程度の登り時間はさほど長くは感じませんでした。この城跡自体が武甲山から西側に派生する尾根筋の先端部分なので武甲山の一部で正に山懐という表現が正鵠を得ます。
 城蹟自体の遺構規模はそれほど大きなものではありませんが、主郭を始めとする複数の郭、堀切、腰郭などがそれほど大きくは改変されずに存在していました。仮にマイナス要因を敢えて挙げるとすれば、城跡に行くのに昭和電工の会社のゲートを通過しないといけないということぐらいでしょうか。

記念撮影



 二の郭南端から本郭と堀切を眺めた構図で、城跡全体の規模は南北方向に100m足らずの小規模なものですので、どこと無くこの写真のようにミニチュアの山城のように見えてしまうようなものになってしまいました。
 また徒歩3時間程度の琴平ハイキングコースの山頂となっている割には、城郭としての防御性の問題は別としても、よく城跡としての特徴が遺されているという印象でした。

( 2006/02/13 撮影 晴れ )
訪城アルバム
■1■登口
 琴平大神社の麓の鳥居のある右手の道から徒歩で登っていきます。なおこの右手の奥に所在する駐車場は神社や岩井堂の参詣者用として設置されていてざっと10台近くは駐車可能なようです。ただし、春先の季節を迎えて温かくなってくると札所めぐりの観光客が増えると思われますので土日祝日は満車の可能性もあるかもしれません。
■2■石灯籠と地蔵
 岩井堂の谷沿いの道の左右には所々に古い石仏などが所在し単調な登坂もさほど苦にはなりませんでした。
■3■どこまで続く石段
 岩井堂への谷筋の道はすぐにこのような石段の坂道となります。年配の札所の参詣者に配慮して真ん中には頑丈なステンレス製の手摺が設置されていました。なお石段の数は途中に踊場のような平坦地があるもののざっと320段以上はあるという話です。上りはともかくとして、下りの時は大分お世話になりました。
■4■尾根上の分岐
 さて、石段をやっとの思いで登りきるとこの稜線にでます。左へ進めば岩井堂・長者屋敷(根岸城)、右へと進めば札所27番竜河山大淵寺となり、駐車場からの距離でいえばだいだい城跡までの中間地点に相当します。
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■5■秩父札所26番 万松山円融寺岩井堂 画像クリックで拡大
    秩父市下影森348番地(秩父市指定史跡)
 岩壁の途中に建てられているために京都の清水寺のように谷側に向ってせり出すような構造となっています。後ろの東側には枝越しには飯盛山につづく堂々とした武甲山の姿も見えて宗教的信仰には余り縁がないものの自然と敬虔な心持にさせてくれます。 肝心の城跡への道は以前は岩井堂の脇を通り抜けて尾根筋へと続いていたようですが、岩塊の崩落の危険があるとのことで現在は岩井堂の手前を左に折れてから岩井堂の頭上の尾根筋へと登っていきます。
■6■
 岩井堂の裏側の大きな岩山の途中には禅僧が修行したと伝えられる斜面に突き出した岩塊やブロンズ製の観音像などが所在します。そこから少し進むとこの秩父修験道の堂宇に到達します。ハイキングコースを兼ねる城跡への山道はこの堂宇の中を通過し、幾分揺れ動く軽量鉄骨製の階段を利用して一度比高差にして20m近く下ります。
 この階段がないと岩山を越えるのはかなりの困難が伴うようで、まさに修験道の世界かと。
■7■痩せ尾根上の「岩」
 特に謂れや由緒のあるものではなさそうでしたが、腰掛けて小休止するのに丁度良い窪みがありましたのでこれ幸いと一休み。岩井堂の尾根筋から先は多少のアップダウンを繰り返しながらこうした痩せ尾根上を進んでいきます。
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■8■城跡に到着 画像クリックで拡大
 岩井堂から20分足らずで城跡の下部に到着。城跡の手前の尾根筋は樹木の枝が多いので遠くからでは城跡の形状を望むことが難しいようです。なお、右側が南の郭で左側が本郭。この堀切もしくは竪堀状と思われる坂を登ってとりあえず南の郭へと向いました。
 最近でこそ、こうした地形について何とか山城の跡として認識できるようになりましたが、2年前までだったらおそらくただの尾根筋上の鞍部としてしか見えなかったかも知れません。
■9■南の郭
 北側の堀切部分以外は写真の通り急斜面であるため土塁などの痕跡は見当たりませんでした。幅5m、長さ10mほどの小さな郭です。
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■10■通称飯盛山 標高945m 画像クリックで拡大
 武甲山から西側に派生する尾根筋に所在する特徴的な形をした山ですが、地形的な関係からかこの部分を残してその向こう側も左側の部分も石灰岩の採掘が進行しています。南の郭から眺望できる頭上に被さってくるような錯覚さえ覚える印象的な景観です。稜線を目を凝らして見てみると採掘が全山に及んでいるのがよく分かります。
■11■主郭
 ハイキングコースの解説板は所在するものの「城跡」の説明が全く無いのが寂しくもあり不思議な感じがします。確かに「石垣や天守閣」はありませんが、複数の郭や堀切などがしっかりと遺されている戦国時代の頃のものと推定されている山城なのですけれど。主郭上の中ほどにはハイキングコースの休憩施設として東屋が建てられていますが、城跡自体が大きく改変されている印象はそれほどありませんでした。
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■12■主郭と二の郭を分ける堀切 画像クリックで拡大
 現状では主郭側で高さ2m、二の郭側で1.5mほどの深さがありました。なお、堀切られた土がそれぞれの郭の先端部分に土塁のように積まれている形跡も明確に残されています。当時に比べて堀切の深さや鋭さが減じているとは思うもの、果たしてこれぐらいの規模の堀切が現実問題としてどの程度実戦において役立ったのかどうかということについては些か疑問が残ります。
■13■二の郭
 主郭の半分くらいの広さで幅8m、長さ15mほどの広さです。
■14■腰郭
 二の郭から北西の尾根筋に所在する人が3人もいれば満員となるような複数の小さな腰郭です。
■15■三の郭 
 煮の郭より2.5mほど下位の北側に所在し二の郭の腰郭ともいえなくも無い5m四方程度の小規模なものですが、下の「16」の堀切がこの北側に続いています。
 
■16■北側の堀切
 左の三の郭側で深さ2.5m、右の物見台風の細長い郭側で1m弱の深さが確認できます。
■17■物見郭
 「16」り堀切の北側に続く幅5m長さ20mほどの細長い形状の物見台のような郭で堀切以外の三方の斜面に切落とされたような形跡が感じられます。
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■18■武甲山山頂 画像クリックで拡大
 山頂そのものでさえ石灰岩の採掘で削り取られてしまいましたが、秩父地方のその象徴的存在は不変のようです。冬の枯枝越しに眺めると採掘跡の痛々しさが幾分和らぐようにも見えたのですが...
交通案内

・琴平神社駐車場から上り40分、下り30分程度。
・石段やちょっとした岩場があるものの階段などが設置され、よく整備されたハイキングコース。できることならトレッキングシューズ装備で。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸参考資料
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)、
「新編武蔵風土記稿」(1981/雄山閣)、「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「秩父郡誌」 (1972/秩父郡教育会編)大正13年出版の復刻本、)、「中世の秩父」(2001/秩父地区文化財保護協会)
「秩父志」(「埼玉叢書」の国書刊行会より出版された復刻本より)、「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「皆野町史 資料編3」(1981/皆野町)「増補秩父風土記」を所収 

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