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アクセスお礼申し上げます。  素人の趣味のため思い込みと間違いについては平にご容赦を。  お気づきの点などございましたらご教示いただければ幸いです。  
関連ページへのリンク  2007/03/04のブログ 杉山城(旧版) 越畑城 二ノ宮山
おすすめ評価
訪城季節4 遺構状態9 探し易さ5 交通利便5 体力消耗5 歴史経緯2 印象5 総合35
所在地
埼玉県比企郡嵐山町大字杉山字雁城
歴史、人物、伝承

発掘調査によりその謎は深まる
 従来は後北条氏による越後上杉、武田氏などに対する支城群のひとつとして想定されていましたが、近年実施された発掘調査の成果である「埼玉県指定史跡 杉山城跡 第1・2次発掘調査報告書」(2005/嵐山町教育委員会)などに記されるように、出土物や火災跡などの分析から15世紀末から16世紀初め頃の一時的・臨時的な城郭であるとの考古学的見解が示されました。天正18年の豊臣秀吉の関東侵攻では鉢形城や武州松山城などの大規模支城に兵力が集中され、この杉山城を始めとする比企郡に所在する中小の城郭群が直接戦乱の舞台となることはなかったことが結果的に遺構の保存状態の良否に関係しているとも考えられますが、城郭として形式は戦国時代後期の影響を受けているものという考え方も有力でその謎はさらに深まるばかりのようです。

凸関係する歴史上の人物
 昭和28年に建立された記念碑によると、その当時は比企十郎家成、金子十郎家忠、小高隼人貞次、杉山主水などの城主が里伝されると共に源経基の「狹服山城」とも伝えられていたとのこと。然し「埼玉県指定史跡 杉山城跡 第1・2次発掘調査報告書」(2005)によれば、その背景となるべき資料的根拠は不明とされています。
 なお、「小田原衆所領役帳」(佐脇栄智 校注/1998年刊行/東京堂出版)によれば庄式部少輔、およびその嫡子とされる庄新四郎が相模国において、夫々33貫500文と141貫612文の知行を与えられていることが確認できます。なお佐脇氏の「解説・補注」ではその本領は相模国中郡小野であると記されています。

確認可能な遺構
本郭、南2の郭、南3の郭、出郭、馬出郭、東2の郭、東3の郭、北2の郭、北3の郭、井戸郭、帯郭、腰郭、土塁、空堀、小口、井戸跡ほか多数
地理的特徴

元来の地形は要害とはいえないような
 杉山城の南西側には天然の要害として市野川が流れると共に、標高100m弱の丘陵自体は比高差にして50m近い急斜面を形成している個所も見受けられます。然しその一方で北西から南東方向にのびる尾根筋の地形は至って緩やかな斜面であり、加えて北東方向にのびる尾根筋も南北に谷が刻まれているもののどちらかといえばなだらかな地形となっています。こうしたことから本郭を中心として北西、北東、南東側に合計10ヶ所もの郭や複雑な構造を有する空堀などの防御施設が構えられたものと推定されます。

文化財指定
埼玉県指定文化財 1946年3月29日指定
訪城年月日
2007/03/04
訪城の記録 記念撮影

( 2007/03/04 )
整備保存の努力に感謝
 国の史跡指定申請前祝と同行者の希望を兼ねて正式には2度目の訪城。 尤も前回は2004年の9月15日なので約2年半ぶりかと。
 以前との大きな違いは、
 @各郭ごとに手作り風の解説板が設置されたので、現在自分がどの個所に居るのが非常に分かりやすくなっ  た。
 A季節の違いと合わせて、竹林などの伐採がすすみ城郭としての地形の特徴が手に取るように把握できる。
 B以前は東側の郭は雑草のためその地形的な特徴が全く分からず仕舞い。しかし今回は草が蔓延っていないので東郭の地形が明確に確認できたこと。
 C北側の2ヶ所の郭および搦め手方面の見通しが大きく改善された。
  このようにして遺構としての保存状態の良さが改めて再認識されました。
 いずれにせよ、まさに「杉山城保存会」「嵐山町教育委員会」の方々の努力の賜物。 通称大手口の備え・仕掛けの固さも実に分かりやすく同行者と共に感動。 余りに嬉しかったので当初の予定をオーバーして何と3時間近くも滞在し、堀底道や郭配置の複雑な構造を心ゆくまで堪能。
 なお最近の発掘調査の結果によれば、戦国時代中頃の16世紀初頭までの一時期しか利用されなかったとの考古学的考察が公表。 しかし遺構の保存状態から想定するかぎりでは、16世紀末あたりまで松山城の支城として活用されていても良さそうにも思える次第。
 さて今後は見通しのよくなった分、郭・土塁の崩落や空堀・堀切の埋没などの対策などの適切な管理が課題となっていくのでありましょう。 なお、帰りがけに「お城ML」のメンバーの方に偶然遭遇。 また日曜日ということもあり、そのほかの見学者の方もちらほら。 やや汗ばむくらいのポカポカ陽気でしたが、風もなく絶好の訪城日和なのでありました。

杉山城の本郭と東郭 クリックで拡大します
出枡状の本郭土塁と2段からなる東側の郭
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( 2007/03/04 撮影 )
訪城アルバム
画像クリックで拡大します。(別画像を含む)
各遺構の呼称は「埼玉県指定史跡 杉山城跡 第1・2次発掘調査報告書」より引用させていただきました。
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凸1 出郭から大手口、外郭方面
 あらかじめ4ヶ所のブロックに分けて撮影記録のメモを取りながら、この後延々3時間以上も滞在。撮影した画像は合計にして129枚。然しメモには125枚分しか記載がなく..このあとでHP編集に苦慮することになるのでありました。
凸2 出郭の北側土塁
 以前の訪城では竹木の陰に隠れて存在が分からなかった遺構のひとつで、こうしてみると低いながらもL字型の土塁が50m以上の長さにわたって残されていることが分かったのであります。

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凸3 出郭北西部の武者溜り付近
 この辺りはこのように草刈りされていないと只の叢としか見えなかったのでありましたが、現実にこのような地形が隠されていようとは..再訪した甲斐がありました。
凸4 大手口手前付近
 地元の方がいらしたので先ずはご挨拶を。このあと、暫し世間話などをさせていただきました。
 画像クリックで現地解説板の画像へリンクします。


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凸5 大手口と外郭(奥)
 画像「38」の古い写真と比較すると、長髪からいきなり坊主頭になったような変容ぶりなのでありました。いずれにしても地面の形状を明確に認識できるというのは嬉しいものです。
凸6 馬出郭付近の堀底道
 「14」の仮橋はこの高さをに架かっていますので、一応それなりの心積もりが必要かもしれません。

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凸7 大手口付近
 正面部分の窪みは本来外郭東側の土塁部分であり、外郭への小口部分は多分この現地解説板の図に示されているように左手の斜面を登った辺りに相当するはずです。
凸8 外郭
 南側から撮影したもので周囲を土塁に囲まれた構造が確認できます。この画像ではある程度広く見えますが、実際には南北方向約50m東西方向約20mほどの規模で、「9」の画像のように真ん中で括れているために凡そ800uほどの面積となります。

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凸9 外郭(手前)と南3の郭の土塁(右側)
 屏風折の屈曲の工夫が見られる南3の郭東側の土塁と空堀部分。
凸10 外郭の帯郭(右側)及び南2の郭と堀底道
 以前には直接目にすることはできなかった構造で改めてその技法に感心する次第であります。然し誠にに勝手ながらその一方でここまできれいに伐採されていると、何故か見てはいけないものを見見てしまったような些か気恥ずかしい心持になってしまうのであります。

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凸11 外郭帯郭(手前)から本郭、東2の郭方面
 右側の平坦地が東2の郭で、正面が本郭の出枡状の土塁部分かと。なお、左側は南2の郭北東側の張り出し部分のはず。(この辺りが一番記憶が薄れて..)
凸12 南2の郭付近
 この辺りの個所も竹木の伐採整備がすすみ、お蔭様で随分と見通しが良くなりました。

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凸13 南3の郭から馬出郭への土橋部分
 南3の郭側は比較的単純な坂小口ですが馬出郭への連絡部分は細い土橋でつながり、その両脇には深い空堀が構えられています。
凸14 馬出郭(手前)外郭(中央)南3の郭(左側)
 相変わらず外郭と馬出郭を結ぶ孟宗竹を並べた構造の橋は些か沈み込むとともにバウンド気味のスリルを再び味わせてくれるのでありました。

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凸15 南3の郭空堀南側
 左側は馬出郭から続く非常に細長い形状の帯郭で、右側の斜面が南3の郭の急斜面。
凸16 南3の郭空堀先端
 正面の部分で堀底道は行き止まりとなりますが、その個所が帯郭から南3の郭への西側からの傾斜のきつい坂小口となっています。

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凸17 南3の郭西側小口
 西側の帯郭から比高差6m近い坂小口を形成すると共に、左側の南2の郭南側の土塁上から横矢がかかる構造を有するため実際の高低差以上の地形的な威圧感を感じます。
凸18 井戸跡
 本郭南西直下に所在する直径2mほどの井戸跡にはご覧のような巨石が鎮座し、とても分かりやすい目印になっております。このすぐ北側はやや浅めの竪堀で分断されてはいますが、そのまま帯郭状の地形が続き本郭北西小口および北2の郭へと続いています。

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凸19 東3の郭(手前)より東2の郭と本郭
 以前訪れた時には城跡めぐりを始めたばかりということもあり、夏草が膝の高さくらいまで繁茂し全く地面が見えないため足を踏み入れることに躊躇した経緯がありました。ところが今では幸か不幸か背丈よりも高い篠竹の密生した竹薮へと突進するという習性が身についてしまったのであります。
凸20 東2の郭の先端から本郭方面
 比較的平坦な東側の緩やかな尾根筋を防御する役割を有していたと考えられますが、平地との比高差が30mほどしかないという地形としての弱点を補うには必ずしも十分とはいえない印象が。以前訪れた時には、東の郭の両側の谷は谷底に竹や杉が密集し暗くよく見えないほど深く感じていたのですが、このように伐採されると思いのほか浅い谷筋だったのでありました。

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凸21 北2の郭(手前)から本郭および東郭方面
 以前の状況は木が生い茂りこちら側からは本郭方向を望めるとは予想だにしなかった構図。今回東の郭方面から実際に歩いてみて、帯郭状の細長い地形で連絡されていることを確認できたのは大きな収穫のひとつ。
凸22 北2の郭から本郭
 北2の郭は東西方向約20m、南北方向約40mほどの規模で本郭側が幾分高まりが見られますが土塁跡と即断するにはかなり微妙な地形でした。北3の郭を含めてこの北側の部分で見る限りは比較的単純な連郭式の構造となります。

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凸23 北3の郭へ続く個所
 左側に竪堀右側に北3の郭との境となる堀切の役割を兼ねたような規模の大きい空堀が所在します。

凸24 北2の郭の枡形小口の外側部分
 手前の「蔀土塁」と向こう側の郭内の土塁により形成されている枡形。(北3の郭側から撮影したため、実に分かり辛いのであります)

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凸25 屏風折をなす西側の防御
 本郭のと北2の郭の西側部分の斜面には屏風折の見られる土塁と空堀が総延長100mほどにわたって廻らされていますが、この個所は元々の丘陵の傾斜がやや緩くなっていることから普請されたものと推定されます。

凸26 北2の郭と北3の郭の間の空堀
 上記の画像「24」の蔀土塁を取り囲むように廻らされた空堀で、この終端部分は「東の郭」の北側に所在する谷筋へと繋がっています。
 なお、この手前部分に折の付いた腰郭状の地形も所在し北2の郭の東側部分を防御する構造となっているようです。

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凸27 本郭北側の堀切
 本郭側については約8mほどの比高差を有し威圧感がありますが、堀底が埋まっているにしても左側の北2の郭部分については堀切の堀底との段差が少ないことに多少の違和感が残ります。
凸28 本郭北西側小口
 左右の空堀と頭上に所在する横矢掛りの土塁により防御された坂小口。また本郭付近では2本の竪堀が備えられると共に南西の丘陵自体の傾斜が最も急勾配を形成しています。

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凸29 本郭の城址碑と解説板
 昭和28年に建立された記念碑によると、その当時は比企十郎家成、金子十郎家忠、小高隼人貞次、杉山主水などの城主が里伝されると共に源経基の「狹服山城」とも伝えられていたとのこと。
 然し「埼玉県指定史跡 杉山城跡 第1・2次発掘調査報告書」(2005)によれば、その背景となるべき資料的根拠は不明とされています。
凸30 本郭土塁上から見た東の郭
 杉山城の写真画像としては、このように本郭東側土塁上からの眺めが最も絵になりやすいようです。
 本郭の広さは東側の出枡部分や南側の突出部分などを含めると東西方向が最大で約40m、南北方向で約70mほど。然し複雑な形状をしていることもあり土塁部分などを除く有効面積は2千u強の規模ですので、多く見積もっても2百人が籠れるかどうかという程度の広さと考えられます。

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凸31 本郭東側小口
 形状自体は比較的単純な坂小口となっていますが、この地点まで到達するには常に側面からの攻撃を受け続けるため容易ならざる損害を覚悟を迫られるのであります。
凸32 本郭東側小口
 石積みが確認された本郭東側の小口で北側(左側)の出枡形の土塁上から横矢がかかる構造となっています。

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凸33 本郭南側小口と井戸郭
 この小口部分は井戸郭、南2の郭、本郭などにより四方を囲まれた堀底道を登らなくてはならない構造となっています。
凸34 南2の郭から眺めた本郭南側の突出部分
 手前の南2の郭部分から本郭南端の土塁を伴う突出部分を撮影したもので、左側には「31」の井戸郭も写りこんでいます。

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凸35 杉山城遠景
 杉山城の南西側は市野川の天然の要害と共に比高差50m近い急斜面を形成。一方、北西から南東方向にのびる尾根筋の地形は至って緩やかな斜面。加えて北東方向にのびる尾根筋も南北に谷が刻まれているもののどちらかといえばなだらかな地形。この点に関しては北西約4kmの地点に所在する高見城の方が遥かに山城としての要害に相応しい立地条件を有しています。
 もしも仮に、「埼玉県指定史跡 杉山城跡 第1・2次発掘調査報告書」などに記されるように、15世紀末から16世紀初め頃の一時的・臨時的な城郭であるとの理由付けを求めるとするならば、二ノ宮山から俯瞰されてしまうことを含めた地形的な条件も含まれるとも考えられます。
凸36 二ノ宮山から見た杉山城方面
 展望台を含めると153メートルとなる二ノ宮山からの眺めは杉山城、谷津城、を始めとする付近の城館群は視線の遥か下方に。なお、遠くの山並みは奥武藏の主脈である笠山、堂平山方面でその手前に腰越城、青山城も見えている筈
 このようにしてみると、二ノ宮山からは弱点部分をさらけ出したその全容が俯瞰されるという丸見えの状態であったことが改めて確認されたのでありました。このことから450年ほど以前となる当時における城館の竹木の植生状況というものは果たして如何なものであったのかいよいよ謎が深まるのであります。
          (この画像は2006/12/18撮影分)

以下のものは2004年9月15日に撮影させていただいたものです。
画像クリックしても拡大しません(汗)
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凸37 発掘中の本郭東側小口(郭内より)
 たまたま2004年の発掘作業当時に撮影したもので、その後「埼玉県指定史跡 杉山城跡 第1・2次発掘調査報告書」(2005)にて報告されている通り小口部分には明確な石積みが存在していました。
凸38 大手口付近
 「1」および「5」の画像と比較すると明らかなように、訪れた季節の違いもありますがこの当時はご覧のように雑草などが元気に生育していただけではなく、樹木も相当に繁茂し全体の構造がかなり掴みにくい状況でありました。

交通案内

・嵐山町立玉ノ岡中学校西側の比高差50m弱ほどの丘陵。
・東武東上線武蔵嵐山駅より徒歩約30分。関越自動車道嵐山小川ICの南側直線約500m。
いつもガイド の案内図です 地図サイトいつもガイド 

凸地誌類・史書・古文書などの記述
■新編武蔵風土記稿
 比企郡杉山村の項に
「村の中程にて、小高き丘の上の千五百坪(※約5千u)ばかりの地をいう。一説に往昔金子十郎家忠の、居住なりしといえど詳らかならず、又の伝えに中古上田氏の臣にて庄主水(或いは杉山主水とも)という者住せし所とも云えり、按に隣村越畑村にも庄主水が居住の地(※越畑城)あり、これ当国七党(※武蔵七党)の内、児玉党の庄権頭廣高、庄太郎家長等が子孫などにや、又北條家人にも庄式部少輔、庄新四郎の名見えたり、若しくはこれらの一族ならん」一部注記を加えて便宜上現代文に表現)
 と記されています。なお、遺構が存在する部分の総面積は凡そ3万uほどと推定されますので、千五百坪との表記はどう考えても明らかな誤りであるとものと考えられます。
 なお、
■武蔵志
 杉山村の項に(加筆)(城)と付された上で「古■連山ノ■(頂−「越畑城」の記述から当方が勝手に推定しました)ニ在 上■(田−加筆)氏ノ臣杉山■■■(主水カ住セシト云−加筆)と記されているのみで、「新編武蔵風土記稿」の記述と比べて遥かに簡素な内容となっています。

凸主な参考資料
「埼玉の中世城館跡」(1988/埼玉県教育委員会)
「関東地方の中世城館」2埼玉・千葉」(2000/東洋書林)
「中世北武蔵の城」(梅沢太久夫 著 2003/岩田書院刊)
「埼玉県史 通史編2中世」(1988/埼玉県)・)
「埼玉県史 資料編6中世2古文書2」(1985/埼玉県)
「埼玉県史 資料編8中世4記録2」(1986/埼玉県)
「埼玉県史 別編4年表・系図」(1991/埼玉県)
「新編武蔵風土記稿」(1996/雄山閣)
「武蔵国郡村史」(1954/埼玉県)
「角川日本地名大辞典11埼玉県」(1980/角川書店)
「埼玉県史 資料編10近世1地誌」(1979/埼玉県)より「武蔵志」「武蔵演路」など
「歴史ロマン 埼玉の城址30選」(西野博道 編著/2005/埼玉新聞社)
「戦国の城」(藤木 久志 監修・埼玉県立歴史資料館 編集/2005/高志書院)
「嵐山の中世」(嵐山町博物誌第五巻 嵐山町1997年発行)
「杉山城保存管理計画書」(1992年嵐山町教育委員会発行)
「嵐山町史」(1983年嵐山町編集発行)
「埼玉県指定史跡 杉山城跡 第1・2次発掘調査報告書」(2005/嵐山町教育委員会)
 

・2007/07/06 HPアップ
・2007/07/06 誤字の訂正と一部記述の追加

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